第19話 『心の部屋』
「うるさい……」
昏迷していた精霊は、突然の爆発音で耳を痛めた。硬物にぶつかったため、今覚醒しても頭がまだぼんやりしていた。
「あっ、澪奈、大丈夫?」
心配そうな、優しい顔が視界に広がった。
澪奈は身を起こし、周囲の状況を確認する。
場所は先ほど隠れた後庭。だが、まるで天災が襲った後のように、地面には大量の葉や花弁が散乱した。
小柄な自分は、跪いたミスティーに抱えられている。赤色のワンピースには埃や泥の汚れが見当たらず、恐らくミスティーが守ってくれたおかげだろう。
「なんとかねぇ……それよりセラフィンさんの傷はどうだった?」
人間の体型は澪奈の目には大きく見えるため、気づかないわけにはいかない。
包帯が血で真っ赤に染まり、ミスティーの刀傷はまだ完全に止血しなかった。
「私は平気よ。少なくとも致命傷ではないし、今はほぼ動ける」
「ふう……よかった……」
再び轟音が耳に飛び込んできた。
ほっと一息ついたばかりの澪奈は、昏倒前の記憶断片が急速に蘇る。
正気を失った澪音に脅されたこと、そして暴風に襲われたことが、一瞬で思い出された。
「そうだ! マスターはどうなった?」
焦りの声を上げ、不安な目線がミスティーと交錯する。
「まさかサメラに……」
「そんなことないよ。ほら見て」
幸い、その不安は現実にはならなかった。深呼吸した後、ミスティーが指差す方向を見る。
そこは、グラウンド、耳障りな騒音の発生源。
地面に戻った少年と刺客が再度激烈な戦闘を繰り広げた――否、それはもはや戦闘とは呼べない。
巨大な双翼を操り、澪音は高速で連続攻撃をサメラに仕掛けた。翼と地面の衝突が毎回土埃を巻き上げ、半径五メートルの範囲内で震動を引き起こす。
防御側のサメラは、魔力がほとんど尽きた状態で最も効果的な攻撃手段を失った。残りの体力を頼りに、辛うじて剣で最低限の防御を行う。
ただし、それも一方的な暴虐に対する無力な抵抗に過ぎない。
「澪音……」
澪奈は無意識にその名前を低く呟いた。
現実を受け入れる準備がまだできていないかのように、唇を噛む。
そうだ。こんな簡単に納得するわけがない。
契約精霊として、マスターが正体不明の物質に侵食されることを許すなんて、まさに失職だ。ただの弱気な表現。
「ん?」
けれど、今は自己嫌悪に浸る時ではない。
精霊族特有の尖った耳がピンと立ち、不意に遠くから聞こえてくる校舎の喧騒、人々の足音を捉えた。
混ざり合う不快音が、風海高校の不気味な雰囲気を一変した。この突然の変化が何を意味しているのか、それは自明だった。
「<ティマ>が、解除された……」
平坦な口調で、澪奈はミスティーに伝えた。
「なんでわかったの?」
「聞こえた。食堂の方から声が。皆、元に戻ったみたいだ」
「道理で、サメラもさっきから魔法を使っていない」
ミスティーの声色は、精霊少女と同様に冷静だった。
全力を尽くして、時間刺客を止める最初の目的が達成されようとするのに、情動を見せることなく。
「澪奈、迷者たちの動きは把握できる?」
「うん。詳しい理由はわからないけど、生徒や教師全員が北の大きな建物へ向かい始めているようだ」
「不幸中の幸いと言うべきか……でも、事態は面倒になってきたね」
「ええ……」
心中、複雑な感情が渦巻いた。
喜びは、サメラの悪行がここで終わり、皆が自由を取り戻したこと。
苛立ちも、その本来なら祝うべき理由から。
それは――、
「迷者に魔法を見せるわけにはいかない。そうじゃなきゃ、私は魔法使いとして失格だ」
「私もだよ」
二人を暗黙の合意に導いたのは、『魔法使いの不文律』を守る本能。
現写世と魔法郷で共通のこの規則は、『魔女狩り』の後に生まれたものだ。
迷者たちに魔法の存在を忘れさせるために、現写世に残った魔法使いも、魔法郷に住人も、規則を裏切らないと誓った。
その中、最も重要な第一条――『迷者に魔法を発見させること禁止』。
理由は簡単、大多数の魔法使いは納得していた。
魔法の存在が明らかになれば、迷者はこの力を憚るだろう。当時の悲劇がきっと、再演される。
だからこそ、学校の関係者に魔法を目撃されることは、ミスティーにとって失敗だ。
「澪奈、澪音を戻す方法を考えなきゃ!」
澪奈の両手をしっかりと握り、ミスティーは『頼む!』という意思を込めた眼差しを送る。
時間がもうあまり残されていない。
戦闘が終わらない限り、時間が経つごとに迷者に目撃されるリスクが高まっていく。
むしろ、攻撃による余波が今まで誰にも気づかれなかったのは、ある意味奇跡だった。
そして、この事態を終わらせる決定権は澪音本人にもサメラにもなく、彼と契約を結んだ精霊にある。
「全力でやってみる! でも、少し時間がかかるかも……」
顎に手を当てて答えた澪奈は、考え込んだ。
「何か策があるの?」
「うん、そんなところよ。でもまず、マスターに影響を与えたその魔力を解析しないと。それから対策を考える」
「何をするにしても、急いでね」
「わかってる。じゃ、セラフィンさんは?」
「私はここで待機。何か起きた時、対応する人が必要でしょ?」
「うん。それじゃ、行ってくる」
澪奈はそっと頷き、目を閉じて明鏡止水の心境に入る。身体が徐々に透明な霊体に変わり、最後には粒子となって現世から消えていった。
(待っててね、澪音。今、助けに行くから。でもその前に、君の『心の部屋』に入ることを許して)
双眸が改めて開かれた時、そこは純白の空間だった。
純粋な心を反映したかのように、余計な装飾は一切なく、絶対的な静寂が支配するシンプルな立方体の部屋。
視界の端には一つだけ、茶色い木製の扉が目立った。
ここは契約精霊が現世にいない時の居場所、澪音の認識による意識空間、心の具現化――『心の部屋』。
不要な雑音を遮断し、生き物の真の感情を表す聖域として知られている。
一刻も無駄にできないと、小さな緋色翼を羽ばたかせながら扉まで飛び、それを開けた。
面前、約百メートルほどの紫紅色水晶で舗装された道がまっすぐに延びる。廊下の両側、幻想的な七色の微光が灯っている。
その先には、別の『心の部屋』へと続く鉄扉があった。その背後から、暗く不純なエネルギーが感じる。
「やっぱり、問題はあそこに……」
沈着に自分に言い聞かせても、心配は隠しきれない。汗が頬を伝い、澪奈は無意識に速度を上げて廊下を進んだ。
「結構長いな……澪音、まだ心を閉ざしているのか……」
絵画に匹敵する風景が続き、その美しさは絶品としか言いようがない。だが、この特別な通路に関して言えば、それは必ずしも賛辞ではなかった。
スカーレットと契約精霊の『心の部屋』を繋ぐこの道は、お互いの思考、感情、魔力の伝達を許す。その長さは、二人の心の距離を象徴する。
つまり、信頼程度だ。
澪音の心に到達するための長い道のりを感じた澪奈は、胸の痛みと罪悪感に苛まれ、鼻腔に苦味を感じた。
暗愁の途中、彼方の光が次第に暗くなっていく。路面の結晶もまるで活力を失ったように、その輝きを消えた。
ほんの数秒の出来事だった。
澪音の『心の部屋』から漏れ出した漆黒の液体が、扉の隙間から溢れ出し、瞬時に通路全体を覆い尽くした。 唯一残った色、それは永遠に続くかのような暗闇。
「えっ、これは……?」
驚愕の余り、澪奈は足を止めるしかなかった。
全てがあまりにも速く、あまりにも突然に起こった。気づいた時には、もう暗闇の精神世界で方向を見失っていた。
「後ろも、消えた……」
当然、戻る道も見えなくなった。そもそも今、東西南北さえ分からない環境にいる以上、どんなに優れた方向感覚も無意味だ。
「レェェェーン――! いるよねぇぇ――! 聞こえるでしょ――!」
「聞こえるでしょ――! でしょ――! しょ――」
心底からの叫喚も、返ってくるのは虚ろな反響音だけ。
「嘘でしょ……あと少しなのに……」
諦めずに『心の部屋』消失前の位置へ飛び、澪奈は右腕を伸ばしてこの空間に裂け目を作ろうとする。
物質という概念は、ここには存在しないようだ。
何を掴もうとしても、何を壊そうとしても、何も感じられない。触感も温度も、全てが無意味だった。
「ここなの?! ここか?! あそこか?! それともここ……ここ……」
声は枯れ、喉の痛みと腕の疲労感だけが現実的だ。 いくつもの方向を試して、もう自分でも覚えていない。
もはや訳がわからない。
「なんだよ……澪音はどうして……これは一体なんの黒魔法なんだ……」
その場に滞空しながら、涙が零れ落ちた澪奈。
彼女の瞳には一瞬の絶望が映った。
未知な魔力が唯一の道を封鎖している。スカーレットの心をこんなにも強く影響する魔法など、千年生きた精霊の知識にも存在しない。
澪音の異変について、無数の可能性が頭を過った。全てが、修復可能なものだ。
解決方法を見つける、絶対――だが、それは彼の心に入れることが前提。
と、その瞬間――、
「ふふ、君が澪音ちゃんの契約精霊なの? 役に立たない奴みたいだね」
若い女性の声が、この誰も入れないはずの空間に響き渡った。
「まったく、役に立たない奴だ」
強調するために、女性はもう一度繰り返した。
澪奈は根拠のない指摘に不快感を覚え、問い詰める。
「誰?! 私の澪音の意識空間で何をしている?!」
「ふん! 私の澪音だって?」
女性は鼻で笑い、音量を上げた。
「まるで澪音ちゃんが君の所有物みたいに言うのね。無関係者よ」
と同時に、澪奈の前に光の粒子が集まり、球体を形成した。人間の形に変わり、精霊少女の体型に合わせて縮小された。
光が弱まると、女性はようやく正体を現した――褐色の半長髪、可愛い八重歯、七色のドレスを身にまとっている。
見た目だけだと、彼女の成熟した声と若くて清純な顔を連想しにくいだろう。
「あっ、あ! それは言い間違いだ! 今のなし!」
誤魔化しながら、澪奈は眼前の彼女を解析する。
魔力反応からして、澪音の暴走に関わる魔法と深い関係があることは間違いない。
黒幕でなくても、少なくとも事情を知っている人物だった。
とはいえ、その無害な外見には一瞬驚かされた。現れるのはもっと恐ろしい怪物だと思ったのに。
「いずれにしても、今の話を聞き流してはいけないわ!」
澪奈は左手を腰に当て、毅然とした態度で女性を指差し、
「私は無関係者じゃないわ! ちゃんと名前があるんだ! 澪音の契約精霊であり、一生のパートナーである澪奈なの!」
「つまり、寄生虫ってことね」
「なっ?! きっ、寄生虫……」
初対面の女性の毒舌に圧倒され、精神的優位を失った澪奈のアホ毛が、傷つき怒った感情に反応してピンと立ち上がった。
「ふむふむ、なるほど。寄生虫なら理解できる。どうりでその服装のセンスが変なわけ」
「うぐっ!」
「地味顔」
「ガビーン――」
「能力も全然ダメ、全く無能だわ! だから澪音が危険に陥るのね」
「かかかっ……かっ……」
一連の悪口に唖然とした澪奈。反論の理由は山ほどあったが、頭の中は相手の批判でいっぱいだった。
「……ひっ、ひどい……そんなに悪く言わなくても」
「事実だが」
「……あなた……一体誰なの?」
女性は一歩前に進み、敵意に満ちた視線で澪奈の黒瞳を見つめた。
「私は美紀。澪音ちゃんの護り手よ。これでわかったかしら、この人生破壊者」
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