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スカーレットの魔法譚  作者: Minty オーロラ
第三章 リスタート
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第95話 リスタート

 いろんな意味で、今夜は不眠の夜である。


 霧都書店の密室に到着した直後――。

 ほとんど休む間もなく、フェニックスは『アクアリス結晶』で現写世(シルファス)魔法郷(ベルソウ)を繋ぐ転送ゲートを開き、カリナを留守番に回して、ノクラン王国へ緊急帰還した。


 結局のところ、フェニックスが『救出行動を禁ず』という王室命令に背いたのは疑いようがない。

 しかも、十分な調査へ踏み込む前に、SMP組織の研究所を一つ、直接破壊してしまった。


 長い目で見れば、この行動は組織をより慎重にさせ、調査難度を引き上げるだけでなく、魔法使いの二派が迷者の世界で争っている事実を、表に押し上げる危険すら孕む。


 SMP組織にとっては痛くも痒くもないのかもしれないが、ノクラン王室がこういう無謀な賭けを好まないのは確かだった。


 だからこそ、向こうで待つのが重い処分だと分かっていながらも、フェニックスは迷いなく戻った。

 事態を迅速に報告するためでもあり、そして、受けるべき罰を正面から受け止めるためでもあった。


 一方、霧都書店から一キロほど離れた交差点で黒雪榛と別れたあと、澪音たちも家へ帰った。とはいえ、疲労を引きずった身体で玄関を跨いだ時刻は、すでに朝の六時半だった。


 木曜日。間もなく陽光が町を照らし、誰もが新しい一日に身を投じていく――そのはずなのに、この通りでだけは、彼らの生活リズムが周囲と真逆の方向へズレていた。


 キッチンに灯りが点る。

 汚れの染みついた戦闘服を脱いだミスティーは、簡素な部屋着に着替えて食卓に座り、コンロの前で忙しなく手を動かす澪音をじっと見つめていた。


「ありがとう。服、貸してくれて」

「気にすんな。サイズ、合ってる?」

「ちょっとふわふわするけど、着心地は悪くない」


 空色の半袖シャツに、格子柄の寝間着ズボン。本来は澪音の古着で、少女が着ると少しばかり大きく、どこかぶかぶかして見えた。

 普段は制服が主で、それ以外の時も魔法郷の中世風ドレスに慣れている。

 そう考えると、現写世の服を着るのは、ミスティーにとってこれが初めてだ。


「ならよかった……そうだな、君にちゃんとした服、今度買いに行かないとな」

「私が持ってきたのじゃ、だめ?」

「絶対コスプレだと思われる。期末が終わったら月渚に頼んで、商店街に連れてってもらうよ」

「へぇぇ、澪音が連れて行ってくれるのかと思った」

「ファッションのセンスがない僕に選ばせるって……勇気あるな。あっ、もう少し待って。すぐできるから」


 カップ麺の外装を破り、かやくを入れて湯を注ぎ、澪音は心の中で時間を数えた。三分後、湯気の立つ朝食をミスティーの前へ差し出す。


「なに、これは……?」

「カップ麺。エナジーゼリー以外だと、僕が一番食べてるやつ。さあ、食べてみて」

「確かに、魔法郷では見たことがない食べ方ね」


 スープの香りが鼻先にまとわり、ミスティーの食欲を刺激する。

 頬に沿って垂れる銀髪を耳にかけてから箸を取り、麺と野菜を持ち上げながらふっと息を吹き、そして口へ運ぶ。


「……ん?!」


 もちもちの食感と不思議な味が、一気に口の中でほどける。

 未知の美味しさに、ミスティーは飲み下した瞬間、頬にそっと触れ、細めた双眸から幸福と満足が溢れ出た。


「おいしいぃ! 信じられない、これが澪音の作ったものだなんて」

「出来合いだから、僕が作ったってほどじゃないけど……気に入ったなら、よかった」

「ずるずる……澪音は食べないの?」

「僕はいいや」


 一晩の苛烈な作戦を越えたのに、澪音はなぜか空腹を感じていなかった――さっきの行動がまだ尾を引いているのかもしれない。

 軽く首を振り、棚を開けると、中のカップ麺を宝物みたいにミスティーへ見せた。ざっと四十個。醤油、豚骨、海鮮、そして自分の一番好きな黒にんにく味まで揃っている。


「まだ食べたいなら遠慮しないで。ストック、いくらでもある」

「そう。じゃあ、せっかく言ってくれるなら、もう一杯!」

「えっ?」


 驚く間もなく、澪音の視線はカップへ落ちた。さっきまで湯気を上げていたカップ麺が、瞬きのうちに空になっている。


「食べるの早っ! お腹、壊すぞ……」

「うーん……これは確かに美味しいけど、なんだか、少し物足りない気もするの」

「素材の味はそのままに、具を足すのも王道だよ」

「そう? じゃあ次は、黒水スライムとモンキー獣の肉を合わせて食べようかな」

「え、ええええ……」


 魔法郷の奇妙な食材の名を聞いただけで、澪音の顔色はさらに陰り、不安が濃くなる。

 以前も、ミスティーにそそのかされて試したことがあった。味自体は意外と悪くなかったのに、出来上がった見た目が完全に闇料理で、日本育ちの男子には刺激が強すぎた。


「またあの便利料理セット?」

「うん。探してみる」


 冷蔵庫を開け、少女が中をあれこれ漁る。

 だが、動きがふと止まり、「これ、なに?」と独り言をこぼして取り出した器の中にあったのは食材ではなかった。

 淡い茶褐色の煮汁が少しだけ、じゃがいもと牛肉に薄く絡む――ひどく素朴な肉じゃがである。


「私が出ていった夜、こんなのなかった。澪音が作ったの?」

「え……いや、それは……あぁ、まあ、一応」


 料理に自信がなくて誤魔化すつもりだった。が、少女の瞳に期待が走ったのを見て、澪音は結局、歯切れ悪く認めるしかなかった。


「本当は、君が帰ってきたら一緒に食べようと思ってた。でも今は……やめとく……はは。君が、あんな目に遭ったあとでこんなの食べさせられないし……お湯、沸かしてくる」


 澪音の声に混じった自嘲と自己否定は、ミスティーにも伝わった。

 目の前の少年がどれほど料理が不得手で、どれほど炊事を避けたがるかは、短い同居生活の中で十分に知っている。

 最初に取り決めた『交代で料理』は結局、自分が作ることが多かった。


 その澪音が、いま自分のために料理を作った。そこに含まれる気持ちは、言葉にしなくても察せてしまう。

 だからミスティーは、しばらく黙ったあとで澪音の衣襟を掴み、口元をわずかに持ち上げ、


「いいの。私、これを食べる」


 電子レンジで温め、澪音は肉じゃがをミスティーの前へ置き、隣の椅子へ腰を下ろした。

 煮汁は細かな油を浮かべ、淡い金茶へと色が変わった。それでも、澪音の評価は『食べられるだけ』程度に留まる。


「……美味しいとか、期待すんなよ」


 当時は動画を見て作ったとはいえ、相手の期待を下げたくて、澪音は小さく含むように言った。


 中学の家庭科の点数は惨憺たるものだった。以来、インスタントと冷凍食品が相棒だ。

 そんな自分の『庶民の舌』で悪くないと思えた料理を、ミスティーが受け入れられるのか――そういう緊張で、澪音の膝は小刻みに震える。


 一方で、ミスティーは彼の視線をいったん無視する。ゆっくり噛み、丁寧に味を確かめてから飲み込んだ。

 そして――、


「うん……正直、味が濃い。それに、じゃがいもが柔らかすぎて、肉が少し硬い」


 至極真っ当な評価だ。

 自覚がある澪音は黙り込み、落ちていく気分を悟られたくなくて視線を逸らす。だけど、その瞬間に見えた光景が予想外だった。


 ミスティーはまだ一口、また一口と肉じゃがを口へ運び、汁の味を口内で反芻するみたいに食べる。まるで、本当に味わい、楽しんでいるかのように。

 完食して箸を置くと、澪音へ浅い笑みを向け、


「――でも、私はけっこう好きよ」


 澪音の記憶で、出会って以来のミスティーは、笑顔が多いタイプではない。

 学校でも、外でも、二人きりの時でさえ、笑ったとしても場を繕うためのもので、どこか冷たく、感情の温度が感じられなかった。


 けれど今のそれは、浅い笑みでも虚飾も隠しもなく、銀髪少女の本当の気持ちを映す。

 長く隔たった距離が、ずっと前から築かれていた『一人でいい』という壁を互いに押し倒したあとで、ようやく縮まり始めた――そんな感覚が、確かにそこにあった。


「セラフィ――」


 語尾が終わる前に、澪音は温かい感触を頬に受けた。

 横を見ると、ミスティーはもう左肩へ頭を預けている。ほんのり赤みの残る瞳は閉じられ、静かで、心音さえ聞こえそうなほどだった。

 警戒をほどき、ようやく安心した証拠。


「ねえ、澪音」

「なに?」

「助けに来た理由、聞いてもいい?」

「……き、君、分かってるだろ」


 二人とも答えを知っている質問。

 澪音は気まずそうに顔を背け、遠回しに話題を退けた。


 他人の前でなら、ミスティーの受けた不当な扱いに対して本心を口にするのは、案外自然にできた。

 なのに、相手が本人となると、なぜか急に羞恥が勝ち、言葉が喉の奥で詰まる。


「うん。でも、あなたの口から聞きたい」


 その稚拙な回避を、ミスティーは直球の一言で断ち切った。

 花蓮から聞いた話だけでは足りない。そこには本心がなく、温度のない説明があるだけ。

 確かめたい。自分の理解と同じなのか。

 それを澪音の口から聞こえてきたら、意味を持つ。


「……ほんと、拒否させる気ないよな」


 澪音は横目でミスティーの表情を窺った。

 湖面みたいに静かな顔。追い詰める気配はなく、ただ返事が来ると確信して待っている。


 彼女がそこまで『聞きたい』と真っ直ぐ言った以上、ここで『言わない』を選ぶのは、あまりにも格好悪い。

 そう腹を決めた澪音は「ふぅ……」と深く息を吸い、照れを追い払いながら、心底の言葉を引きずり出した。


「正直、君のこと、最初はあまり好きって印象じゃなかった。自律的で、真面目すぎて、僕の正反対だったから。でも、だんだん気づいたんだ。君が裏に隠してる孤独に……僕と、同じだって」


 初めて密室へ向かった時、薄く察した。

穢血(ファウル・ブラッド)』という言葉を聞いた瞬間に見せた、ミスティーの心の砕け方と嫌悪は、演技で作れるものではない。

 夢の中でアデルが両親の話題に触れた時、澪音が感じた拒絶もまた、隠せない本能だったのと同様だ。


「あの時、自身の勘違いかもしれないって思った。でも、君と一緒にいる時間が長くなるほど、感じ取る孤独の気配が強くなっていった」


 澪音の直感をさらに裏づけたのは、学校でのミスティーの人付き合いだった。

『迷者と魔法使いの相互不信』を理由にしてもいいし、友だち作りが苦手だと言い訳してもいい。だが、本当の原因は一目で見抜ける。


 冷淡な態度で他人の接近を遮るのは、孤独な人間の防衛機制だから。


 澪音には、それが痛いほど馴染んでいた。


「なんか、君と似ているね、ずっと一人で歩いてきた。僕は七年前の事故で両親を失って、セラフィンさんは十二年前に親しい人をサメラの襲撃で失った……でも、僕が一番苦しくて、絡まってた時に、秋風と月渚がそばにいてくれたんだ。守るために絶交だって言ったのに、二人は捨てなかった。だから、王室が君を助けないって聞いた時、僕は……胸が痛んだ」


 フェニックスが助けを求めて来たことは、最後の藁になった。

 ミスティーの中に、澪音は自分の影を見た。孤独で、怖くて、それでも表に出さない。

 同情しない。彼女は同情を要らない。

 もし本当に同類なら、求めるものは二つだけ――理解と、傍にいること。

 ならば、かつて彼女に救われた以上、澪音は決して見捨てない。


「前に何が待っていようと、危険が未知だろうと、誰も助けに行けないなら、僕が手を伸ばす」


 哀れみでもない。侠気でもない。

 全部を一行にまとめれば、揺るがない理由はこれだけだった。


「……だって、君を一人にしたくなかった」


 孤独の寂しさも、運命に弄ばれる苦さも、身内を失う痛みも、澪音は全部味わった。だからこそ誰よりも、ミスティーの経験に共感できた。


 ――君は一人じゃない。


 その言葉を届けたい気持ちで救出作戦へ踏み込んだ。

 そして今、話し終えたこの瞬間、その想いはようやくミスティーの胸へ落ちた。


「……やっぱり、そうなのね」


 物語を受け取ったミスティーは、口角をさらに上げた。

 ただ、目線は澪音の顔を見ていない。

 感心というより、一瞬、どういう目で彼を見ればいいのか分からなくなったのだろう。胸の中を形容するなら、魔法の言葉が一つだけある――


「ありがとう、澪音」


 右手で澪音の腕に絡み、左手を彼の胸に添え、子猫みたいに抱きついた。


「なにしてるんだ、セラフィンさん……」

「お礼よ。え? 男子って、こういうの好きなんじゃないの?」


 予想外の反応に、ミスティーは少しだけ首を傾げて尋ねた。


「ち、違う違う! 変なこと言うな! 男子が全員そうなわけないだろ! 一括りにするな!」


 必死に否定する澪音。

 正直、ミスティーの唐突な密着に困っているのも事実だ。

 関係の距離感を間違えれば、同居が学校で露見した時点でスキャンダルになる。

 そこから先は『ミーたんファンクラブ』総出の追撃で、それはできる限り避けたい。

 もちろん、それだけではない――もっと大事な理由があった。


「それに僕、もっと優しくて気配りできて、面倒見がいいタイプの方が……」

「それは、有栖さんのことでしょ」

「うん。そうだよ」


 澪音があっさり認めた瞬間、ミスティーは少し驚き、それからまた澪音へ寄りかかった。

 清楚な顔には小さな安堵――否、少しの私心が混じって、わずかな羨望も混じった表情が浮かぶ。


「有栖さんは、ラッキーだね……ねえ、告白はしないの? 彼女、『付き合いたい女子ランキング』二位でしょ。ぐずぐずしてたら、誰かに取られるかもよ」

「学校の噂、やけに詳しいな。告白は……するよ。絶対に。けど今じゃない」

「どうして?」

「まだ、準備ができてないから」


 心の勇気も、現実の準備も、どちらもだ。

 有栖月渚は学年の人気者だ。成績が良く、運動も強い。何より、桜色の長い髪と清純な雰囲気が揃った、『男子のハート泥棒』みたいな存在である。


 対して自分は、どこを取っても平均に届かない――体力だけは別だが。故に昔から芽生えた告白計画も、先延ばしを重ねてきた。


「今の僕じゃ、まだ釣り合わない。でも、もう分かったんだ。僕に必要なのは再開(リスタート)だ。やり直して、努力して、成長して、強くなる。守れるくらいに……胸を張って、本心を言えるくらいに」

「ふふふ、できるといいわね、澪音」


「……ていうか、二人、近すぎない?」


 突然、露骨に不機嫌な声が会話をぶつりと断ち切った。

 澪音とミスティーが同時に振り向くと、背後に立っていたのは、いつの間にか風呂を済ませ部屋着に着替えていた月渚と秋風。

 もちろん、二人とも澪音の服を着ている。


 SMPの拠点へ突っ込んだあとの疲労が、遅れて四人の身体へ押し寄せた。

 話し合いの末、今日は揃ってサボり、澪音の家で一日まとめて休むことに決めたのだ。

 そしてキッチンへ入った瞬間、月渚はちょうどミスティーが澪音へ凭れる場面に遭遇し、続きが出る前に止めに来た。


「ち、違う! 月渚、想像してるのと違うんだ! こ、これは、その、だから……!」


 腰に手を当て、上から睨み下ろす月渚の鋭い視線に、澪音は慌てて手を振った。

 だが、さっきまでの空気も姿勢も、誤解を誘うには十分すぎた。

 言い訳が見つからず、澪音は藁にもすがる思いで秋風へ助けを求めるような目配せを送る。


「秋風、ね、僕の言いたいこと、君なら分かるよな! なぁ! なぁ!」

「ああ、もちろんさ」


 秋風は目を細めて満面の笑みを作り、澪音の前へ来て腰を折り、肩へ手を置いた。

 だが次の瞬間、その穏やかな顔が脅すみたいな暗色へ変わり、声を低く落とす。


「俺たちに黙ってミーたんと同居して、しかもあんなに仲良くなってる。明日、学校で告発してやる。『ミーたんファンクラブ』の審判にかけてやるよ、このオタクめぇ!」

「え……やめて……マジで死ぬ……」


 戦慄に身体を占領され、澪音は青ざめて震えた。

 高校一年の頃、当時まだ『付き合いたい女子ランキング』一位だった月渚と距離が近いと見られただけで、男子たちからの嫉妬を浴びた。

 冷たい視線を向けられ続けたあの感覚は、今も喉元に残っている。


「……ふふ、ふふ」


 軽くて、やけに楽しげな笑い声がした。

 三人のいつもの小競り合いを見ながら、ミスティーが思わず「ぷっ」と吹き出し、白い歯をこぼす。


「わ、笑った……」


 信じられないものを見るように、澪音、秋風、月渚の動きが揃って止まった。

 学校では陶然とさせる美貌なのに、人情味が薄く、無表情で通していたミスティーの顔に、今は確かに『喜び』が乗った。


 偽装の微笑ではない。

 肩の荷が下りたあとに、自然に零れた笑いだ。


「セラフィンさん、君……」


 その表情を澪音は知っている。

 商店街で新しいスマホを買い、連絡先を交換し、獅子のストラップを贈ったあの時――夕陽の下で見せたのと、今の顔つきは同じだった。

 どちらも、魔法使いとしての肩書きも、面倒なものも一旦脇に置いて、ただ本心に従って『いまの自分』――ミスティー・セラフィンがそうしたい形を選んだ結果。

 しかし、


「あっ、ごめん。つい……」


 視線が集まっていると気づき、ミスティーは謝った。

 自覚があるのだ。

 目の前の三人には十年分の絆があり、どんな困難にも耐えられる。

 ようやく危地を抜けた彼らの温かな時間は、彼らが受け取るべきもので、自分のような『外野』が割り込むべきではない――そう判断したのだろう。


「澪音、ごちそうさま。山木君、有栖さん、助けに来てくれてありがとう。この恩は返す……だから、あなたたちの団欒を邪魔しない。私は失礼する」


 一人ずつ、公式めいた口調で礼を述べ、ミスティーは小さく頭を下げ、立ち上がってキッチンを出ようとする。

 だが、出る直前、不意に腕を掴まれた。


「待って……残って」


 振り返ると、澪音の目には惜しさが満ちていた。

 表面の取り繕いの奥を見抜くみたいに、内側の陰りまで感じ取って、今回も見落とさなかったのだ――すれ違う瞬間、ミスティーが無意識に唇を噛んだ、そのごく小さな変化を。


「セラフィンさん、やっぱり……逃げてるだろ」

「……いいえ、まさか。ただ、私がいるせいで、あなたたちの会話がやりにくくなるのが嫌なだけ」

「お願いだから、やめて」


 誠実で、少し懇願に寄った声で、澪音は拒否の余地を与えず彼女を引き戻した。

 水のような澄んだ優しい眼差しが正面から向けられ、ミスティーの視線は一瞬、彷徨う。


「セラフィンさん。学校の屋上で、僕に言ったこと、覚えてる?」

「……ごめん。そんな前のこと、もう忘れた」


 それは、嘘である。あの場面を忘れるはずがない。

 都市博物館へ『魔器回収』任務に向かう前日、昼休み、澪音と二人きりで交わした会話だった。


「こっちは、はっきり覚えてるよ。言っただろ。『迷者は私たちの真の味方にはなれない。これも魔法使いの不文律の由来』って」

「……確かに、そう言った」


 小さく頷き、ミスティーは素直に認めた。


「でも、私はそれが間違いだとは思わない。魔法使いと迷者の間には越えられない差があって、歴史にも衝突がある。あなたも知ってるでしょう。私は先輩たちと現写世へ来たのは同胞を救うためで、ついでにサメラへ復讐するため、それだけ。ほかのことは、関心がないし、持ちたくもない」


 その結論へ至るのは、戦いの残酷さを知っているからだ。

 心にかける相手が増えれば、判断も行動も鈍る。

 道理であり、現実でもある。

 ただ――


「もう、そういうこと言うな……一番痛いのは、やっぱり自分を騙している君の方、だよね。怖かったんだろう。自身が、誰かの人生の一部になる資格があるかないかって」


 澪音の質問に、銀髪少女は俯き、長い沈黙へ落ちる。

 反論できない――その言葉は釘みたいに、彼女のずっと認めたくなかった場所へ突き刺さった。


 そう。ミスティー・セラフィンが一番深く隠してきた嘘――おそらく、『嘘』と言うより、燃える心を包むための、もっとも分厚い『偽装』だ。


『穢血』。


 この呼び名への嫌悪は、いつしか無視へ変わり、やがて強烈な劣等感へと変質した。ノクラン王国では没落貴族の出自が、彼女に早くから頭を下げるという生き方を覚えさせた。


 成長とともに笑顔は減り、規則を好きになった――違う、規則に縋るしかなくなった。


 きちんとしていれば、嫌われにくい。人情味を削れば削るほど、他人との距離は遠くなる。

 つながりが生まれれば、生まれるほど、失うときの傷は深くなる。だから怖い。


 ――そもそも魔法郷で、『穢血』とつながりたい者などいるはずがない。


 そうやって、ずっと自分を納得させてきた。

 なのに現写世では、まるで違う温度の感情を浴びてしまった。


 同級生の関心。『ミーたんファンクラブ』の、誇張じみた熱。

 そして雨夜澪音――普通に話せて、普通に吐き出せる相手。

 なにより『穢血』を理由に差別する者が、一人もいない。


 転入初日は、SMPの手掛かりを追うためだったにせよ。

 だが否定できないのは、その過程で、素朴な学園生活に少なからず憧れたという事実だ。


 だからこそ、自己疑念が生まれた――自分は、本当にこんなものを持っていいのか、と。


 ――規則は間違いじゃない。ただ私は、それを盾にしてきただけ。


『迷者は信じられない』という言葉に、彼女自身も同意している。

 けれど突き詰めれば、それは自己麻痺のため、そして目の前の美しさに近づきすぎないための、ただの口実。


 それが、ミスティーの本質だ。


「……あなたの言う通りよ、澪音。私、怖かった」


 ミスティーは無意識に服の裾を掴み締め、自嘲の苦笑を浮かべた。


「私の『穢血』って身分は、ああいう綺麗な生活を許さない。得てから失うくらいなら、やはり、最初から幻想なんて抱かない方がいい……」

「そんな理屈あるかよ」

「ノクラン王国はそういうところなの。一度その汚名を被せられたら、みんな暗黙のうちに距離を取る。それが民間の不文律……」

「でも、君は今、王国にいない、でしょ」


 柔らかくなった澪音の一言に、ミスティーは腑に落ちないまま、驚いたように顔を上げた。

 少年は、ようやく病根を見つけたみたいに息を吐き、善意の笑みを見せる。


「他の人がそう見るのは、本当の君を知らないからだよ。僕の目には、セラフィンさんはセラフィンさんだ。正義感が強くて、頼れて、綺麗で、すごい魔法使いだ」

「よく言ったぞ、澪音! 特に『綺麗』ってところは、俺も全面同意だな」


 壁にもたれて腕を組んでいた秋風が、ちょうどよく口を挟み、そのまま続ける。


「君のことは、フェニックスさんから大体聞いた。過去は『今』を説明するだけで、『未来』を決めるのは今の君がどうなりたいかだよ。俺は、ミーたんにはもっといい生活を送る価値があると思うぞぉ。王国の連中がそれを見ないのは先入観のせいで盲目になってるだけだし、気にする必要はねぇよ!」


 秋風の感想が途切れた瞬間、ずっと黙って聞いていた月渚が無表情のままミスティーの前へ歩み出た。

 数秒、視線を交わしてから、ようやくゆっくり口を開き、


「ミスティー・セラフィン。女同士だから、回りくどいのはやめる。正直、最初に会ったときは嫌いだった。冷たいし、言い方きついし、澪音を私たちから奪って……ムカついた、すごく」


 真正面の指摘に、ミスティーは何も返さず、ただ受け止めた。中身のある批判で、揺るがせない事実だ。

 けれど月渚は一度、澪音を振り返り、短い間を置いてから、「でも……」と切り返した。硬かった表情に、ようやく澪音に似たほどけた微笑が浮かぶ。


「私、フェニックスさんから話を聞いて、見方が変わった。私たちに言ったことの意味も、やっと分かった。あれだけのことがあって、いまも立ってるの、すごいと思うよ。本当に……それと、今の私も、あなたにお礼を言わなきゃ。ありがとう、セラフィンさん。私が何もできなかった時、何度も澪音を守ってくれた」


 その感慨が落ちた瞬間、ミスティーの呼吸が一拍止まった。

 胸を柔らかいものが軽く押さえるようで――痛みではないのに、痛みより耐えがたい。


 反射的に手を上げ、いつものように感情を押し戻そうとした。だが指先が空中で固まる。銀灰の睫毛が小さく震え、礼儀の微笑を作ろうとした唇も、うまく形にならなかった。

 残ったのは、崩れそうな苦笑だけ。


「…………お礼を言うべきなのは、私の方なのに…………」


 小さく、囁く。

 目尻から温かい雫がこぼれそうになり、ミスティーはすぐ顔を逸らしてもみあげを整えるふりをし、その動揺を前髪に隠した。

 けれど、その一瞬の紅潮は、もう十分に見えていた。


「前にも言ったよな。月渚と秋風を知れば、迷者の優しさもわかるって」

「……うん」

「さて、僕たちは、もう君を友達だと思ってる。セラフィンさんは……どう?」


 言って、澪音は手を差し出した。掌を上に向け、隠し立てもなく、選ぶ権利を丸ごと相手に渡す。


「…………」


 不意の誘いに、ミスティーは動けなかった。

 少し逡巡を残したまま、ゆっくり手を上げる。指先がまず澪音の掌に触れ、温度を確かめるように止まる。

 だが次の瞬間、決心した顔を見せ、手のひら全部を重ねた。


「……はい!」


 その一瞬、澪音の目が明るくなる。逃げられるのが怖いみたいに、力を込めて彼女を引き寄せた。


 ミスティーは一歩前へ踏み出し、彼の胸にぶつかる。

 驚く暇もなく、左右からも同時に押し寄せた――秋風が腕を回し、月渚は無言のまま、そっと額をミスティーの肩に寄せた。


 四人分の体温が一か所に詰まり、乱雑なのに、不思議と落ち着いていた。


「……っ」


 ミスティーの身体がまだこの親密を受け入れる作法を知らないようだった。

 けれど、指先は裾を離れ、強張った肩が少しずつ下がり、そっと澪音の背に手を置いて――夢ではないことを確かめるように、彼の服を軽く掴んだ。


 迷者は本当に味方になれるのか。自分は、本当にこれを持つに値するのか。

 答えはわからない。

 知りたい。だが、今この瞬間には関係がなかった。


 少なくとも今だけは、ミスティーは信じたかった。

 この狭いキッチンで、手を伸ばして引き戻してくれた三人は、例外だと。


 そして、例外が存在するという事実だけで、人は――もう一度、再開(リスタート)できる。

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