第八話 人魚の血
パチリ、とわたしは目を覚ました。
一瞬ここが何処だかわからなかった。辺りを見回して、漸くここが自分の部屋であることを認識してほっと安堵の息をつく。
今何時だろうと思い時計を見たら、
「……ね、寝過ごした!」
時計の針が示している時刻はいつもならとっくに店が開いている時間だった。
布団から飛び出して慌てて店に出る準備をする。
着物を着がえて髪は天色の絹紐で留める。
普段よりも雑に、けれども見苦しくない程度に身嗜みを整えて、階段を駆け下りる。
「何で御空くん起こしてくれなかったの!?」
寝坊した自分が悪いことは重々承知の上だが、思わず文句が零れ出てしまった。「責任転嫁しないの!」と頭の片隅で善良な部分の自分に怒られて「ごめんなさい!」と脳内で謝った。
急ぎながらも、足音が大きく響かないように注意を払いつつ、売り場へと続く廊下を早歩きする。
本当なら走ってしまいたいところだが、もしお客さんがいたらこの店の店員はなんてはしたないのだろうと思われかねない。第一印象は大事だ。自分の言動で店に迷惑をかけるようなことはしたくはない。
――まあ、寝坊した時点で既に迷惑をかけてしまっているのだけれど!
自虐しつつ、扉を開けようとしたその時だった。
「どうですかな店主。ワタクシが持ってきた品物は」
知らない男性の声が扉越しに聞こえてきた。
わたしはそろりと扉を少し開けて、店内の様子を窺う。
台を挟むようにして、御空くんと見知らぬ男性が話していた。いや、話しているのは男性の方だけだが。
洋装を身に纏い、目深に被っている帽子によってその表情は見えない。
どうやらこの男性、持参した品物を買い取ってほしくて御空くんと交渉中らしい。
雑多屋はモノの販売だけでなく、モノの買い取りも行なっている。故に、こうして品物を売りにくるヒトも時々だがいる。
――今出て行ったら邪魔だよね……。
そう考えたわたしは売り場に出る時を見計らうべくその場に留まることにした。
御空くんは椅子に座ったまま、手に何かを持っていて、それをまじまじと見ていた。
透明な薬瓶の中には赤い液体が入っていて。どうやらあれが男性が持参した品物らしい。
品物を黙って見つめる御空くんに、何とか高く買い取ってもらいたいのか男性が声を大にして品物について説明し出した。
「なかなか手に入らない代物ですよ!丁抹で採取した人魚の血ですからね。誰もが欲しがる不老不死の妙薬ですよ」
「不老不死の妙薬、ね……」
御空くんの口からぼそりと零れた声は低い。聞いたことのない冷たい声音に、直接放たれた訳ではないのにわたしは身震いした。
だが、男性は気づかずに捲し立てるように話し続ける。
「それで、どうですかな?この量で幾らで買い取ってもらえます?本来なら、人魚の肉を渡したかったところですが、やはりそこまでは難しくてですね……。もし良い値段をつけてくださるのなら、後日同じモノを何点か持参しますよ。あーでも、もし値段が低いなら……別の店に行って買い取ってもらおうかなとも考えているんですけど――」
「そうですか。でしたら、まずはこれが本物の人魚の血かどうか証明してみせてください」
御空くんは男性の言葉を遮るようにコトリ、と瓶を台の上に置いた。次いで、男性に向かって静かにそう告げた。
男性は何を言われたのか理解できなかったようだ。目を見開き暫し固まっていたが、顔を引き攣らせつつも何とか声を絞り出した。
「しょ、証明とは?」
「これが本当に人魚の血だとしても、貴方が言う通り不老不死になれるかどうか僕にはわかりませんし。この血を貴方が飲んでみて……そうだな、例えばこれで心臓を刺してみて、死ななかったら証明されるんじゃないですかね」
御空くんが近くにある机の引き出しの中から取り出したのは短刀だった。そしてなんと躊躇することもなくその短刀を鞘から抜いた。
剥き出しになった刀身が照明の光を受けて、美しく銀色に輝く。
御空くんはそのまま短刀を台の上に静かに置いた。
「この短刀は使えばどんなモノでも即死させられると謳われている代物です。不老不死の妙薬というその血を飲んだ後この短刀を使ったら……一体どうなるんでしょうね」
御空くんがにっこりと笑顔を浮かべる。
ひくり、と男性が喉を鳴らす。まるで金縛りにあったかのように固まっていたかと思えば、次第に体が震え始めた。
ずれた帽子の下から見えるその顔は青褪め、唇は戦慄き紫色に染まっている。あれ程回っていた口は、今は金魚のようにパクパクしている。
打って変わって、御空くんは淀みなく口を動かす。
「どうしたんですか?できないんですか?それならそれで構いませんよ。雑多屋はそれを買い取らないだけですから。もし偽物だったら、それを買い取って売ったこの店の信用にも関わってきますし。何事も信用が第一ですからね」
御空くんが「さあ、どうしますか?」と挑発的に口元を上げる。けれども、彼の青の双眸は酷く冷え切っていた。
男性は短刀を見て御空くんを見て、そしてもう一度短刀を見る。
短刀の刀身は未だ剥き出しになったままだ。使おうと思えば今すぐにだって使える。
対して、男性が持参した品物は瓶の蓋も開いていない状態だ。
蓋を開けたら最後、品物を飲んでこの短刀で男性は己を殺さないといけなくなる。
品物が本当に人魚の血かどうか――不老不死の妙薬かどうかを証明するために。
男性の米神を冷や汗が流れた。
御空くんは何も言わず、ただただ男性の動向を見守るだけで。本物かどうかこの目で確かめない限り、御空くんが品物を買い取ることはないだろう。
男性が震える手で瓶へと手を伸ばす。ゆっくりと持ち上げれば、透明な瓶の中の赤い液体が震えによる振動によってぐらぐらと揺れた。
男性は震えを抑えるように両手で瓶を包み込むように持ち、そして――
「す、すみませんでしたぁっ!」
大きな声で叫び、一目散に出入り口へと向かう。
ちりん、と鈴が鳴り、「お帰りはこちらです」と言わんばかりに勝手に格子戸が開く。逃げるように男性が外に出た瞬間、ぴしゃり、と戸が閉まった。
鈴の音が鳴り終わり、店内が静寂に包まれる。
頬杖をついてつまらなさそうに男性を見送った御空くんがふわぁと欠伸を一つした。
御空くんが短刀を鞘に戻す。そっと台の上に置けば、コトリ、と無機質な音が辺りに響いた。
何事もなかったかのように店内がいつもの空気を取り戻した。
緊迫した空気は消え失せ、不意に御空くんが振り向く。
「そろそろ出て来てもいいよ」
御空くんと視線が合って、びくりと肩を震わせた。
わたしは「うっ、気づかれていたんだ……」と心中で嘆きながら、そろそろと扉を開く。
「やあ、花夜。おそよう」
「お、おそようございます……」
寝坊したことに加え、覗き見していたことが気づかれていたことが恥ずかしくて気まずい。
縮こまるわたしに御空くんが意地悪く笑っている。
からかってくるその姿はいつもと変わらないように見える。けれど、何かが違うとわたしは感じて――
「あの……御空くん、何か怒っています?」
「……怒っている?僕が?」
「はい。えっとその……怒っているというか、不機嫌そうというか、苛立っているというか……」
「別に怒っていないんだけどな。花夜が寝坊したり覗き見したりしていたことを後ろめたそうにしていて可愛いなーとしか思っていないよ」
「何が可愛いのかまったくもってわからないんですけど……ってそうじゃなくて!」
――落ち着け。わたしが苛立ってどうする。このまま話していたら確実に流される。
わたしは深呼吸をして心を落ち着かせる。そして、真っ直ぐに御空くんを見遣る。
一見凪いでいるその青い瞳の奥には憤りが燻っているような気がして。
どうしてそう思うのかはわからない。でも、無視してはいけない何かがあるとわたしの直感が告げている。
視線を逸らさないわたしに、御空くんは目を瞑り一つ息を吐いた。
「……確かに苛立っているかもしれないね。花夜も一部始終を見ていたからわかると思うけど、なんせ粗悪品どころか相当胡散臭いモノを買い取らされそうになったからね。幾ら懐が深い僕といえどもそりゃあ怒るさ」
御空くんが流れるように言ってのけた。その言葉に何処もおかしなところはない。
それでも、やっぱり違和感が拭えない。
――何て、言えばいいんだろう……。何て、訊ねればいいんだろう……。
確かに御空くんが言ったことは本当だろう。でも、それだけじゃないとわたしは確かに思ったのだ。
わたしは考えを巡らせるが、言葉が浮かんで来ない。何か言いたいのに、何も言えなくて。
俯き黙り込んでしまったわたしを御空くんが目を細めて見つめている。そうかと思えば、茶化すように声を出した。
「花夜。ここは僕の発言に対していろいろと突っ込むところだよ」
「……え、何にですか?」
「僕の懐が深いってところとか」
「だって、御空くんはどんな方にでも分け隔てなく普通に接しているし……」
「それ、懐が深いとは違くない?」
わたしがそう考えていると、ふと台の上の短刀が目に入った。
「……御空くん、その短刀って商品ではないんですよね?」
訊いておきながらも、多分そうなんだろうな、とわたしは確信していた。
何故なら、それは机の引き出しの中にあったモノだからだ。
レジ周りを掃除しつつ、何があるのかを確認していた時に見つけたモノで。
その時は驚きのあまり何も見なかったことにしたわたしだったが、訊くなら今しかないと思ったのだ。
案の定、わたしの問いに御空くんが首肯した。
「うん。これは所謂、護身用ってやつさ」
「護身用?」
「この界隈って結構物騒なんだよね。まあ、普通じゃないモノを取り扱っているんだから、普通じゃないヒトが来るのは当たり前と言えば当たり前のことなんだけど。でも、中には厄介なヒトたちもいてね。そのための対抗手段の一つだよ。……大切な人に貰ったものなんだ」
そう言って、御空は昔を懐かしむように目を細めた。
「……そんな護身用の短刀を、何であんな風に使わせようとしたんですか」
「本当に使わせる気はなかったよ。ただ、短刀でもちらつかせたらさっさと帰るかなぁと思って。実際にそうだっただろ?」
御空くんがへらりと笑う。
対して、傍から見たらわたしのさぞ表情は険しいことだろう。眉間に皺が寄り、眦を吊り上げている自覚があった。
バンッと両手で台を叩く。台越しに睨んだわたしに、御空くんは思わず身を引いた。
「危ないじゃないですか!護身用なら、その通りに使ってください!大切な人から貰ったものなら尚更です!さっきのヒトは素直に帰りましたけど、もし血の気が多いヒトだったら逆上してその短刀を奪われて御空くんさんがぐさっと刺されていたかもしれないんですよ!?」
「うわー、嫌な想像させないでよ」
わたしが必死になって告げているというのに、目の前の御空くんは楽しそうに笑っていて。
「大丈夫だよ。だってこれ、模造品だから」
「……模造品?」
「そう、模造品」
御空くんは短刀を持ち、再度鞘から取り出した。そして、躊躇することなくもう片方の掌をそれで刺した。
突然の行動にわたしは目を見開いた。「何しているんですか!?」と悲鳴を上げてしまった。
けれども、直ぐにおかしな点に気がついた。
短刀で刺したはずなのに、御空くんの掌からは一切血が出ていない。そもそも、刃が御空くんの手を貫通していない。
唖然とするわたしの前で、御空くんが掌から短刀を離す。すると、シュッと柄から刃が飛び出した。
無言のままでいるわたしの目の前で、御空くんが掌に短刀を刺しては離し刺しては離しを繰り返している。その度に、シュッ、シュッと刃が飛び出す音が二人の間に響いた。
「……凄く精巧に作られた模造品ですね」
「でしょ?」
わたしは身体中の力が抜け、台に寄りかかって顔を俯けた。
未だ椅子に座ったままの御空くんがわたしの顔を覗き込む。
「もしかして、僕のこと心配してくれたの?」
「当たり前じゃないですか!だって、御空くんさんはわたしの――」
と、ここでわたしは口を噤んだ。言葉が、続かない。
心配したのは本心だ。御空くんが短刀を出した時、「何物騒な物出しているんですか!?」と思わず叫びそうになった。
店内に飛び出しそうになるのをぐっと我慢して事の成り行きをずっと見ていた。
――御空くんのことだから、きっと何か意図があるはじ。だから、大丈夫。
そう自分に何度も言い聞かせた。その一方で、いつでも店内に飛び出せるように準備していた。
やっと御空くんの前に出ることができた今、何か言いたいのに、何も言えない。考えれば考えるほど頭の中がごちゃごちゃになっていく。
いや、本当は言いたいことはわかっている。
でも、御空くんとの思い出がまだ少ない今の自分が、この言葉を紡ぐ資格なんてない気がして。
――御空くんは、わたしの大切な人ですから。
そう言いたいのに言葉にできない。どうしても躊躇ってしまう。
わたしは何も言えない自分が情けなくて、何故だか悔しくて、泣きそうになった。
いろいろな感情を押し込めて唇を噛む。
そんなわたしを御空くんは見つめていた。わたしはその瞳から感情を読み取ることができなかった。だけど見つめられて、何だかむずむずする。
御空くんの手が伸びてきて、労わるようにわたしの頭を撫でる。
驚いたわたしがぱっと顔を上げて御空くんを見遣った。
いつもはわたしよりも上にある、澄んだ空のような瞳が今はすぐそばにあった。
その美しい青い瞳を細めて、御空くんが破顔する。それはもう、嬉しそうに。幸せそうに。
「ありがとう、花夜」
――どうして「ありがとう」なんて言うの?どうして、そんな表情をするの?
問いかけたいのに、御空くんのそれは叶わなかった。
何も言えないままのわたしに、引き出しの中に短刀を戻した御空くんが椅子から立ち上がって言う。
「品出ししたい商品を取ってくるから、花夜はレジ番していてくれる?」
「……わかりました」
よろしく、と言って御空くんは店の奥へと引っ込んだ。
結局わたしは言いたいことは言えず、訊きたいことも訊けなかった。
*
ぱたん、と背後で扉が閉まる。
僕は深く息を吐き出した。
「あー、ダメだ……可愛い」
――こんな姿を花夜に見られたら余計怒らせてしまうだろうなぁー。
そう思いつつも、口元が緩んでしまう。
不謹慎だとは思いつつも、花夜が心配してくれて、怒って、泣きそうになってくれることが嬉しい。それも自分のことで、だ。
勿論、笑っていてくれるのが一番なのだけれど、照れたりちょっと困ったりした顔も好きだ。
花夜が自分に対していろんな感情を剥き出しにしてくれる。花夜のいろんな表情を見られる。それだけで僕は幸せだなと感じるのだ。
たとえ、彼女の記憶が戻らなかったとしても。
「それにしても、危ない危ない。花夜が覗き見していなかったら、危うく《《本物》》を出すところだった」
花夜は知らない。僕が本物の短刀も所持していることを。
今回客が持ってきた人魚の血――不老不死の妙薬について説いた際、僕は本物の短刀を取り出そうと思った。
――不老不死なんて、もう、そんなのどうだっていいのに。
私情にとらわれそうになったが、花夜が覗き見していることを察知したため冷静になれた。本物の短刀ではなく模造品の短刀を取り出すことができた。
花夜が言った『もしも』のことが起きたとしても、その対象が自分ならどうってことはない。
死ぬことなんて怖くない。けれども、花夜に危害が及んだらと思うとぞっとする。
「ほんと、気をつけないと。人間は簡単に死んじゃうからね」
自分に言い聞かせるように僕は呟く。
僕の呟きを聞くモノは僕以外誰もいない。