第七話 百貨店
路面電車に揺られながら、わたしは窓の外を眺めていた。
木の上に何かがぶら下がっている。あれは、薬缶だろうか。
これだけだったらただの奇妙な光景だとまだ言えるだろう。誰があんなところにあんな物をぶら下げたのか、どんな意図があってぶら下げているのかという疑問は勿論あるが。
けれども、奇妙なことは他にもあって。
風が全く吹いていないというのに、その薬缶はひとりでにぶらぶらと揺れているのだ。
「どうしたの花夜?」
「いえ……何で風もないのに薬缶が揺れているのかなと思いまして」
わたしの視線の先を辿り、御空くんがああ、と小さく頷く。
「あれは薬缶吊る。歴としたあやかしだよ」
「あやかし……それじゃあ、あれは?」
わたしの視線が別の場所に移る。
空を飛んでいるのは一羽の鳥だ。それだけなら普通の光景だ。
でも、その鳥は炎を身に纏っていて。よく見ると顔も普通の鳥と違う。まるで犬のような顔をしている。
「あれはふらり火」
「じゃあじゃあ……」
「花夜、ストップ」
目にとまった気になるモノを指差して次々と質問していくわたしの姿はまるで子どものようだっただろう。
キリがないなと思われたのか、御空くんが待ったをかけた。わたしの手首を掴んで引っ張れば、細い体は容易く傾く。
御空くんにもたれかかるような姿勢になったわたしが振り向く前に、御空くんがわたしの耳に触れるか触れないかの距離でこっそりと囁いた。
「普通の人間にはあやかしが視えていないからね。あんまりはしゃぐと悪目立ちしちゃうよ」
「……ごめんなさい」
御空くんに窘められて、わたしは素直に謝る。
尤も、わたしたちのこの姿自体が悪目立ちしているような気がしなくもないが。
わたしは、自分でははしゃいでいたつもりはなかった。けれども、雑多屋で働き始めて今日が初めての外出だ。自分でも意識しないうちに外の世界に浮かれていたのかもしれない。
――そうだった。普通の人には視えないんだった。
自分たちには視えているけど、普通の人間には視えていない存在――あやかし。
店では視えることが当たり前だから忘れてしまいそうになる。
外の世界では、視えないことが普通で、視えることが異端なのだ。
店内と外の世界は違うのだということをまざまざと突きつけられた気がした。
「いい?花夜。くれぐれも僕が言ったことを忘れないようにね」
「わかっていますよ」
わたしは外出する前に御空くんに言われた言葉を頭に思い浮かべる。
勿論、その言葉を破る気なんてわたしには更々ない。
ふんすと意気込むわたしに、心配そうに御空くんが呻る。
「全く、目的地に着く前からこんな調子で大丈夫かなぁ」
「だ、大丈夫ですよ」
たぶん、という言葉をわたしはのみ込む。
数時間後、御空くんの予感が的中するなんて、この時のわたしは知る由もなかった。
*
きっかけは、わたしが何気なく呟いたこの一言だった。
「そういえばわたし、ここで働き始めてから外出したことないです」
不意に呟いた言葉に、「確かにそうだね」と御空くんが頷いた。
店の外に出て掃き掃除をしたり、洗濯物を乾かすために裏庭に出たりするものの、外出をしたことはなかった。
細い路地の先は、記憶のないわたしにとっては未知の世界に等しいのだ。
御空くんは顎に手を当てて暫し何かを考えた後に提案する。
「それじゃあ、今度何処かに行ってみようか」
「行きたいです!」
手を上げ即答したわたしに御空くんが苦笑を零す。
「それで、何処か行きたいところはある?」
「行きたいところ……」
――と、言われても特にこれといって……あ!
「お客さんが言っていた百貨店に行ってみたいです」
先程会計をしている際、客に「雑多屋さんは百貨店に行ったことある?」と訊かれたのだ。
――いろんなお店があるらしいし、どういうものなのか実際に見ておいた方が今後のお店の経営のためにも良いかもしれないと思ったんだけど……。
チラリと窺えば、御空くんは「百貨店かぁ……」と渋い顔をしている。
「……ダメ、ですか?」
「ダメじゃないけど……」
思案していた御空くんだったが、暫くして「いいよ」と了承した。
屈託なく「やった!」と喜ぶわたしに、御空くんが「但し」と付け加える。
「結構賑わっているから、覚悟しておくように。迷子になったら大変だからね。なるべく僕から離れないように」
「わかりました」
――迷子って子どもじゃないんだから。
わたしはそう思いつつも、素直に頷く。
「あと、欲しいものがあったら、遠慮せずに言うんだよ。物との出会いは一期一会。次の機会にとか、後でとか思っていたら、なくなっていたなんてことはよくあることだからね。たとえどんなに高価な物だとしても、僕がお金を出すから大丈夫。いつだって花夜に貢げるんだから」
「いや、それはちょっと……」
途中までは流石は物を売る店主代理。言葉の重みが違うなんて思っていたが、最後の言葉で台無しだった。
御空くんの『過保護』には手を焼くことが多々あって。
絶対にこの人にお金を払わせるなんてことをさせないようにしようとわたしは心の中で誓った。
「あと、外では安易にあやかしと関わらないようにすること。僕がいる時ならいいけど、一人で行動する時は基本は無視の方向で。本当は僕がずっと花夜の側にいてあげられればいいんだけど……それはなかなか難しいことだから」
澄んだ青い瞳が陰る。御空くんは一度瞼を閉じ、そしてわたしを見つめる。
「わかった?」
子どもに言い聞かせるようなそんな口調なのに、でもその眼差しは真剣で。
わたしはこくりと息をのむ。そして、ゆっくりと「わかりました」と頷いた。
*
「これが百貨店……!」
わたしは目の前の光景にたぶんわたしの瞳は輝いていることだろう。
落ち着きなく辺りを見回す。ベレー帽を被った婦人や矢絣柄の着物に袴姿の女学生がお喋りしながら横を通り過ぎていく。洋装の男性も多く、みんな楽しそうだ。
御空くんも真っ白のシャツにズボンを履いて、頭には中折れ帽を被っている。
わたしはよそ行きの着物に、ちょっと凝って三つ編みを耳の横で束ねた、所謂ラヂヲ巻きにしていた。
百貨店内は食器や衣服、骨董品など店によって売られている商品はバラバラだ。
小さな棚、幾つもの机、商品の陳列の仕方もその店ごとに違っていて面白い。
――様々なモノで溢れかえっているのは、この場も雑多屋も同じだなぁ。
でも、雑多屋内では音楽はかかっていないし、一度にこんなに大勢の客が来る訳でもない。
だから、大勢の人で賑わっており、いろんな声が聞こえてくるこの空間は、わたしにとって知らない世界で何とも新鮮な光景だった。
「気になると思ったら、遠慮なく見ていいからね。あ、先に言っておくけど、僕も気になるモノがあったら買うけど、別に転売しようとか思ってないからそこんとこよろしく」
「え?あ、はい」
「あと、商品や売り上げを盗んだりする奴らもいるからね。気をつけるように」
「は、はい……」
考えてもいなかったことを言われて、わたしの目が点になった。
――そうか、そういうことをしようとする人もいるのかぁ……。世の中って物騒だなぁ……って、いやいや、他人事のように思っちゃダメ!客としてだけじゃなくて、雑多屋で商品を売る身としても今後もっと気をつけていかないと!
なんて、わたしが思考を巡らせていた時だった。
「あらあら、雑多屋ちゃんじゃないか!」
聞き慣れた『雑多屋』という言葉にわたしの足が止まった。
御空くんと共に声がした方へと振り向く。
すぐ側の店に、一人の女性がいた。
女性は親しげにこちらに手を振っている。
自分はそこまで人見知りが激しいという訳ではないと思いたいが、久しぶりの外出と記憶にない人物に会ったことから、わたしはさり気なく御空くんの後ろに隠れた。
だが、女性にはバレてしまったようで。
「あらあらあら。代理くんからは聞いていたけど、記憶喪失なんだ」
「えっと……わたしたち、知り合いでしたか?」
「知り合い知り合い!凄く仲が良かったよ!」
「ちょっと、話を盛らないでください」
「えー、事実を言ったのにー」
御空くんが突っ込めば、女性は不貞腐れてしまった。
金の髪に、翠の瞳。肌は色白で、どこからどう見ても異国の人だが、その日本語はとても流暢だ。
「日本語お上手ですね」
「まあ、結構長い間日本にいるからねー」
「この人は手芸屋を営んでいてね。雑多屋で商品を委託販売しているんだ」
「こんな感じの商品なんだけど見覚えないかな?」
御空くんの説明に、女性――手芸屋さんが机の上を指差す。そこには、刺繍が施された商品や手編みの商品などが陳列されていた。
「あ、見覚えあります。女性のお客さんたちがよく買っていかれますから」
「お、そっちでも売れているみたいね。流石は我らが自慢の作品たち!」
「え、これって全て手作りなんですか?」
「そうよ」
「す、凄いですね!」
「ふっふっふー、それ程でもあるかしら。みんな丹精込めて作った作品たちだからね!」
わたしの素直な称賛に手芸屋さんが謙遜することはなかった。
どれも丁寧に思いを込めて作った作品たちである。彼女にとって自慢の作品たちを褒められて謙遜する必要など何処にもないのだ。
「できれば大切にしてくれる人の元へ行ってくれるといいのだけど……」
慈愛に満ちたその眼差しは母親のようだった。
わたしは胸が締め付けられるような思いがして、気がつけば叫んでいた。
「わたし、これからももっともっと頑張ります!思いを込めて作られた物たちが大切にしてくれる誰かの元へ行けるように頑張って売ります!」
そう意気込んで、わたしははっと我に返った。
恐る恐る目の前の手芸屋を見遣れば、手芸屋さんはぽかんと口を開けてこちらを見ていた。そうかと思えば、次の瞬間弾かれたように笑い出した。
「ふふっ、いいねいいね!ねぇ、雑多屋ちゃん。やっぱり手芸屋で働かない?」
「えっと……」
「はいはーい、勧誘もお触りも禁止でーす」
手芸屋さんがわたしの手を握ろうとすれば、その前にわたしの体は後ろに引き寄せられた。言わずもがな、御空くんにである。
「代理くーん。この子うちにちょうだいな?」
「お断りします」
机を挟んでいるとはいえ前には圧の強い手芸屋さん、後ろには冷えた空気を纏う御空くんがいて。更に体は御空くんの腕に拘束されてしまっている状態で。
笑顔で攻防を続ける二人の話を聞き流しつつ、わたしは視線を下げる。動けなくとも商品を見ることぐらいはできる。
机の上には、刺繍が施された髪留めやくるみ釦、手編みの襟巻きやがま口など、手芸屋自慢の手作りの作品たちが並べられている。
それだけでなく、布地や釦、綿帯などといった材料も売っているようだ。年代ものなのか、中にはそれなりのお値段がするものもあった。
ひえぇと思いながらも他の商品を眺めていた時、ふととある商品が目に入った。
それは長方形の布に鈴蘭の刺繍があしらわれた絹紐だった。
一針一針丁寧に縫われた葉。細い茎の先には、真っ白な小花が咲いている。
その絹紐から目が離せなくてじぃっと見つめていると、「ああもう!」と頭上から声が響いた。
「花夜、もう行こう!ここにいたら、花夜をとられかねない!それと、手芸屋さん!花夜は渡せないしそもそも渡すつもりもないけど、今後とも雑多屋との取り引きはよろしくお願いします!」
「はいはーい。こちらこそよろしくお願いします」
わたしの手を引きながら、御空くんは早口ながらも丁寧に手芸屋さんに告げる。普段は見られない珍しいその姿にわたしは目を瞬かせた。
手芸屋さんはといえば、何処か楽しそうである。
すたすたと歩き出す御空くんに、わたしはされるがままだった。
――いつもからかっている側の御空くんさんがこんな反応をするなんて珍しい……。手芸屋さんって一体何者?
御空くんから視線を手芸屋さんへと移す。
にこやかに手を振る彼女に、わたしも手を振り返した。
どんどん遠のいていく手芸屋さんの姿に、今度会えたらもっとゆっくり話したいなぁとわたしは密かに思うのだった。
*
人とぶつかりそうになった時に御空くんに肩を引き寄せられたり、人の多さに若干ふらふらしていたら手を引かれて近くの人の少ない場所で休息を取らされたりしつつ、わたしは百貨店を楽しんでいた。
「何か気に入った物はあった?」
「いえ、大丈夫です」
気になる物ならたくさんあった。
異国の民芸品であろう置物とか、何が描いてあるのかよくわからない絵画とか、買ったとしてどうやって持ち帰れば良いのかわからない程大きな像とか。
でも、これといって欲しいと思う物は特にない。
物を買おうとすることよりも、並んだ商品や店の人、老若男女問わずの客など、この場所の雰囲気を楽しんでいたと言った方が正しいかもしれない。
唯一ちょっと気に入った商品はあったものの、その店との距離は遠い。引き返すのは大変だろう。
でも、わたしは充分満足していた。普段見られないものを見られただけで幸せだった。
わたしが何も買わない一方で、御空くんは宣言通り商品を買っていた。
掛け軸に装飾品、銀食器……その戦利品には全くもって統一性がない。
――うーん、休憩室の座敷にでも飾るのかな?というか、あの装飾品って明らかに女性もの、だよね?誰に渡すんだろう……何だかモヤモヤするなぁ……。
などとわたしが考えながら歩いていると、いつの間にか端の店まで来てしまっていたようだ。
「他に見たい店はない?」
「ないです」
顔を覗き込んできた御空くんにはっきりと答える。
自分の我儘に付き合って百貨店まで連れてきてもらったのだ。こんな人混みが多い中、「もう一度あの店に戻りたいです」だなんて言えるはずもない。
「……昼飯でも食べようか」
上の階の食堂にやって来た。硝子でできた見本棚にはたくさんの料理が並んでいる。カツレツにライスカレー、コロッケ。うーん、どれにしようか……。
迷った末にわたしはコロッケを、御空くんはカツレツを頼んだ。
運ばれて来たコロッケを口に運ぶ。衣はサクッと、中はほくほくとしていた。
「美味しいです!」
「それはよかった」
頬を緩ませるわたしに御空くんも笑みを浮かべる。
「御空くん、食べるの早過ぎません?」
「いや普通でしょ。……あ、そうだ。花夜、少しここで待っていてくれる?お金は払っておくからさ、パンケーキでも食べてゆっくりしていてよ」
「どうかしたんですか?」
「ちょっと買い忘れた物があって」
「荷物番しておきましょうか?」
「うーん……それじゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかな」
暫し逡巡した後、御空くんが買った物をわたしの隣の席に置いた。
荷物番というちょっとしたことでも御空くんの役に立てて嬉しい限りである。
「それじゃあ、待っていてね」
「わかりました」
御空くんが席を立つ。
食堂の外へと出ていくその背中を見送りながら、わたしはコロッケの残りを頬張った。
*
僕は人混みの中をぶつかることなく進んでいく。
目指す先はただ一つ。周りの店にも人にも物にも目移りすることはない。
その店に辿り着けば、ちょうど頃合いだったようだ。
一人の女性客を見送った店主――手芸屋が僕を認めた。
「やあ、代理くん。きっと戻って来ると思っていたよ」
にんまりと手芸屋が笑った。
「これを買いに来たんでしょう?」
そう言って手芸屋ががさごそと近くの箱の中からとある商品を取り出した。
鈴蘭の刺繍があしらわれた絹紐――それは、花夜が眺めていた商品だった。
彼女の店で売っている商品は手作りなので一点物ばかりだ。
同じデザインだとしても、それぞれ微妙に違う。それが手作り商品の醍醐味の一つでもある。
売れてしまえばそれでおしまい。けれども、この商品は間違いなく花夜が眺めていた商品であった。
花夜と共にこの店に来た時からだいぶ時間が経っている。
売れ残ったという訳ではない。手芸屋が気を利かせて取り置きしておいてくれたのだ。
因みに、僕が商品を取り置きしておいて欲しいなんて頼んでいた訳ではない。
それでもこうして取り置きしてあるのだから、この一言に尽きる。
「流石ですね。ありがとうございます」
「だって、雑多屋ちゃんが気にしていた商品ですもの。代理くんなら必ず買いに来ると思ったわ」
ずばり当てられてしまって、僕は苦笑することしかできなかった。
花夜の性格からして、欲しいとか気になると思ったとしても、何も言わないだろう。伊達に一緒にいる訳ではない。
――でも、さっきは慌ただしく連れ出しちゃって……花夜には悪いことをしちゃったなぁ……。
花夜が絹紐を気にしているのには気づいていた。けれど、手芸屋に気に入られている花夜をあの場から遠ざけるので精いっぱいだった。
花夜のことになると余裕がなくなってしまう。まだまだ未熟だなと僕は自分を叱咤する。
「鈴蘭の花言葉はreturn of happiness。君たちにぴったりじゃないか」
「……どうも」
会計を済まして商品を受け取る。鞄の中にしまい込みながら、花夜にこれを渡した後のことを思い浮かべると自然と顔が緩みそうになる。
そんな僕を見て、手芸屋が意味ありげに微笑んだ。
「……何ですか」
「べっつにー」
いつもなら食えない雑多屋の店主代理――と、皆に言われている――である僕も、今は好きな女性に絹紐を贈ろうとしている一人の男に過ぎなくて。
「君も可愛らしいところもあるじゃないか」
手芸屋がにまにまと笑っている。……解せぬ。
「いつも通り、『おまじない』かけてあるからね」
昔から縫い目には呪力が宿るとされてきた。手芸屋は「持ち主に幸せが訪れますように」と作品におまじない――魔法を掛けているのだ。
花夜には説明していなかったが、実はこの手芸屋は魔女である。英利吉からやって来たそうだが、それがいつ頃のことなのか僕は知らない。年齢不詳の、いまだに謎の多い人物である。僕はこの人が一寸苦手だ。
「ありがとうございます」
「いーえー」
手芸屋がひらひらと手を振ったその時、ふと嫌な予感が過った。
次いで、勢いよく顔を通路へと顔を向ける。すると見知った姿が走っていくのが見えた。
「すみません。僕そろそろ行きますね。取り置きしてくれて本当にありがとうございました」
丁寧に頭を下げて駆け出す。
「 I wish you all the best」
最後に手芸屋のそんな声が聞こえた。
*
「御空くんまだかなぁ……」
パンケーキも食べ終えてしまったわたしは手持ち無沙汰だった。因みに、パンケーキにはりんごジャミが乗っていて、甘くてふわふわで美味しかった。
食堂の出入り口の方を見ても御空くんらしき人物は見えない。
一人でいるこの状況に段々とわたしは不安になってきた。
――探しに行こうかな。でも、御空くんはここで待っててって言っていたし……。
正直言って、食べ終わったのに居続けるのは何だか申し訳がなくて。
だけど、もし御空くんを探しに行ったとして、すれ違いになってしまったら御空くんの迷惑になってしまう。
だからわたしは動かないし動けない。ただ、御空くんが戻ってくるのを待つことしかできない。それが何だかもどかしくて仕方がなかった。
「……ん?」
ふと視線を向けた先に一匹の獣がいた。
犬のようにふさふさした、茶と白と黒が入り混じった三毛猫のような色の体毛。その体躯や垂れた耳は犬のようだが、猫のように背を丸めている。
――迷い込んで来ちゃったのかな?
そんな珍妙な獣がわたしの視線に気づいたようだ。大きな瞳と目が合った。
獣はてくてくとこちらに歩いて来て、尻尾を振った。
「犬?猫?それとも別の生き物かな?」
わたしが疑問を口に出せば、「わおん」とも「にゃあ」とも聞き取れる声で獣は吠えた。ますますこの獣が何なのかわからなくなった。
でも、誰もこの獣に注目はしていない。他の人には視えていないこの獣はあやかしなんだろう。
こちらを見つめたままこの場から動こうとしない獣に戸惑う。
「あのー……ごめんなさい。わたし、食べ物も何も持っていないんです」
パンケーキは食べてしまったし、猫じゃらしなどといった遊び道具も持っていない。
申し訳なく思いつつ言えば、獣はぴたりと尻尾の動きを止めた。
――わかってもらえたのかな?
わたしがそう思った時、
「え、あ、ちょっと!?」
隣の空席に置いておいた鞄を、わたしの不意をついて獣が咥えて逃走した。
慌てて荷物を持ち、獣を追いかける。
――盗られたのが御空くんから預かった荷物じゃなくてよかった……よかった、けど!
だからといって自分の鞄が盗まれていいなんて全然思っていない。
「ま、待って!」
叫んでも勿論獣が止まるはずもなく。
獣は食堂から飛び出し、通路を駆けて階段を下りていく。ついには百貨店からも出てしまった。
走り続けて息が上がっていくわたしに対し、獣は余裕そうだ。時々チラッチラッと顔を振り返らせ、わたしの様子を窺っている。
必死になって追いかけるわたしは気づかない。少しずつ走る速度が遅くなっているわたしに合わせるように、獣も走る速度を落としていることを。
路地裏に逃げ込む獣の後に続いた時だった。
「まっ、待って……」
「花夜、止まって!」
凛とした声がわたしの耳に届いた。
聞き慣れた声に、え、と思って後ろを振り返れば、御空くんがこちらに向かって走って来るのが見えた。
御空くんに注目していたので、わたしは気がつかなかった。
獣もまた、わたしに走り寄って来ていることを。
獣はその勢いのまま、わたしの足に擦り寄った。
わたしの白くて細い足に、ふさふさとした毛の感触が伝わる。
疲労のたまった足に突如襲ってきた感触。くすぐったさと気持ち悪さを感じて、背筋が震えた。
「うわぁっ!?」
口をついたのは女子力の欠片もない叫び声だった。
足がもつれて、体が傾く。
――荷物を守らないと!
わたしは持っていた荷物をぎゅっと抱え込む。
受け身をとるなんてことはできず、そのまま地面と激突する――はずだった。
「おっと、あぶないあぶない」
軽い衝撃があっただけで痛みはなかった。
自分以外の体温を感じる。
凄く近くから聞こえてきたその声に、わたしは自分を受け止めてくれた人物の顔が頭に浮かんだ。
ゆっくりと顔を上げる。すると、想像していた通りの人物――御空くんの青い瞳と視線がぶつかった。
「御空くん……」
「全く、外では安易にあやかしと関わらないようにって言っておいたのに、ちょっと目を離した隙にこれなんだから」
「やっぱりあの子、あやかしだったんですね……って、違うんです!不可抗力なんです!目が合ったと思ったら、鞄を盗まれてしまって……」
「目が合った時点でダメだよ」
「うう……ごめんなさい」
御空くんは謝るわたしを一度優しく抱きしめた後、そっとわたしから手を放した。
視線を獣――あやかしへと向け、それに近づいて行く。
御空くんとの距離が縮まっても、あやかしは逃げない。咥えていたわたしの鞄はいつの間にか地面の上に放ったらかしになっていた。
あやかしは笑っているように舌を出しており、ぶんぶんと尻尾を振っている。
御空くんはあやかしの前でしゃがんで話し掛けた。
御空くんには何故このあやかしがわたしの鞄を盗んだのか察しがついていた。
恐らく、己の姿が視える人間がいて興味がわいたのだろう。
遊んで欲しくて鞄で気を引いただけ。ただ、それだけなのだ。
「視えるヒトがいて嬉しいのはわかるよ。でも、もうこの子にはちょっかいは出すなよ。さもないと……」
冷ややかな眼差しを向け、威圧的に御空くんは言い放つ。
目には見えない何かを感じ取ったかのように、あやかしはびくりと体を震わせた。
さっと舌を引っ込めて、笑ったような表情が引き締まる。鼻に皺を寄せて小さく唸りながらもその小さな体躯はゆっくりと後退して行き、遂には逃げるようにその場から立ち去ってしまった。
「ふー、これでよし」
あやかしの気配が完全に消えたところで、漸く御空くんは息を吐いた。
地面に放置されたままのわたしの鞄を回収して、渡してきた。代わりにわたしから荷物を受け取る。
「ありがとうございます。でも、あの、あそこまで威圧的にならなくても……」
「甘いよ。僕が受け止めていなかったら、花夜はきっと怪我をしていただろ?普通の人間にはあやかしが視えないから、花夜が一人で転んだようにしか見えないし、もし車の往来が激しいところだったら、事故に遭っていたかもしれない。言ったよね。気をつけなくちゃダメだって」
畳み掛けるように言われて、わたしは思わず俯いた。
けれども、それを御空くんが許さない。
わたしの顎を掴んで上を向かせる。
「僕の言っていること、わかった?」
「わ、わかりました」
役に立ちたいと思いながらも、結局のところ御空くんに迷惑ばかりかけてしまっている。
そんな自分が情けなくて、視界が滲みそうになる。
でも、悪いのは全部自分だ。御空くんに言われていたというのに、注意が足りなかった。そんな自分に泣く権利などなくて、わたしはぐっと涙を堪える。
「これからは、もっと気をつけます……」
「……うん、そうして」
一瞬の間の後、御空くんがふっと息を吐き出した。そして、先程までの空気が嘘だったかのように微笑んだ。
「さてと。帰ろうか」
わたしがまた何処かに行ってしまわないようにと、御空くんの手が差し伸べられる。
わたしはその大きな手に自身の小さな手を重ねた。
繋がった手に、優しくも力が込められた。
*
路面電車に乗っている間も、手は繋がれていて一寸恥ずかしかった。
わたしの手を引きながら、御空くんが説明をする。
「さっきのはすねこすりっていうあやかしだね。雨の降る夜に現れて、歩いている人の足を擦るあやかしさ。全く、花夜の足を擦るなんて羨まし……不届きな奴だな」
――今、羨ましいって言いかけた?
御空くんの発言にわたしは首を傾げる。聞き間違い、ではないはず。
胡乱げにまじまじと見つめていれば、御空くんはへらりと笑って誤魔化した。
一先ずそのことには深く突っ込まずにわたしは別のことを指摘する。
「でもまだ夜じゃないですし、雨も降っていませんよ?」
「うーん、あくまでこれは伝承の一つに過ぎないからなぁ……。例えば、この動物は夜行性だって言われていても必ずしもそうじゃなくて、夜以外に活動している奴らもいるでしょ?」
「確かにそうですね」
「あやかしも夕方とか夜に現れるってイメージがあると思うけど、花夜も知っての通り、実際は日中に活動している奴らも普通にいるんだ。そういう伝承があるからといって、それが全てな訳じゃない。似たような話でも所々違っているなんてざらだし」
「なるほどなるほど」
御空くんの言うとおりだ。多くの人によって紡がれてきた伝承は、大まかな流れは同じでも地域や家によってそれぞれ細かな点で違いはあるものだ。
それに、朝にも昼にもあやかしの客は雑多屋にやって来る。あやかしは夕方や夜限定のモノであるという考えをわたしは早々に捨てた。
「すねこすりに足を擦られたらちょっと歩きにくくなるだけで、呪われるとかそういう物騒なことはないからさ。安心していいよ」
そう言われて、わたしはほっと安堵した。
「あの……迷惑をかけてすみませんでした」
「謝らなくていいよ。僕が花夜から離れたのが悪かったんだし。それに、あのすねこすりに人質……じゃなくて物質をとられたから追いかけたんでしょ?不可抗力不可抗力」
「……さっきと言っていることが違いますよ」
「あはは」
わたしがこれ以上気にしないように、気を遣ってくれているのだろう。
気を遣わせていることにも申し訳なさを感じつつも、御空くんのその優しさが嬉しくてわたしの心があたたかくなる。
「御空くん、今日はいろいろとありがとうございました」
「どういたしまして。でも、それを言うのにはまだ早いかな」
「え?」
悪戯っぽい笑みを浮かべた御空くんに、わたしが間の抜けた声を発した。
「あ、着いた着いた」
声を上げた御空くんに続いてわたしも前を向く。
細い路地を通って辿り着いたのは、見慣れた建物。
自分たちが店を営んで、暮らしている大切な場所だ。
裏口から建物の中に入って漸くわたしは体の力が抜けた。
やっぱり、いつもいるこの場所は安心する。
「僕は荷物を物置に置いてくるから、花夜は先に戻って休んでいていいよ」
「わかりました」
階段の前で別れようとしたその時、「あ、そうだ」と御空くんが振り返った。
「はいこれ」
「え?」
「あげる」
唐突に渡された小包を、わたしは反射的に受け取った。
「一体何ですかこれ……」
わたしが訊くよりも先に、御空くんが廊下を歩いていく。
小首を傾げつつも、わたしは階段を上り、自室へと向かう。
「……開けていいのかな?」
――あげるって言っていたしいいんだよね?
自問自答を繰り返し、小包をそっと開ける。次の瞬間、わたしは目を大きく見開いた。
中に入っていたのは、鈴蘭の刺繍が施された天色の絹紐だった。
可愛いなと思いつつ、でも買わなかった――買えなかった代物。
それが、今ここにある。
わたしの胸に熱いものが込み上げてきて、あたたかい気持ちが溢れてきて、何故だか涙まで出てきそうになって。
嬉しくて、泣きそうになって、感情がぐちゃぐちゃになりながらもわたしは自室を飛び出した。
「御空くん!」
ばたばたと駆ける足音が廊下に響く。
向かう先は、言わずもがな。