怪盗に拾われた
「ねぇ、君。どうしたの?」
「え?」
警察か?とビクビクしながら顔を上げる。そこには一人の少女と後ろを歩く背の高い青年がいた。
「――関係ないだろ」
空は雲に隠れ、星ひとつ見えない。冬の訪れを色濃く感じる僕だったが、それを悟られぬよう無意識に語気が強くなってしまう。ずっと前から考えてようやく決意したのにこうやって見知らぬ人に話しかけられるだけでそれがたじろいでしまう。
家出なんでダサいことしなければ良かったと。僕は僕が嫌いだ。
「寒くないの?声、震えてるよ」
「――寒くない」
少女が僕を覗き込む。かじかんで感覚がほぼ無くなった手で首元を触る。隠せていると思っていただけだったらしい。
少女はそんな僕にマフラーをかけけくれる。ふわふわで真っ白のマフラー。残る人肌の温かみが今の僕には辛い。ぽたりと、水滴がマフラーに滴ってしまわないようそっと顔を落とした。
彼女は大人だ。僕よりずっと。年齢は近く見えるのに、それ以外はどれも遠い。早く何処かへ行ってくれ。僕なんかに構わないでくれ。優しさなんて教えないでくれ。
まだ二時間ほどじか経っていないと言うのに、僕は帰りたくなった。ホームシックでも親の温かさに触れたくなったでもない。早くこの人たちの前から消えたかった。最悪な毎日のほうがましだと思った。
きっと彼女は家出なんてしない。僕は家出しかできなかった。それが恥ずかしくてたまらない。
「あっ、雨。どうしよ、傘持ってきてないのに!」
冷たい水滴が僕を濡らす。腰を下ろしている場所に水が流れスボンでせき止められる。
頭が屋根代わりになっているはずなのに、雨粒で目元が潤む。
「ねぇ雨宮、この子を……」
「しー、だよ。わかってる」
家に、帰ろう。
彼女らがこそこそ話合いをしているが僕には関係のないことだ。早くここを立ち去らないと。これ以上恥をさらす前に。手遅れになる前に。ああ、そうだ。マフラー返さないと。
「ねぇ、僕。僕はどうしたい?」
優しくて、甘えてしまいたくなる声色。僕の知らなかった声。知りたかった声。
「…………」
俯いて、顔をぐしゃぐしゃにして。それを隠すためにもっと下を見て。
「じゃあ聞き方を変えるよ。僕は、何をしたくない?」
「帰りたくない」
いつの間に僕の面の皮はここまで厚くなってしまったのだろう。返そうと掴んだマフラーを返さまいと握りしめている。甘えても良いのだと思ってしまう。
どうにもならないはずだった。どうにかなってしまった。
「それじゃ、僕を僕たちの家に招待しよう」
「……皐月です」
「そっか。僕は雨宮、こっちは水瀬。よろしくね。後は任せて」
この後どうなるのか、どうするべきなのかと不安がっていた僕の心を読んだように雨宮さんは頭を撫でる。細い指がぎこちなく濡れた髪の毛をかきわける。
「帰ろっか、皐月くん」
そう言って雨宮さんは軽々と僕をおんぶする。歩ける、と降り用途したのだが喉から出たのは嗚咽だけだった。恥ずかしさと温かさでいっぱいの嗚咽。水瀬さんがくすくすと笑いながらハンカチで僕の涙を拭う。
ゆらゆらゆら。揺りかごのような背中と安堵から堪え難い眠気に襲われる。冷たかった雨は知らぬ間に止み、純白の雪が降り注ぐ。
瞼が重い。意識を手放す直前に聞こえた話し声。それが現実なのか夢なのかわからない。
深夜一時頃。僕は雨宮さんたちに拾われた。
翌日、朝。暖かくなるにはまだ早いくらいの時間帯。僕らは遅めの朝食中だ。緊張の所為か普段より早起きになったのだが、二人は夜型らしく三時間ほど何もせず待つ時間があった。
暇な時間と言うのはいらない時にばかり訪れるもので、嫌なことばかり考えてしまい憂鬱な朝だ。
運良く?居候と言う形になったのだけれどそれも長続きする関係ではない。いつかその時が来た時僕は帰ることができるのだろうか。二人は優しいがけじめは付けるべきだ。そう思ってももやもやした不安が消散することはない。
取り敢えず嫌なことは後で考えることにしよう。今までもそうやって生きて来たのだ。
「皐月くん、朝食ありがとね。僕たちどっちとも家事苦手だから」
バツが悪そうに笑う雨宮さん。ゴミ箱はこぼれ落ちるギリギリまで詰まっている。キッチンは多分昨日使ったお皿がシンクに放置されていた。
二人は家事と言うか雑事と言うか、それらを好きではないらしい。咎めるつもりもない、むしろ嬉しかったくらいだ。僕がここにいる意味を与えられる。それを悟られぬよう歪んだ笑みを矯正する。
疲れ果てた帰り道、足取りは重くお風呂に入る気力もない。糸の切れたマリオネットのようにソファへ倒れ込むと何処からともなく美味しそうな香りが……
はて、そんな時は来るのだろうか?
今日は平日、冬休みはまだ少し先だ。今頃呑気に食べていれば遅刻は必至。自らのことは棚に上げて、水瀬さんは良いのだろうか。窓辺にハンガーで吊るされたセーラー服が哀しげにこちらを見ている。
そして雨宮さん。彼は怪しいの一言だ。小さく微笑みながら砂糖とミルクをたっぷりと入れた珈琲を飲んでいる。
ま、何でも良いだろう。妙な勘ぐりは関係の悪化を招く。時が来ればそれで良いさ。
「ごちそうさま。それじゃ、食後の運動代わりに君にはちょっとした仕事をしてもらいます」
「食後は三十分ほど空けた方が良いらしいですよ」
「あまり気負わないで、私も手伝うし、ただの掃除だから」
フル無視である。彼女にそんな意図はないのだろうけれど。
「まずは窓を開けて、高いところから順番に……」
「何してるの、掃除するのは別の部屋。ここは綺麗でしょ?」
さっと窓辺を払うと指先には埃が付着するのだが、良いと言うならば構うまい。
指先を見つける僕の袖を引っ張って廊下へ連れ出す。扉が閉まる寸前、雨宮さんが憐れみにも近い表情をしていたのはきっと気の所為だ。
「言い忘れてたけど、敬語は止めて。多分使い慣れてないでしょ。雨宮も気にしなくて良いから」
「わかった。それで、何処を掃除すれば?」
「どちらでも、お好きな方を選び放題。その掃除した場所が君のこの家での部屋になるから。何処も同じような状態だから深いこと考えず選んじゃって。」
選べと言われても、外からでは違いはわからない。適当に選んでしまって良いだろう。神様の言うとおり……
「ちなみに、そこが私の部屋であっちが雨宮の部屋だから選ばないで」
神様のお告げのままに腕を伸ばすと、その隣が水瀬さんの部屋らしい。危ない、それを聞いた後でそのまま選べば隣の部屋が良いみたいになるじゃないか。
神は死んだ。僕はお告げを反故にする。初めから選択肢なんてものはなかったんだ。
それは正にゴミの山であった。
いや、ゴミと言うのは主観でしかないのだが、少なくとも僕の目にはゴミにしか見えなかった。
水瀬さんカーテンを開けると久々の来客に喜ぶ埃が見える見える。いつの間にかポッケに突き刺さった無言でマスクを装着。せめてもの抵抗で綺麗な空気を肺に溜め込んでから入室する。
汚いと言うよりかは荒れていると言った方が近いかもしれない。掃除のできない人住む生活感のあるゴミではなく住人がいなくなって廃村したまま放置されているような。
「汚部屋と言うか何と言うか……」
「昔ここの部屋に住んでた人がいてね。ある日、顔を見せないと思ったらこんな状態で、その人は戻って来なくて。いつか戻って来た時には無理矢理にでも片してやろうって思ってたけどもういいや」
何か、打ち明けた水瀬さんは遠くを見ていた。こんな時、どんな言葉が正解なのかわからない。
気まずい。ただただ気まずい。何か言おうと口を開けどそれは音になる前に閉じてしまう。
「ごめん、めっちゃ嘘」
「めっちゃ嘘か」
悪びれもせずほくそ笑むその頬を抓ってやりたくなった。気を使った僕の心を返してほしい。
僕には水瀬さんと言う人間がわからない。
そうこうして夜。そろそろ寝るようにと諭されたので綺麗にした自室にて天井を眺めていた。何の反抗か電気くらいは付けたままにして。
いくら眠くないと言っても横になれば瞼は重くなっていくものだ。
いつもは眠くもならない時間帯なのだが、今日は少々動きすぎたらしい。
早々に眠ってしまうのは癪なのでベッドに座り眠気を堪える。
「ほんと、聞かなきゃ良かった」
誰に聞かせるでもなく後悔を口にする。聞くべきでないと思いながらも聞いたのだから自業自得でしかないけれど、頭を抱える。
それはついさっきのこと、夕食時だ。
僕は焦っていたのかもしれない。会話に上手いこと入れなくて。
当然だと言うことはわかっている。出会ってまだ一日も経過していない。
二人は話を振ってくれているのに、上手くいかない。それはもはや練度と言うべき差だ。条件反射で返すには時間が足りない。返答にほんの少し時間のズレが発生するだけで盛り上がりは減少する。それを皐月はコミュ力の差だと解釈してしまった。
一瞬会話が途切れた時、僕は咄嗟に尋ねる。心に突っかかっていたことだ。
「そう言えば、あの部屋の美術品は何処から来てるんだ?あんな置き方じゃ、コレクションしている訳でもなさそうだし」
「嗚呼、そうだね。皐月くんには伝えておくべきだね。実は僕、怪盗をしてるんだ。あの部屋にあったのはただの売れ残りだよ」
「……怪盗って、あの怪盗だよね?貧乏な家庭を助けるためにやってるって言う」
「いいや、違う。ちゃんと悪い怪盗さ。盗んでは金に変えて、必要とあらば殺すかもしれない」
一縷の望みをかけて絞り出した言葉は、いとも容易く否定された。
正直、幻滅した。勝手に期待しておいて何様ではあるのだが、それが正直なところだ。
「めっちゃ本当」
「めっちゃ本当か」
場を持たせるためにフォローしたつもりなのかもしれないがそれはただの追撃だよ、水瀬さん。
言葉が出なくなった僕は促されるがまま部屋に戻った。意味がわからない。頭を冷やしてみてもあの顔が嘘には見えなかった。
おかしなことに、頭の冷静な部分では嫌悪を示しているのに、心臓はバクバクと脈打っていた。身体中を血液が巡る。冷ますはずだったのに手先まで痺れるくらいにあつい。僕は興奮しているのだ。
それには厨二病とやらが悪さしていたのだと思う。落ち着こうとするほど口角が上がって仕方がない。
そのまま僕は、気絶するように眠りについた
翌日、晴天。水瀬さんから借りたもふもふのパジャマに力をい受けて僕は妙に高鳴る心臓を抑える。
只今の時刻、昼過ぎ。昨日と同じく早起きした僕は二人の起床を待っていたのだが、それも飽きてしまった。初見の漫画が殊の外面白くお腹が空くまで時間を忘れていたことは内緒だ。
とにかく、待ちくたびれたのだ。故にこうして僕は水瀬さんの閨に侵入しようとしている。とは言えなかなか勇気が出ず十分ほど経過している。
勝手に食事を済ますのは忍びないので天秤に乗せた結果起こすことにした。外から声をかけてみても反応はなかった。眠りが深いタイプなのか。
コンコン、ノックする。
「入りますよー……ん?」
返答なし、鍵はかかっていなかった。太陽光はしっかりと入って来ているはずなのに、空気はどんよりと曇っている。
ひらひらと謀ったように舞う一枚の紙に僕の瞳は釘付けになる。紙なのに真っ白じゃない。薄っぺらくて汚いと言うか灰色っぽい紙に文字がびっしりと埋め尽くされている。
「新聞?」
そう、なんでもない新聞。ズタボロで引き裂かれていることを覗けば普通の新聞。家出するよりずっと前、隣と家が新聞を取っていて、それを盗み見たので覚えている。面白みの欠片もないゴミが瞳の中心を占拠して離さない。
「今日の日付……」
わからない――いや、わかる。
僕が起きるよりも先に起きた水瀬さんが新聞を回収して部屋に戻っただけ。それだけにわからない。最低でも四時間以上だ、二度寝にしては長すぎる。
引き裂かれてバラバラの新聞が視界の中でパズルのように組み上がる。嫌に冴えた頭が尋ねてもいない答えを告げて来る。拒むことは、できない。
「怪盗、死ぬ。警備員の教育不足――か」
脳内補完を終え復元した写真が雨宮さんの顔と一致する。
雨宮さんが死んだ。殺された。怪盗だとカミングアウトした彼の表情が遠く霞む。
確かに、それは悪いことだ。人のものを盗み、生きる。きっと常習的にやっていたのだろうことは口にされずとも読み取れた。殺される必要はなかったはずだ。
色眼鏡だ、理解している。片側の事情、僕はそれすらも知らない。でも僕はまだ笑える時間が欲しかった。
「水瀬さんはそれを先に知った」
付き合いが長いだろうその人の訃報を。
散らばった新聞をかき集め、赤子のように抱く。足元が覚束ない。酒でも入ったかのような千鳥足で、倒れ込むようにその天蓋をくぐる。
ぶらーん。
掻き毟ったのだろう。抜け落ちた毛、爪が剥がれ血の滲む指先。真っ白な抉られた肌を伝った鮮血はもはや真っ赤でなくなっている。
そこには、女の首吊り死体がひとつあった。
「ねぇ、君。どうしたの?」
「え?」
冷たい風と蹲った身体。
デジャヴ。初めての出来事を初めてでないと感じる脳のバグ。そう片すにはリアルすぎたような気もするのだが、それがデジャヴと言うものだ。そして思い浮かぶ先の情景は、大抵その通りにならない。
実感と言うか現実味と言うか、それが欠落しすぎている。ゲームにのめり込みすぎた時のような感覚だ。半信半疑で頬を抓ると当然ながら痛い。
先の空想を、できるだけ忘れぬよう強く意識する。僕は楽しくなっていた。この時感じていたはずの不安は全くない。
長い、長い空想。どこまでがその筋書き通りなのだろうか。なぞってみなくなった。
深夜二時頃。僕は怪盗に拾われた。
「ねぇ、君。どうしたの?」
「え?」
嗚呼、何も考えたくない。
全てが筋書き通りだった。糞みたいな結末へ一直線。あれはデジャヴなんかではないと、本当に起きた出来事だと気付いた頃にはもう遅かった。避けようのない死を待つだけの無力な犬っころでしかなくなっていた。
僕が何もしなかったせいで、水瀬さんが、二人は二度目の死を迎えた。
嫌だ、考えたくもない。津波のように迫りくるその言葉。一度思ってしまえば、一粒の涙なんてお構い無しだ。
「僕が殺したようなものじゃないか」
「大丈夫?すごく辛そうだけど」
僕が水瀬さんたちを見殺しにしたのだ。そして、地獄は一度では終わらない。これもデジャヴではないのだとしたら、二人の死は刻々と近付いている。
二人には死んで欲しくない。もうあんな無惨な姿なんて――
そこまで思って、違う。
この世界では初対面、記憶を含めても3日ほどの時を共にした。それだけで情が湧くほど、僕はできた人間じゃない。それくらいわかっている。
僕はもう、二人の死を見たくない。
そう、見たくないのだ。できるなら水瀬さんたちだけでなく、他の誰の死も見たくない。知りたくない。あんな悲しいものなんて。
「君。良かったら私たちの家に――」
それは最早条件反射だった。手が動き、足が動き、僕は一目散に二人から逃げた。目的地もなく、ただ離れるためだけに。
伸ばした手をはたかれ、ひどく驚いた水瀬さんも、それに顔を歪ませる雨宮も、僕は見ていない。
待ってと叫ぶ声も、追いかけるのを宥める雨宮さんの声も、聞こえてなどいないのだ。
これ以外の身の守り方を僕は知らない。
どれだけ嫌いでも、どうにも生活習慣というものは抜けないらしい。いつの間にか自宅に着いていた僕は自室に雑魚寝。幸い両親は僕の家出に気付いていなかったらしい。尤も、気付いたところで何かアクションを起こすとは考えられないのでただ両親にとってどうでも良いことと処理された可能性は否定できないけれど。
ガシャン――
耳を劈く物音、続く怒号。ドアも窓もきっちりと閉めているはずなのに鮮明に届く。
時刻は早朝、傍らに人無きが如し。これで近隣住民から通報もないのだから、もう諦めている。
大声で言い合っているのは僕の両親だ。夜遅くまでどこにいたのかだとか、子供のことも考えてだとか。ガラスコップが棚から落ちるのもお構い無しに。
時折聞こえる平手打ちは、以前見た時は母からだったか。それも結構昔の話だ。心配して見に行くのなんてとうに辞めた。今の平手打ちがどちらからのものなんて、知らないしどっちでも良い。
聞き慣れた聞きたくない音から逃れるため、布団を深くまで被りこむ。現実逃避がてら開いたネットニュース。記憶に新しい見出しがデカデカと映されていた。
『怪盗、死ぬ。警備員の教育不届きか』
嗚呼、僕は。
呪われてでもいるらしい。
「ねぇ、君。どうしたの?」
n回目、驚きもしない。
運命様は僕を逃がしてはくれないらしい。
先の方法で済むのなら楽だったのだが、済まないのならそれでも良い。あの家に帰ることも、胸糞悪い思いをする必要もなくなるのだから。
ひとまず、僕は雨宮さんの怪盗を止める若しくは遅らせる必要がある。先程わかったことなのだが、おそらく二人は今、盗みに出かけるためにここを通った。
雨宮さんの死が一日早まったことから、僕を拾ったせいで出立を一日遅らせていたのだ。ならば僕がやるべきはただひとつ。
「お願いします。少しだけで良いんです。僕を泊めてくれませんか?」
「――うん、そうだね。そうしよっか」
その煮え切らない返事に、僕は気付かない。
翌日、早朝。何度か繰り返したおかげか、目覚めるのが早くなっている気がする。慣れてきているのだろうか。
目覚めたのは良いのだが、少々このまま目を瞑っていようと思う。何が原因で知っている道筋から逸れるのかわからない。違いは極力減らした方がやりやすいだろう。
「おはよ、僕。最近の若者らしからず健康的だね」
「――え?」
咄嗟に、聞こえるはずのない声に飛び跳ねるように起きる。
どうしてここに雨宮さんがいる。ここは水瀬さんの部屋ではないのか。
広い部屋に、似合わない質素なベッド。普段から使っていないのかミニマリストなのか、装飾品はほとんどない。せいぜい小さな本棚と張替えていないだろう青の壁紙が目立つくらい。
パタン。雨宮さんは読んでいた本を態と音をたてて閉じ、本棚に仕舞う。
「驚かせたね、ごめん。僕のことは雨宮と呼んで」
「…………」
「おーい――大丈夫かい?」
「あ、はい。僕は皐月と言います」
「敬語なんて使わなくて良いからねー」
そう言いながら立ち上がり、少し乱れたズボンを直していく。遅れて、僕もベッドを降りる。掛け布団を戻していると、もう片方を手伝ってくれた。
「さあさあ、ご飯にしようか。そろそろ焼き上がる頃じゃないかな」
雨宮さんがキッチンへと歩くのでその後ろをついて行く。
オレンジに光るトースターの中には五枚切りの食パンが二枚。焼き加減を確認しながらお皿に取り出すと、表面がパリッときつね色に焼けた食パンが出てくる。
食パンには既にいちごジャムが塗られており、美味しそうな湯気が上がる。
パンのお供はインスタントのコーンスープらしい。コップに粉を入れ、ケトルからお湯を注ぐ。
「いちごジャムとか、コーンスープとか、嫌いじゃない?」
そう尋ねられるも、もう完成しきっている。事後承諾だが好き嫌いはそう多くないので頷いておく。
いただきますと小声で合掌し、一口。心地よい食感とジャム、パンの甘みが口いっぱいに広がる。コーンスープも口に含みたいのだが、舌の火傷を危惧しちまちまと飲む。
「そう言えば、みな――じゃなくて、もう一人の方は?」
「嗚呼、水瀬ね。彼女なら今頃自分の部屋で食べてるんじゃないかな。少し具合が悪いらしくてね――」
そうなのかと納得しかけて気付く。前回まで元気そのものだったのだ。たまたま今回だけ体調を崩したとは考え難い。ならば何故。もしかして警戒されているのか?
目覚めたのは雨宮さんの部屋で、水瀬さんを見ていない。きっとパンだけ焼いて部屋に戻ったのだろう。僕に会わないために。
起きた時隣に雨宮さんが居たのも、寝たふりがすぐに気付かれたのも、お目付け役だと考えれば合点がいく。僕はどこかで間違えたのか?いや、むしろこれで良かったように思う。
助けるべきは水瀬さんではなく雨宮さんだ。雨宮さんさえ助かれば、水瀬さんは自殺しなくて済む。やりやすいまであるかもしれない。
「ごちそうさま。早速だけど、少し手伝ってくれるかな?」
「掃除ですか?どの部屋を――」
「いいや、違うよ。ベッドをここ、と言うよりリビングの方に持って来るんだ。あれなかなかに重いからね。流石にソファじゃ辛いでしょ?」
自分がなのか、僕がなのか、その言葉から読み取ることはできない。どうにも色々とおかしくなっていることをより実感する。
リビングにちょっとしたスペースを作り、よくわからないものが散乱した部屋から持ってきた簡易ベッドを設置する。リビングなのだが普段はテレビで別の番組を見たい時以外は使わないらしく、ひとまずは僕の部屋として使って良いらしい。
部屋の掃除とは比べるまでもなくすぐに終わり、午後からは交流に努めた。前回までとは違いかなりの時間を会話に費やせたのだが、やはり怪盗云々の話は一切出てこなかった。藪をつついても蛇どころか鼠一匹でてこない始末。
「警戒はかなり強いか――」
会話でなんとかなるのが一番だったのだが、仕方ない。強引な手段になるが当初の作戦通り行こう。ずばり、尾行して窮地を救う作戦だ。
死ぬ原因がわかっているのならそれから守ってやれば良いのだ。
さしたる障壁もなく夜中、物音に合わせて窓からこっそりと外に出る。生憎と、靴を部屋に運び込む余裕はなかったので履いていない。
道にある石などから足を守るのは靴下だけで結構心許ないのたが、これから行うことに対する興奮故か痛覚はおかしくなっているようだった。
夜風に身体を震わせながら少し離れて尾行する。
目的地はどこなのか、軽くあたりをつけた場所を頭に思い浮かべていたのだが、到着したのはその中でも一番可能性が低いだろうと思っていたところだ。
地元の人なら一度くらいは耳にしたことがあるであろう御屋敷だった。外観からして裕福なことがわかるが、それを驕ることのない人格者の屋敷だ。
皆に慕われている者の屋敷。きっと頭のどこかで理想を見ていたのだろう。本人は否定をしてもただの盗人ではないはずだと。そんな理想は簡単に砕かれることとなった。
でもやることはかわらない。どんな人間であれ、それが死んでも良い理由に繋がるはずがないのだから。
屋敷の門をよじ登って越え、ピッキングツールらしきもので裏口を弄っていると、ふとその手を止めた。
「そこにいるのは誰だ?」
バレたのか?と戦慄する。冷や汗を流す。
バレるのはまだ良いのだが、疑われるのは良くない。帰されてはこのまま尾行を続けることができなくなるからだ。
両手を上げ、降参のポーズをしながら物陰から出ようとすると、すぐ近くの草むらが動いた。
風ではない不自然な動き方。注意してみれば人の気配がする。草からひょっこりと出た頭に拳銃らしき銃口。嗚呼、雨宮さんはこれで殺されたんだ。
物陰から飛び出し、草むらに飛び込む。標的からズレた銃弾はあらぬ方向に飛び窓を割る。次を撃たれる前に首を締める。
「ふん」
「こんのくそ――」
完全に意識の外だったようで、ここまでは上手くいったのだがどうにも筋力が足りないのか対策されているのか、苦しそうな顔はすれどそれだけだ。
ゆっくりと銃口がこちらの頭を捉え、引き金に指がかかる。
「――セーフ」
が、それが僕の頭を破壊させることはなかった。
ストンと、雨宮さんの手刀で簡単に落ちる。屈強な男の身体が僕の腕の中で気絶している。
「どういうことか説明してもらおうか」
「はい――」
星正座で俯いて、僕は雨宮さんと対面するのだった。
「そうなんだっ。ありがと、救ってくれて」
正直、信じられると思っていなかったので拍子抜けだ。未来を知っているから助けられた。我が身顧みても、荒唐無稽な話だと思う。
少々強引でも、雨宮さんを怪しんでいた警官が潜り込んで尾行。途中で殺されそうな場面に遭遇したので助けたとした方がまだ真実味があるのではないか。
ふむ、色々と疑問が残るが咄嗟であることを考慮すれば及第点か。どちらにせよ、無警戒に信じるのは軽率すぎる。都合が良すぎるとも言える。
そう、あまり都合良くできている。
「正解。そんことある訳ないじゃん」
「え?」
嫌な幻聴だ。雨宮さんの口は動いていないのに、雨宮さんの声で聞こえる。
そんな訳ない。何の話だ?僕は勝ち取ったじゃないか。何度も、何度も繰り返して。幾度となく死んだ君は、君たちは今こうして僕の前で立っている。心臓は鼓動している。それで良いじゃないか。
血の気が引いていくのを感じる。
「本気で、そう思ってるの?」
本気も本気。冗談なんてこれっぽっちもない。あるはずがないだろう?
自らに言い聞かせるように吐いた言葉は、泥水のように弾かれて落ちる。変わらず微笑んでいる水瀬さんの顔が歪んで恐ろしく思えた。
「別に、それならそれで良いんだけどね」
煮え切らない返事だ。
わかっているさ、それくらい。これがおかしいことに気付かないほど愚かにも馬鹿にもなれない。
水瀬さんはこんな笑顔を僕には向けない。一番の笑顔はいつも雨宮さんに向いていて、僕は横画に見惚れるだけ。表面から見たいなんていうのは僕のエゴでしかない。叶わない理想だ。
ゆっくりと、音が聞こえる。うっすらと光るそれに前を見れば、今見ていたそれは後ろに流れ霞み始める。もう細部は思い出せない。後一息、愛おしさを振り切れば女性の部屋特有の甘い匂いが鼻腔をつつく。
残ったのは心に穴が空いたような虚しさと時が経ち乾いた大粒の涙だけ。
「嗚呼」
全部、終わったんだ。
これで二度目か、なんて思いながら水瀬さんのベッドを出る。随分と長いこと眠っていたらしい。時刻は深夜を迎え、何度も見た出会いがフラッシュバックする。
空腹で倒れそうな僕は壁に体重の大半を預けながらふらふらとキッチンを目指す。
現実では二日目、夢では何度も過ごした家は妙に見慣れている。朝、どうせ待つだけなら朝食でも作っておけば良かった。
無造作に冷蔵庫を覗き、適当な食材を取り出す。今から作るのはボンゴレだ。空腹で空虚感に襲われているというのに妙に凝りたくなる。
フライパンを火にかけオリーブオイル、チューブのにんにく、唐辛子を投入。隣でパスタを多めに茹でる。
少ししたらあさりと白ワインを入れ蒸す。再び待つ時間があるのだが、面倒になってきて少しかたいパスタを入れてしまう。
あさりの口が開いてくれば完成だ。二つほど、まだ閉じたままのもあるのだがそれでも良い。
机に濡らした布巾を敷き、フライパンそのままを上に置く。お箸も長い菜箸そのままだ。
一口、二口。誰もいない食卓。一人きりで食べるのが当たり前な生活をしてきたのに、見慣れた二人がいないだけでこうも味気なくなる。
まだ半分以上残っているのに、空腹感は薄れ食欲がなくなっていく。
「ごちそうさま」
結局あさりにはひとつも手を付けず合掌する。
包丁を片手に、先程とは逆の壁に身体を預け水瀬さんの部屋に戻る。
これからどうしようか。死んでしまおうか。
水瀬さんは眼の前で死んでいる。ビリビリに破られた新聞紙の、真偽を確かめる気力はもうない。確かめてどうなるというのか。きっと大切に思っていただろう人はもうこの世にはいないのに。
どうでも良くなっただとか、後を追おうだとか、そんな大層なことは考えていない。ただ、疲れてしまった。
水瀬さんの首に巻き付いたロープを包丁で切り、ベッドに寝かせる。腕が震えて首を傷付けてしまうけれど、もう血は流れ出てこない。
頭を撫でる。ロープは再利用だ。少々短くなってしまったがくくればまだ使える。
部屋にあった椅子に乗り、ロープの輪っかに首を置く。
死に対する恐怖は何もない。それどころか何の感情も湧いてこない。
夜、横になり明日を思い浮かべながら意識を手放す。それだけのような感覚だ。寝て起きれば綺麗な横顔が見られるかもしれない。
「おやすみなさい。また明日」
椅子を遠くに蹴飛ばし、重力に従って首が絞まる。ゆっくりと、けれど急速にものを考えることができなくなっていく。
その最期は、隣で死ぬ少女とは真反対に安らかな顔をしていた。