第93話 脱出寸前
『閉じ込められた! どうする?!』
『無理だ……魔力が、ほとんど尽きた……!』
『近寄らないで!』
『みんな……やめて……!』
通信機越しに、味方の悲鳴に近い救援要請が途切れなく流れ込み、フェニックスとカリナは思わず汗を滲ませた。
<領域>が映し出す製薬工場の立体映像では、ミスティーたちが二階の隅へ身を寄せ、周囲には数十人分の魔力反応が点滅していて、包囲がじわじわと狭まっているのが嫌でも分かる。
澪音がいる研究所・地下三階も、同じくらい最悪。
克哉の気配以外に、廊下には十二名の警備員が現場へ向かっている――誰もが侮れぬ魔力反応を抱え、並の雑魚ではない。
「どうしよう……どうしようどうしようどうしようどうしよう! 早く考えてよ!」
状況を掴めない無力感が、カリナの胸へ押し寄せた。
両手は迷彩のズボンを強く掴み、悔しさに歯を食いしばる。
この先に行き止まりが待つとわかっているからこそ、敗北を受け入れたくなくて俯いた。
すべての発端は、ミスティーが『あの妙な布切れの出所を探してほしい』と助けを求めてきたこと。
あの時、もう一言だけ責任を持って問い返していれば。
あの時、きっぱり断っていれば。
あの時、嫌な予感を信じて追いかけていれば。
……こんな最悪には辿り着かなかったのかもしれない。
ノクラン王国王室の制約で、ミスティ救出に直接参加できない。折衷案として澪音たちを支援しても、できることは限られている。
それなのに今、味方が四面楚歌の絶境に追い込まれても、工場外縁の坂で案山子みたいに立ち尽くすしかない。
「ミスティーの先輩として……私、本当に失格だわ……」
「……」
カリナの隣にしゃがんだフェニックスは、無表情のまま長い沈黙を続けた。
全員無事に帰ることを願う気持ちは、粗野な外見に反して繊細なこの赤髪男のほうが、むしろ強い。
思考が、一瞬で昨夜の雨夜へ戻る。
澪音がミスティー救出に力を貸す決意を示したのは、まさにあの時だった。だが、それで事実は変わらない――
助けを求めたのは、自分だ。
不文律を破らせたのも、自分だ。
危険へ置き去りにしたのも、自分だ。
そして今も、チームの一員でありながら貢献がゼロなのもまた、自分だった。
「……みっともない。格好悪い……」
この批判は誰でもなく、自身へ向けたもの。
極めて小さな声で吐き出し、眉間を寄せる。だが直後、フェニックスは大きく息を吸い込んだ。
目を開いたとき、濁っていた視線が澄み切った。
今の状況で、『自分にしか出来ないこと』が待っているから。
「カリナ、研究所の縁を探せ。澪音少年をそこへ急がせろ……それから、位置を俺に伝えろ。俺もできる限り、彼を避ける」
決然と立ち上がり、フェニックスは外套を脱いで地へ投げ捨て、崖縁へ歩いた。
夜風に髪を散らされ、月光を浴びながら、遠方の製薬工場をまっすぐ見据える。
「……何する気?」
顔を上げた瞬間、カリナの目が大きく見開かれた。
その姿を彼女は知っている。普段の豪放さを崩さないまま、眉間にだけ沈みが差す――フェニックスが本気の合図。
久しく見ていなかった。
「決まってるだろ。最初から俺がやるべきだったことを」
振り返らず、フェニックスは驚く同僚に親指を立て、口角を上げて笑った。
「全員、助ける!」
言い終えた刹那、崖を薙いでいた夜風が、見えない壁に弾かれたかのように乱れた。
気流はフェニックスの周囲を避けて回り込み、巻き返し、短い旋回を幾重にも重ねる。
岩肌の砂礫が巻き上がり、地を転がり、跳ねた。
灌木と樹冠は揺れ、枝葉が張りつめた摩擦音を立て折れそうな緊張を孕ませる。
「――刻め、我が魂! 引け、運命の切札! 黒と紅、四つの紋章よ、今ここに応えろぉぉぉ!」
瞬間、漆黒の夜が眩い緋色で裂けた。
足元の草地に巨大な魔法陣が浮かび、古い符文が回転し続ける。
中心から魔力が溢れ、地を這って広がり、やがて両足から這い上がって脛、腰腹、肩背へ絡みついた。
緋色のコートとして輪郭を刻むと、小石が無音で持ち上がり、空中に静止。
さらに強い光焔が背後で炸裂し、輪の波となって外へ押し広がる。
「<紋章展開>、ダイヤ10!」
魔法の発動と同時、瞳孔にダイヤの模様が走った。体内を巡る魔力は絶えず湧く力へ変換され、両脚へ集約される。
前へ蹴り出した瞬間、大地は強圧に耐えきれず裂けた。
荒ぶる気流に乗って跳躍したフェニックスは、動物の限界を超える速度で工場へ突っ込む。
「おい! 何だアレ!?」
「……人、か?!」
「嘘だろう……速すぎる!」
地上に残った警備員は、夜空に灯った強光へ一斉に目を奪われた。
遅れて届いた気流が足元を撫でる。先頭で異常な圧を察知した数人が顔色を青くし、本能的に背を向けて逃げ出す。
『警告! 警告! 魔力反応、超高速で接近中!』
端末の緊急赤灯が点滅し、星七は即座に警戒を引き上げた。
画面へ顔を寄せると、揺れる地表監視カメラの映像に、緋色の外衣を纏った人影が工場の外壁を越えようとしている――その獰猛な来襲者が誰なのか、星七は一目で理解する。
「フェニックス・スカーレット?! なぜここに……っ!」
あらゆる可能性のうち、このSMP組織で威名を轟かせる男の出現だけが計画外だ。
ただの攻撃が目的ではない、そう直感しつつも、星七は動揺を可能な限り抑え、マイクを掴んで研究所全域へ放送し、
『撤退許可! 全員、ただちに施設から撤退せよ!』
星七の号令が研究所の隅々まで響き渡る。
それが澪音と澪奈の耳に届いた時、二人は思わず顔を見合わせ、表情に疑問符を並べた――敵の態度が唐突に百八十度ひっくり返った理由が、まるで掴めない。
「どういうことだ……? あいつ、また何か企んでるのか」
「星七さんの実験は……ふん、いったん中断、ってことになりそうだね」
事態の流れを読んだかのように、克哉は淡々と言いながら立ち上がる。
澪音へ視線を向けたその時、地面が微かに震え、天井から埃と細かな欠片がぱらぱらと落ちてきた。
「待って、何をする気だ!」
「僕たちじゃない。君の仲間が助けに来たらしいね。ただし、あれが放つ魔力の規模を見る限り……君がここで葬られる可能性もあるね」
「何だと!」
「いずれにせよ、スカーレットの力は見られた。それで満足だ。僕はここで退場する。次の手合わせを楽しみにしているよ、澪音・スカーレット」
そう言って克哉は乱れた衣服を整え、出口の扉へ足早に移る。
「もちろん、この先に起きることから生き残れたら、の話だけどね」
軽い冷笑と侮蔑の一瞥を残し、洒脱な背を見せて実験室を出た。
ほとんど同時刻に――
『雨夜くん、聞こえる?』
澪音の通信機に、カリナの切迫した呼び声が飛び込んだ。
「聞こえるよ! 外で何が起きてる! さっき、敵の緊急撤退命令が――」
『説明してる時間ない! フェニックスが助けに来た! でも、そこに留まってたら危険だから、今から言う方向へすぐ動いて!』
「……は?」
「マスター、カリナさんの言う通りにして!」
上方を仰ぐ澪奈の怯えた瞳が、状況の切迫を裏づけた。
数十メートル離れれば精霊族でも感知の範囲外で、土壁や構造物も挟まる。
それでも向こうの魔力を感じ取れるという事実は、フェニックス・スカーレットの魔力量が尋常ではなく、恐怖と呼べる規模に達しているということ。
「……まるで化物だ! こんな膨大な魔力、見たことない! 走って、澪音!」
「分かった!」
激流のような魔力の接近に気づいたのは、澪奈だけではない。
窓越しに見る工場二階は、強光に照らされて昼間みたいに白く、強風と建屋の震動にガラスが亀裂を走らせ、ほどなく粉々に砕け散る。
警備員が体勢を崩した隙を突き、花蓮は瞬時に『大鳥』形態へ変身し、華麗な翼を広げて背後の味方を破片と眩光から庇った。
「無茶しすぎだよ、フェー君」
唇を尖らせ、露骨に不満を見せる花蓮。
けれど、その判断に賛同できなくても、いまこの場にもっと良い解はない。ゆえにその不満は、愚痴ひとつで終わった。
契約精霊としてやるべきは、息を合わせて準備を整え、フェニックスの揺るがぬ信頼に応えることだ。
「黒雪くん、残った魔力で<逢獣>をもう一回いける?」
「ギリいける。指示は?」
「フェー君の魔法が、もうすぐ届く。合図したら動いて。山木くんを連れて。月渚さんとミスティーは私が預かる。窓から飛べ。できるだけ遠くへ」
「敵が追えない隙に抜ける、Got it!」
「しくじらないで。チャンスは一度きり!」




