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スカーレットの魔法譚  作者: Minty オーロラ
第三章 リスタート
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第89話 スカーレットの力Ⅱ

「さあ、澪音・スカーレット。これで一対一だ」


 ジャケットの埃を払いつつ深呼吸し、克哉は正面から澪音を見据えて観察する。


緋紅(スカーレット)(・フェイズ)……君の中に隠れたのが、まさかこれとはな」

「なんで誰も彼も、僕本人より僕の能力に詳しいんだよ!」

「でも今のところを見た感じだと、その魔法はまだ君のものになってない。借り物の力だ。なら君は、僕に勝てない」

「勝つ必要なんかないさ……」


 冷淡な一言を吐き、澪音はゆっくりと顔を上げる。

 花弁のような緋紅の魔力が周囲に湧き、切断された<赤羽>の欠損部分を瞬く間に修復した。


 体内を流れ続ける尽きない魔力を体感しながら、澪音は強く両拳を握り込み、


「僕たちは、一緒に負ければいい」


 語尾が落ちた刹那、澪音の足元から眩い紅光が広がった。

 試験室の空気は透明なままで、床は冷え、蛍光灯の光も相変わらず惨白だ。

 それなのに、音もなく拡散する魔力が薄霧のように空間の隙間へ染み込み、場を微かな赤で覆っていく。


「……っ?」


 その驚きに理由を与える前に、克哉が真っ先に注視したのは周囲の変化ではなく、澪音の表情だった。

 対面の顔にも同程度の驚愕で、能動的に魔法を使った形跡は見えない。


(ただの魔力の漏出、ってやつか)


 と、心の内でそう結論づける。

 魔法使いの魔力が過剰に膨れ上がれば、結果は大きく二つに分かれる――放出できずに身体を壊すか、あるいは余った分を外へと流し出して均衡を取るか。

 目の前の澪音の様子は、一見すると後者の典型に見えた。


 ――ただし。


(いや、この空気……どこか気に食わない感触がある)


 克哉は眉間に皺を寄せ、指先に魔力を集めると、弧を描くように手首を振り抜き、さきほどと同じ半月の弧刃を投げつけた。


 銀光が空気を切り裂き、風切り音を伴いながら、真っ直ぐに澪音の顔面を目指して飛ぶ。

 美しい軌道。文句のつけようのない精度。無駄は一つもない。


 それなのに、澪音は一歩も退かない。

 頭を傾けもせず、手を上げもせず。まるで『避ける』という選択肢そのものが存在していないかのように。


 そして、弧刃は逸れた。


 鼻先まであと握り拳一つ分――そこまで迫ったところで、弧刃は何かに触れたようにわずかに軌道を変え、肉眼では捉えきれないほどの細い角度で外側へ弾かれる。


(本体は動いてない……のに外れた?)


 一秒ほど、思考が空白になる。

 克哉は反射的に自分の掌へ視線を落とした。

 そこでは、<銀月・裂輪>の魔力が不自然に揺れ、平行にずれている――実力者なら起こりえないはずの不安定さだ。


(……この場が、僕の魔力の安定性に干渉してる?)


 克哉は素早く結論へ至る。

 自分を包み込むような、あの薄い緋色の結界を見回し、見えない手を睨む――乱暴ではないのに、他人の魔法をずらせる手だ。


 さっきも、無形の力が弧刃を一ミリ押し退けた。

 たった一ミリで十分。『当たる』を『当たらない』に変えるには。


「なるほど……」


 低く息を吐き、克哉の声色は目に見えて冷たくなる。

 その判断が固まったのとほぼ同時に、澪音が動いた。


 助走はない。余分な構えもない。

 緋色の双翼が猛然と開き、羽縁の鋭い光がはためいた瞬間、暴風の壁がまるで怪物の咆哮のように実験室を揺らす。


「――――」


 澪音が一歩を踏み出す。床の破片がその足元から跳ね上がり、前傾した身体とともに<赤羽>が振り抜かれる。


 あまりにも速い。

 重槌のような一撃は、ターゲットを粉砕しかねない重さを孕んだ。

 そして何より厄介なのは、その感情だ。


(さっきまでと、速さも重さも桁が違う!)


 克哉には分かる。澪音の眼に『お前を叩き潰す』と告げる意思が映り込んでいる。


「ちっ――!」


 地面を強く蹴り、全身に魔力を絡ませて、衝撃を少しでも軽減する。

<銀月・裂輪>で正面から受け止めるなど、できない。

 接触で瓦解させられるとはいえ条件がいる――『触れる』その瞬間が必要だ。だが、この速度と圧力の前で接触すること自体が、肉体ごと粉砕される危険とほぼ同義。


 だから、瞬時に選び取ったのは、


「<銀月・月幕ルナ・ヴェール>!」


 銀光が爆ぜ、克哉の輪郭が一瞬で何十にも増えた。

 前後左右、上から下まで、虚実が入り混じる。

 微妙な時間差をつけて滑るように動くそれぞれが、どれも本物にしか見えない。


「分身?!」


 ほんの一拍、標的を見失う。

 その一瞬の驚愕が澪音の心臓を震わせ、猛攻は空を切った。


「見かけによらず、僕もサメラさんと同じ任務部門で『精鋭』って呼ばれてるんだ。さて、そろそろ反撃させてもらおうか」


 言って、分身たちの群れに紛れ込んだ本体が、唇を歪めて一笑し、指を鳴らす。

 号令を受け取った分身たちは、一斉に脚に月光を纏い、澪音へ殺到する。


(さあ、見つけられるものなら見つけてみなよ)


 慌てた澪音が翼で分身一体ずつ刺す、その狼狽な姿を、克哉は胸の奥で嘲笑を漏らした。


 魔法使いの世界で、特殊魔法の使用者は多数派ではない。既知の特殊魔法の中でも、分身効果まで持つものはさらに稀だ。


 実際、分身という言い方は正確ではない。

 月光の魔力で作った、目と脳を欺く偽像だ。実体はなく、ただの幻影。


 克哉の経験では、初見の相手は誰であっても必ず惑わされ、動揺する。<銀月・月幕>は、そういう魔法――


 ……のはずだった。


「ぶはっ!」


 突然、克哉の得意顔は一瞬で消えた。

 次に来たのは腹部の激痛で、見下ろしてようやく気づく。いつの間にか拳へ変形した<赤羽>の一撃が、容赦なく命中していた。


 血が喉から噴く。

 衝撃で身体は後方へと吹っ飛び、床を転がる。本体が傷を負った途端、分身の動きはすべてぷつりと途絶えた。


「ば、馬鹿な……どうしてこんな早く本体が分かった。運が良かった、なんてレベルじゃねえ……あの野郎!」


 罵声を吐き捨て、克哉は早速に立ち上がり、再び分身の群れへと姿を溶け込ませる。

 分身全部を使って高速で位置をシャッフルし終えると、また間髪入れずに新たな突撃を仕掛けた。


(落ち着け……あの精度の一撃が、ただの運のはずがない)


 本来なら、この一手で大抵の相手は『どれを狙うべきか』という軸を失う。

 しかし、さっきの澪音の動きがどうしても引っかかる。

 雪辱に燃える心をひとまず脇に置いて、よく観察してみれば、確信はますます強まっていく。


 何故なら、少年の瞳孔はまた、赤く染まったからだ。


「不思議だな……こんなにはっきり見えるなんて」


 克哉の推測どおり、澪音の視界に映る世界は、すべてが緋色の中に沈んでいた。


 壁も、床も、宙を舞う埃も、流れる空気さえも、深紅の水に沈められたように色を奪われ、音もどこかくぐもって聞こえる。

 そんな景色の中では、魔力から生まれた分身は重みを失い、紙片みたいに薄く、光の影みたいに空虚だ。


 ただ一つ、銀色の輪郭だけが異様に鮮明に浮き上がる――群れの中で、克哉の本体が直接照らされていた。


「そこだぁぁ――!」


 大喝が落ちた瞬間、<赤羽>が狙い澄ました標へ叩き込まれる。

 風圧が爆ぜ、緋色の羽根が空気を裂き、分身たちを次々に貫いて霧のように消していく。


「やっぱり、そういう仕組みか! それも緋紅相の魔法ってわけだ!」


 追い詰められた克哉は連続で歩法を変え、靴底が床を擦る「ギッ」という音を立てながら、致命域を辛うじて外し続ける。


 認めざるを得ない。

 分身ではもう騙せない。

 だから幻影をすっぱりと解除し、さらに極限の回避に特化した行動へと移る。


「<銀月・円舞曲>!」


 周囲の時間が、一拍だけ遅れたような錯覚が生まれた。

 肩をすらし、腰をひねる――克哉の一連の動作が、襲い掛かってくる<赤羽>の一撃を、紙一重で服や髪先でかすらせて躱す。


 だが、ようやく戦闘のテンポを取り戻したと思った矢先――


「かっ!」


 横顔に、針で刺されたような鋭い痛みが走った。

 飲み込んだ呻吟が喉で痙攣し、思わず頬へ手を当てると、指先がすぐ温い血液で濡れる。


 視線の先、極細の羽根の一片が壁に深々と突き刺さっている。その震えは、単純な掠り傷で済む威力ではない。


「なんだよこれ……痛ぇな……」


 はっきりした痛覚が、克哉の頭を冷やす。


 澪音の攻撃で、本格的に傷を負わされたのはこれが初めてだ。その羞恥に、克哉の表情から残ったのは冷酷な色だけ。


「……わかった」


 唇の端を舐め、両目に冷光を点滅させ、


「なら、こっちも遠慮はしない」


 疾走の途中で腕を返し、二本の弧刃を放つ――先程と同じ<銀月・裂輪>の仕業だが、そこに込められた魔力の密度は桁違い。


 直後、変化を起こした。


 二つが四つに、四つが八つに――。


 銀光は爆発的に増殖し、無数の回転弧刃となって、澪音の正面を完全に覆い尽くす、雨に似た密度の弾幕になって降りかかってきた。


「やべっ!」


 思わず顔を引きつらせ、反射的に双翼を掲げて盾にする澪音。

 ただし、失敗の前例と澪奈の警告が脳裏で反響する。


『<赤羽>と<銀月>の相性は最悪だ』


 これだけ密度の高い攻撃を、<赤羽>で防ごうとすれば破壊されてしまうし、普通の回避ではすぐに袋小路に追い込まれてしまう。


 ――これは避けるための攻撃ではなく、殺すためだけの攻撃だった。


 ただ、その危機を理解したまさにそのとき、澪音の意識は不思議な現象に引きずられた。


 緋色に染まった視界が、ひゅっと横に伸び、縦に広がる。


『自分以外の、世界のすべてが遅くなった』


 時間そのものが減速したかのように、分身を見破った時と同じ感触。弧刃の回旋、帰還のルート、刃縁の角度が一望でき、必死の弾幕に通り抜けられる一本の筋がだんだん見えてきた。


(……これもスカーレットの力ってやつかよ。こんなことまで)


 感嘆が胸に芽生えた瞬間、頭痛が鉄杭のように澪音の側頭へ打ち込まれた。

 右目から一筋の血がすべり落ちる――器が無理やり裂かれていく、警鐘である。


「くそっ……もう少しだけ、持ってくれよ!」


 今使っているのは、魔法石から借り受けている力だ。

 身体はまだ器にとって脆弱で、その魔法も偶然と勘で引き出された。


 未知が多すぎる。

 掘り起こすべきものは山ほどある。

 ただ一つ確かなのは、この状態が長くは続かない、という事実。


 もたもたしていれば死ぬ。

 考え続けていても死ぬ。

 ならば、まだ力を保てているうちに、前へ進むしかない。


「はぁああああ――!」


 頭を振って雑念を切り、澪音は踏み込み、銀色の弾幕の中へと飛び込んでいく。


 壁際を滑り、膝を畳んで低空の弧刃を回避。

 風圧を借りて半歩跳び、交差する二枚の弧刃のわずかな隙間を通り抜ける。


 キィン――


 背後で銀光が次々に弾ける。

 壁には切り傷が刻まれ、床には白い軌跡が縦横に走る。

 それでも澪音は常に一線だけ踏み越えず、かろうじての差で刃を避け続けた――まるで緋色の運命そのものに押し出されているかのように前進した。


 距離、ゼロになる。


 克哉の目前へ滑り込んだ瞬間、<赤羽>が猛然と開いた。

 これだけの至近距離では、全部の魔力を一撃に叩き込む、ただの粗暴な終止符だ。


「<赤羽・ファウスト>!」


 回避の可能性を潰すほどの範囲が、克哉の逃げ場を覆い尽くす。

<銀月・円舞曲>でも間に合わない。普通の人間は勿論、魔法使いであってもただでは済まない。


(さすがスカーレット。よく、ここまで)


 そう胸中で呟き、克哉は迫る両翼を見据え、敗北を受け入れかける……


 ……それは、対応策がない、の場合だ。


 命中の一髪千鈞、克哉は手を上げた。

 二指を揃え、前へ線を引くと、指先で墓碑の刻痕が燃え上がるみたいに、銀色の紋章が灯る。


「<銀月・鎮霊(レクイエム)>」


 魔法名とともに放たれた白光が、澪音に触れた。

 刹那、少年と<赤羽>の動きが同時に硬直する。深い冷気が、他の感覚が何かを感じるよりも早く脳の芯まで染み込み、双眸を蒼白にする。


(変だ。なんで、僕自身を見てる……?)


 答えを、澪音はすでに知っていた。――アデルと初めて遭遇した時と重なる強い既視感、魂が肉体から抜けたのだ。


 そして、なぜ二度とこの状態に陥ったのかを考えるより早く、意識は強い引力に引かれて遠方へと引きずられていった。

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