第三話 紅
箪笥の中を開けると色とりどりの着物が入っていた。その中から縞模様の着物を選んで着替える。
次に真っ白な前掛けを身につける。ぐっと後ろで紐を結べば、気持ちも引き締まった気がした。
わたしは部屋にある姿見に自身を映していた。
邪魔にならないように長い髪を髪留めで留める。少し乱れた前髪を整え直し、おかしいところがないか最後にもう一度確認すれば準備は完了だ。
「……よし」
わたしは拳を握り締めて気合いを入れてみたものの、思ったよりもその声は弱々しかった。
不安を抱きつつも自室を出ると廊下の壁に背を寄りかけるようにして御空くんが立っていた。
「お待たせしました」
そう声を掛ければ、彼はゆっくりと姿勢を正した。
御空くんがわたしの姿を上から下までじっくりと眺めた後、嬉しそうに頷いた。
「それじゃあ、売り場に行こうか」
手を取られ、御空くんについて行く。どきどきと心臓が高鳴っているのは手を握られたからではなく、これから店の売り場に出るからだ。
――初日だし、きっと簡単なことからだよね多分……。商品の位置とか頑張って覚えないとなぁ……。なるべく、御空くんに迷惑をかけないようにしないと。
と、意気込む。だがこのすぐ後、階段を下りる際に足がもつれ、早々に御空くんに迷惑をかけてしまうことになろうとは、この時のわたしは知る由もなかった。
*
「それじゃあ、花夜はここにいて」
店内をさらりと一周して、連れてこられたのはレジスタアが乗った台の前だった。
レジスタアの近くには黒電話が置かれている。
一通りレジスタアの使い方やお札の数え方を教わる。
再度確認していた時、ちりんちりん、と来客を告げる鈴の音が店内に響き渡った。
……き、来た!
初めての来客にわたしは小さく肩を跳ねさせる。
「はい、笑顔で挨拶ー。いらっしゃいませー」
「い、いらっしゃいませ!」
緩い声の後に、緊張を滲ませた声が続く。
店内に入ってきたのは着物姿の女性だった。
瓜実顔と特徴的な結髪。その髪には簪や櫛、そして幾つもの笄がさされている。まるで浮世絵から飛び出してきたかのような風貌だ。
彼女は店内を見回し、頰を緩めた。
「噂で聞いた通り面白そうなものが売っているわねぇ」
「それはどうも。お客様のお気に召すものがあるかはわかりませんが、どうぞごゆっくり」
「ふふ、それじゃあお言葉に甘えて」
女性が店内を物色し始める。
と、そこまでは客として普通の行為だろう。だが、次の瞬間普通ではないことが起きた。
突然、女性の首が抜けた。
……何を言っているのかよくわからないかもしれないが、女性の首が抜けたのだ。そうとしか言いようがない。
椿の花のようにぽろっと下に落ちたのではない。それが当たり前だと言わんばかりに極々自然にすぅーと浮上したのだ。そして、その抜けた首は今も宙に浮いている。
「これも良いわねぇ……ああでも、こっちも素敵!」
女性の体は出入り口近くの棚を物色している。一方首はというと、ふよふよと浮かびながら店内を行き来してあらゆる商品を眺めている。
体と抜けた首。二つを交互に見遣るわたしの目は、これでもかという程大きく見開かれていたことだろう。
「え、は、え……?」
声にならない声がわたしの口から零れ出る。首が体から離れるというショッキングな光景を目の当たりにしてしまい、驚きのあまり上手く呼吸ができない。
頭の片隅で自分の容体に気づきつつも、わたしは驚きと焦りで余計に呼吸が苦しくなっていく。
――これは、マズいかもしれない……。
息苦しくて、心臓の音がやけに大きく聞こえる。頭が次第にぼうっとしてきたその時だった。
不意に背中にぬくもりを感じた。それが御空くんの手だと認識して、わたしは少しだけ張り詰めていた力が抜けた。
「花夜、落ち着いて。息を吸ってー吐いてー。はい、もう少し吐いてー」
御空くんの言う通りに動作を行う。
何度か繰り返して、わたしは漸く普通に呼吸できるようになった。
御空くんに訊かれる前に、何とか声を絞り出して自分から申告した。
「……もう大丈夫です。ありがとうございます」
「でも顔色悪いよ?上で休む?」
「いえ、大丈夫です」
答える時に若干声が震えたが気にしては負けだ。
ちょっと気分が悪くなったからといって休憩するなんてそんなことはできない。何より、まだ始めてから一時間程しか経っていないのだ。
わたしはぐっと足と腹に力を込めて踏ん張る。
御空くんが心配そうに眉根を寄せたが、「無理しないようにね」というだけで二階に連行することはしなかった。
からから、と下駄の音がして、わたしは咄嗟にそちらの方へ顔を向ける。
すると、心配そうにこちらを見つめる顔があった。その下には、胴体がちゃんとついていて、さっき見たのは自分の幻覚だったんじゃないかとわたしは思った。
けれども、その考えは目の前のお客さんによって否定される。
「あらあら、本当に顔色が悪いわね。驚かせちゃったみたいでごめんなさいね。もしかして、あたしみたいなろくろ首を見るのは初めて?」
「それは、その、あの……し、失礼な態度を取ってしまい、申し訳ございませんでした!」
ろくろ首――それがあやかしの名であるということはわかる。だが、今まで自分がろくろ首を見たことがあるかどうかは記憶のないわたしにはわからない。だから、そのことに関しては曖昧に濁した。
でも、理由はどうであれお客さんの容姿に対して失礼な反応をしてしまったことに変わりはない。
わたしは深々と頭を下げた。
しかし、女性――ろくろ首さんは気にしていないらしい。寧ろ、口元を隠しながら上品に笑った。
「いいのよ。正直言って、最近人を驚かせるなんてことなかったからね。久々にそういう反応が見られてこっちもちょっと楽しかったから」
ろくろ首さんは茶目っ気たっぷりにウインクをして、「もう少し見させてもらうわねー」と意気揚々と商品の方へ戻っていった。
因みに、首は高い所に置かれている商品の方へ、胴体はレジ近くの机の方へそれぞれ別々にわかれていった。
「人を驚かすのはあやかしの性質だからなー」
唖然とするわたしの隣で、御空くんがぽつりと言葉を零した。
*
「お願いします」
「お預かり、します」
わたしたちの前に再度戻ってきたろくろ首さんはこの店に来た時と同じ姿をしていた。つまり、今は首と体が繋がっている状態だ。
わたしはろくろ首さんから商品――小さな木箱を受け取った。
「えっと……」
――どうすればいいんだっけ?
商品を受け取ったは良いものの、体から首が抜けたのを見てしまったショックからか、この後何をすれば良いのか、わたしの頭からすっぽ抜けてしまったようだ。体も上手く動かすことができなかった。
手に商品を持ったまま固まるわたしに、御空くんがこそっと耳打ちする。
「花夜、まずは箱の蓋を開けて、中身を確認して」
「は、はい」
言われた通りに木箱の蓋を開ける。中にはお猪口が入っていた。
お猪口の内側は美しい玉虫色に光り輝いている。
御空くんが口を開いた。
「こちらでお間違えないでしょうか?」
「ええ」
商品を見たろくろ首さんが嬉しそうにこくこくと何度も頷く。
いつまたその首が抜けるんじゃないかと内心ひやひやしながらも、わたしが読み取り機器を手に取る。が、緊張のあまりそれは手から滑り落ちた。
「あっ!」
「おっと」
落下する読み取り機器を御空くんが手を伸ばして難なくキャッチした。「ナイスキャッチ!」と拍手したのはろくろ首さんだった。
「はいどうぞ」
「すみません……」
「気にしない気にしない。僕も時々落とすことあるし」
「お嬢さん。焦らず、ゆっくりでいいのよ」
御空くんとろくろ首さんの言葉に恐縮しながらも、わたしは一つ深呼吸をする。
――落ち着いて。落ち着いてやればできるから。
自己暗示をかけてレジ打ちをする。
ろくろ首さんからもらったお金を確認して、貰った金額をレジスタアに打ち込んでいく。レジスタアの横についている取っ手を回す。すると、がちゃんと音が鳴った。引き出しが開いたので、その中からお釣りを手に取った。
「大変お待たせいたしました」
「ありがとう」
ろくろ首さんにお釣りと商品を渡せば作業完了である。
手元から離れて行った商品に、無意識のうちにわたしはほっと安堵の息をついた。
――で、できた……!
達成感を味わいつつも、直ぐ様訪れたのは自己嫌悪だった。
――でも、手際が悪過ぎる……。
わたしは一人反省会に突入しそうになったが、お客さんが店を去るまでが接客だと思い直して俯きかけた顔を上げる。
すると、ろくろ首さんとばっちりと目が合った。
ろくろ首さんがふっと目元を緩める。
「お疲れ様。よく頑張ったわね」
「時間がかかってしまい申し訳ありませんでした……」
「いいのいいの。貴女が一生懸命なのは見ていてわかったし。あたし、頑張っている子を見るのは好きだから」
優しく微笑むろくろ首さんにわたしはちょっぴり泣きそうになった。
「それにしても、まさかこれが手に入るとは思っていなかったわ!」
ぱっと顔を輝かせて、ろくろ首さんが商品が入った袋を見つめる。その眼差しは愛おしそうで、でも、切なそうで。商品を通して何かを思い出しているようだった。
「この紅は高級品でね、昔のあたしには全然手が届かない代物だったの。だから唇に墨を塗って、その上から安い紅を重ねて、何とか玉虫色っぽく見えるように工夫していたわ。ずっと憧れていたモノがこうして手に入る日が来るなんて……当時のあたしに言ったらそれはもう驚くでしょうね。これが買えるような生活を送ることができるなんて、あの時は全然想像もできなかったもの」
しみじみと語った後、ろくろ首さんははっとして「あらやだ独り言を言っちゃったわ」と恥ずかしそうに口元を隠した。
「良かったですね。ずっと欲しかったモノが手に入って」
そうろくろ首さんに言ったのは、御空くんだった。
笑みを浮かべる彼に、「ええ、本当に」と目を閉じてろくろ首さんが頷く。その手は愛おしげに袋を――玉虫色の紅の入った木箱を撫でていた。
「ありがとうございました」
「あ、ありがとうございました」
御空くんとともにわたしはお辞儀する。
最後にたおやかに手を振って、ろくろ首さんは店を去って行った。
ろくろ首さんを見送った後、人知れずわたしの口からはあ、と息が零れ出た。
御空くんが「お疲れ様」と労りの声を掛ける。だが、わたしから反応はなかった。さぞ心ここにあらずといった雰囲気を醸し出していることだろう。
「え、えーっと、花夜さん?」
「……りしました」
「え?」
「びっくり、しました」
わたしは空虚な声を発した。
瞳にじわじわと涙が滲んでいくのがわかる。今にも涙が零れ落ちそうになっているそんなわたしの様子に、御空くんはぎょっとした。
「え、ちょ、花夜!?」
「ま、まさか人じゃなくてあやかしのお客さんだったなんて!今だから言えますけど、正直言ってすっごくすっごく怖かったです……」
人間の客だと思っていたわたしからしたら、いきなり生きた人の首が取れたのだから、先程のような反応をしてしまったとしても仕方がないと思うのだ。
「ごめん……」
「……何で御空くんが謝るんですか?」
涙目で小首を傾げるわたしから顔を逸らしつつ、御空くんはぽつりと白状した。
「あのー、そのー……当たり前すぎて説明するのを忘れていたというか何というか……」
「何をです?」
「うち、ああいうお客さんばっかりなんだよね」
「ああいう?」
「あやかしのお客さん。寧ろ、普通の人間のお客さんの方が少ないかな」
「そうなんですか!?そういうことは先に言っておいてくださいよ!」
「ごめんなさい」
御空くんから告げられた衝撃の事実に涙が引っ込んだ。
一瞬、自分をからかうために御空くんはわざと言わなかったのだろうかとわたしは疑った。
だが、自己申告をし、素直に頭を下げて謝るところを見るに、御空くんは意地悪で言わなかった訳ではなく、本当に説明するのを忘れていたようだ。
普段は見られない御空くんの旋毛を眺めつつ、ちょっと強く言いすぎちゃったかなとわたしは眉尻を下げた。
――この店には付喪神の鈴ゑさんというあやかしがいるのだから、あやかしのお客さんが来るかもしれないと予想していなかったわたしも悪かったのかな……。
「あの、御空くん。怒鳴ってごめんなさい」
「え、何で花夜が謝るの?」
「御空くんさんに八つ当たりしてしまったので……」
「……別に八つ当たりしてなくない?」
「わたしの想像力が乏しいばかりに……」
「おーい、花夜さーん?」
気持ちが沈んでいくのに比例するかのように、わたしの顔がどんどん俯いていく。
御空くんはそれを阻止するために、わたしの両頬を掴んでぐいっと顔を上げさせた。
こうでもしないとわたしが現実に戻ってこないとでも思ったのだろうか。尤も、当の本人であるわたしは、驚いた様子で目を瞬かせてしまったのだが。
「花夜は全然悪くないから。本当にごめん」
青い瞳が真摯に見つめてくる。
「あやかしのこととか、商品のこととか、勿論他のことだって良い。花夜が知りたいと思ったら、遠慮せずに僕に訊いて」
「……でもわたし、記憶がないからいっぱい訊いちゃうかもしれないですよ?わたし自身、何を忘れて何を覚えているのかよくわかっていないですし……」
「記憶がないとか関係ないさ。たとえ記憶があったとしても、忘れることだってあるでしょ?知らないなら、忘れてしまったのなら、一つずつ知って覚えていけばいいんだ」
一度は引っ込んだのに涙が流れそうになった。
そして、今度こそ零れ落ちた涙は大きな手によって拭われた。
「まあ、僕が教えられることに限るけどね」
悪戯っぽく御空くんが笑う。それにつられるように、わたしも小さく笑った。
*
「さて、それじゃあさっきのお客さんがどんなあやかしなのか説明するね」
「よろしくお願いします」
台の近くに置かれていた椅子にわたしたちは座っていた。
店内に客はいないものの、こんなことをしていて良いのだろうかと思い、「仕事中に良いんですか?」とわたしが訊ねれば、
「客よりも花夜優先だから」
と、良い笑顔でそう返ってきた。
……ほんと、このお店よくこれで潰れないな。
と、わたしは密かに思ったが、自分は教えてもらう身なので何も言わなかった。
「お客さん自身も言っていたけど、あのヒトはろくろ首っていうあやかしだね。しかも、抜け首タイプの。だから花夜には余計刺激が強かったかな」
「どういうことですか?」
「ろくろ首には二つの種類が存在しているんだ。首が異常に伸びるのと首が抜けて頭部が浮遊するのだよ。有名なのは首が伸びる方だけど、原型は抜け首の方らしいよ」
「それじゃあ、さっきのお客さんは原型のろくろ首さんなんですね。あ、だから『あたしみたいなろくろ首を見るのは初めて?』と言っていたんですかね」
「そういうこと」
「同じあやかしでも、色々と種類があるんですねぇ」
「まあ、十妖十色って言うし」
「……そんな言葉ありましたっけ?」
「あるよー」
御空くんは頷いたが、その返答は雑だった。
ああ、これはからかわれているな、とわたしは察した。
気を取り直して次の質問を投げかける。
「ろくろ首さんが買っていった商品についても訊いて良いですか?」
「どうぞ」
「あれって本当に紅なんですか?」
紅といえば、鮮やかな赤色のはず。でも、お猪口の内側に塗られていた色はまばゆいほどの玉虫色だった。
そんなわたしの疑問を御空くんが払拭する。
「純度が高い紅ほど、乾くとああいう色になるんだ。水で濡らした筆を使うと赤色になって、更に唇に塗り重ねると玉虫色の艶を帯びるんだ」
「へー、不思議ですねぇ」
「でも、良質だからこそ値段は高い。玉虫色の紅は最高級の証ってわけさ」
御空くんの説明を受けてなるほどとわたしが頷く。頭を過ったのは、紅を買う時のろくろ首さんの顔だった。
――ろくろ首さん、とても嬉しそうだった。でも、……。
紅の思い出を語る姿は何処か切なげで。
大袈裟かもしれないが、紅はろくろ首さんの人生を象徴するモノの一つなのかもしれないとわたしは思いを巡らせた。
「そうだ。花夜も紅点してみる?」
「え?」
不意に御空くんに提案され、わたしの意識は現実へと戻された。
御空くんの手には先程見たものと同じお猪口があって。いつの間に、とわたしは内心で呟いた。
新品のそれを使おうとする御空くんにわたしが待ったをかける。
「ちょっと待ってください。それって売り物ですよね?」
「お会計お願いしまーす」
「え?……え?買うつもりですか!?」
「花夜は何も気にしなくて良いよ。僕がただ、紅を点した色っぽい花夜を見たいだけだから。あ、でも、紅を点すなら店を閉めないと。色っぽい花夜を他人に見られたくはないし」
「いやいや、気にしますよいろいろと!あと、点す気はないので閉店しようとしないでください!」
わたしが叫んでも、御空くんはにこにこと笑みを深めるばかりで。
わたしたちの攻防は暫く続いたのであった。