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日々を彩る、恋愛短篇集。

日々を彩る、恋愛短篇。—朱鷺色—

作者: 弟切草

初投稿になります。

「こんな青春だったらな」を軸に、綴ってみました。

ぜひ、最後までお読みください。

 午後4時45分。

 窓際、古典文学の本が立ち並ぶ、錆びた鉄製の棚の横。

 私の指定席は、いつもその机の一番端。


 昼休みに比べ、放課後の図書室は人影がまばらだ。この数か月は、特に。


 原因は、きっと私。


 市内では(自称)進学校と言われるこの高校で、あからさまに反抗的な茶色い髪と、色素の薄い目。別に、自分から不良をやってるわけじゃない。早くに死んだ父親が外国人だったんだから、仕方ないのだ。

 とはいえ、教師たちがそれを納得してくれるわけでも、周りの生徒みんなが事情を知ってくれているわけでもなく。父親の血を証明するこの見た目を変えたくなかった私は、教師相手だって真正面から言い争ったし、陰口を叩くような奴には堂々と文句を言った。

 結果として、私は教師からは疎まれ生徒からは怖がられ、友達をひとりも作れず、ぼっちのまま2年生を迎えることになってしまったのである。

 

 おかげで、私が毎週月曜日、水曜日と金曜日の放課後、図書室に現れるようになってからは、人がめっきり減ってしまった。


 この習慣は、1年の3学期から続いている。友達がいないために寄り道などする余地もなく、それまでは真っ直ぐ家に帰って勉強していた。しかし、そうできない事情ができた。去年の11月に母親が念願のネイリストの資格を取り、土日を含めた週5日、自宅で店を開き始めたのだ。一軒家ではあるけれど、そう広くはない家にいて、母の仕事の邪魔をするわけにもいかない。

 カフェだとかコワーキングスペースだとか、いろいろ試してはみたが、結局図書室が一番自分にあっていた。何せ、この高校はアルバイト禁止で、稼ぎの当ては母親のみ。家計に余裕がない。毎日の勉強場所に、金はかけられないのだ。


 こつん、こつん、とシャーペンの裏で机を軽く叩きながら、課題プリントの問題文に目を通す。

 今解いているのは、数学の不等式の証明問題だ。2週間後には、2年最初の中間考査。見た目に反して真面目に勉強してきたものの、地頭はよくないので、何度解いても時間がかかるし、ミスが多い。しかし、目の敵にしてくる教師たちに文句を言わせないためにも、何とかして高得点を出さなければならない。

 ——とはいえ、解けないものは解けないのだ。


「はぁーっ……」


 大きくため息を吐くと、数人残っていた他の生徒たちが、肩をびくっとさせて怯えて出ていった。私の機嫌が悪いと思ったらしい。何か、ごめん。


 気分転換に髪を結び直そうと、腕を上げて黒いヘアゴムを引っ張った。ふと、窓の外に視線を向ける。空は少し薄い雲がかかっている。そこから視線を落とすと、部活中のグラウンドの様子が良く見えた。

 高校総体に向けて練習に励む上級生と、基礎トレーニングや雑用に追われる新入生たち。


 ——いいなあ。


 小学校までは、地域のバレーチームに所属していた。それなりに強かったし、楽しかった。コーチがアメリカ人だったせいか、髪色についても何も言われず、チームメイトも比較的好意的に接してくれた。友達だってたくさんいたし、その家族も、練習帰りにアイスを奢ってくれる程度には親切にしてくれていた。

 中学校からは、校則も部則も厳しくなって、部活に入れてすらもらえなかったけれど。


 今だって、バレー部に入りたいとか、あの頃のように誰とでも仲良くしたいとか、思わないわけではない。やっぱり体を動かすのは好きだし、どちらかというとお喋りなタイプだから、ぼっちよりは誰かと一緒にいたい。


 でも、私は案外、今の生活も気に入っていた。

 

 古い紙の匂いと、程よく入る西日。室内は静まり返っているのに、窓の外から微かに耳を掠める、ランニング中の部活動生たちの掛け声。時々軋むパイプ椅子、カリカリとシャープペンシルが紙を滑る音。

 全てが心地よくて、ひとりの図書室も悪くないかも、なんて思い始めている自分がいる。

 ——厳密には、ひとりではないけれど。


 ポニーテールのおくれ毛をピンで止めながら、入り口横のカウンター奥に目をやる。

 古い型のパソコンの前に座り、小説を読み耽っている、眼鏡の上級生。文学少年という称号が似合いそうなその彼はいつも、この図書室にいた。

 昼休みのカウンター当番は、全学年全クラスの図書委員で交代している。だが、放課後の担当は、生徒会役員である図書委員長と副委員長のふたりで回していた。副委員長は私と同じ2年生だから、彼は先輩。3年生。


 勉強がメインで、基本的に本を借りない私は、彼と言葉を交わしたことはほとんどない。——あの1回を除いて。



 ◇ ◇ ◇

 2月14日。いつも通り、私は図書室の窓際の席で勉強していた。学年末考査が3日後に迫り、かなり慌てていたと思う。どうせ私の周りは人が座らなかったから、隣の椅子に荷物を置いて、机の上も筆記用具と参考書とノートでぐちゃぐちゃになっていた。


「あっ、また間違えた……」


 やり直そうと、焦って消しゴムを取ろうとして、派手にペンケースごと落とし、中身をぶちまける。流石にテスト前で数人の人影はあったけれど、当然手伝おうなんて人はいない。私は、何だか情けない気分で、しゃがみこんだ。

 シャープペンシル、赤ペン、定規、消しゴム。——マーカーペンが、足りない。線を引きやすくて、参考書や教科書のラインに重宝していたのに。きょろきょろと辺りを見回すが、見当たらない。隣の机の下も、どこにも。

 鉄の棚の隣には、源氏物語だけを集めた4段のカラーボックスが置かれている。古文のものから現代語訳版、英語版に漫画版まで揃えられ、隙間なくきっちり並べられたものだ。まさかと思い、そのカラーボックスと鉄の棚との間の隙間を除くと、奥の方に見覚えのあるプラスチック軸が見えた。


 これはまた、厄介なところに。


 カラーボックスとはいえ、入っている本の数が多すぎるため、そう簡単には動かせない。だからといって、全部出してまた戻して、とするには時間がかかる。

 うちの経済状況を考えると、ペン1本でも手放すのは惜しい。仕方ない。ブレザーを脱ぎ、シャツの袖を捲って腕を伸ばす。

 決して腕が太いわけではない。——多分。それでも、古いカラーボックスから飛び出したネジの頭とか、鉄の棚の金具なんかが飛び出していて、ペンまでは中々手が届かなかった。


「もう、あと少しなのに……!」


 ぶつぶつと呟きながら、無理やり腕をねじ込む。

 ——すると。


 ひょいっとカラーボックスが傾き、突然圧迫された腕が楽になった。勢いあまって前に倒れそうになるのを、棚に手をついて何とか堪える。


「えっ……?」


 驚いて振り向くと、そこには、眼鏡の男子学生が立っていた。スリッパの色は緑。ということは、先輩。それに、この冷たそうな目はどこかで見たような——。


「拾わないのか」


 彼は、唐突にそう言った。きょとんとしている私に、視線だけでほこりにまみれたマーカーペンを示す。そうされて初めて、彼が手伝ってくれたのだと知り、私は慌ててペンを拾った。立ち上がると、軽々とカラーボックスを元の位置に戻す。

 パンパンと手を払う彼に、私は頭を下げた。


「あの……先輩、ですよね。ありがとうございました」


 細くて長い綺麗な中指ですっと眼鏡を上げ、彼は答えた。


「問題ない。仕事のうちだ」


「仕事?」


 頷いて、胸ポケットからちらりと生徒手帳を持ち上げる。手帳のカバーにつけられた、小さなバッジ。生徒会役員だけがもらえる、ピンバッジだ。

 ——そうか、この人、秋に生徒会役員選挙で当選した、図書委員長だ。

 真面目そうで、大人しそうで、頭もよさそうな男の先輩。華奢なイメージだったけれど、思ったより力持ちみたいだ。


「あの、仕事だとしても、手伝ってもらったことには変わりないので。助かりました」


 そう言って、席に座る。彼も、私のいる机の横を通り抜けて、カウンターへ戻ろうとした。——その一瞬、私の隣の椅子に置かれた荷物を一瞥し、ピタリと動きを止める。


「……生徒会役員として、不要物の持ち込みは見過ごせないが?」


 そう、低い声で呟いた。視線の先にあるのは、リュックの口からはみ出した、チョコレートの包装。当然、バレンタインのチョコレートだ。要するにこの真面目な図書委員長は、私が誰か好いている男にチョコレートを渡そうと、学校に持ち込んだと思っているのだ。そして、それを没収しようと。

 さて、どうしよう。事情を話すか。話したところで、不要物であることには変わらない。それに、そもそも信じてもらえない可能性の方が高い。

 ——しかし。


「学校帰りに墓参りに行くので」


 私の言葉に、彼は一瞬だけ目を見開いた——ような気がした。


「死んだ父に、供えるつもりだったんです。一回帰ってからだと、遠回りになるから。……でも、校則違反なのは知ってて持ってきましたから。没収するなら、仕方ありません」


 そう言って、紙袋ごとチョコレートを差し出す。彼は、一瞬だけ視線を彷徨わせて、軽くため息をついてそれを受け取った。

 ——やっぱり、ダメか。

 彼は、そのチョコレートをカウンターの下に置くと、そのまま図書室を出ていった。他の生徒会役員か、もしくは教師にでも報告するのかもしれない。または、反省文用紙を取りに行ったか。真面目そうな彼なら、やりかねない。

 ここで帰っても後から文句を言われるだろうし、私は彼が戻ってくるまで勉強を続けることにした。逆に、残っていた数人の他の生徒たちは、私たちのやり取りにすっかりビビり、そそくさと帰っていった。


 2月は日が暮れるのが早い。下校時間が近づき、すっかり暗くなった外を眺めながら、荷物をまとめる。図書室内はエアコンが効いていて温かいけれど、外は寒そうだ。マフラーをしっかり巻いて、テーブルに寄りかかる。

 突然、大きな音を立てて扉ががらりと開いた。驚いてそちらを向くと、彼は少し肩で息をしながら、真っ直ぐにこちらを見つめていた。右手には、何か筒状のものを持っている。


「よかった。まだいたのか」


「校則違反は反省文。それくらい知ってます。勝手に帰って怒られるのは、私ですから」


 私がそう言うと、なぜか彼はバツが悪そうな顔をした。意味が分からない。そう言えば、彼は反省文用紙らしきものを持っていない。首を傾げていると、彼は真っ直ぐこちらに来るのではなく、カウンターに入り、屈んだ。立ち上がったその手には、ひとつの紙袋が握られている。

 そして、彼はつかつかと無言で近づいてきた。気圧されて少しのけぞる私に、スッと紙袋を差し出す。


「……悪かった」


「え?」


「あの場ではああしないと、きみだけ特別扱いしているみたいになるからな。……結果としては、実際そうなんだが。とにかく、本気で没収する気はなかった。反省文もない」


 呆気にとられつつも、紙袋を受け取る。それは間違いなく、父に用意したチョコレートだ。


「それから、これ」


 目の前の机に、とん、と缶コーヒーを置く。まだ暖かい。

 この学校の自販機は、正面玄関のある第1棟か、第2棟と3棟を繋ぐ渡り廊下かの2か所にしかない。どちらも、この図書室からはそこそこ遠い。それなのに、わざわざ買いに行ったのだろうか。

 彼は、真剣な声で言った。


「不躾な言い方をして悪かった。これも、きみの父上の墓前に供えてくれ。こっちはきみに」


 もうひとつ、ホットのミルクティーのペットボトルを、今度は直接差し出され、私は思わず受け取った。

 父親のお供え物を、赤の他人である図書委員長が用意してくれるだけでもかなり行き過ぎた気遣いなのに、私の分まで。


「どうして……」


 呟くと、彼は当然のことのように答えた。


「今から墓参りなんだろ。外は寒い。それで凌げるとは思えないが……まあ、気休め程度に。飲め。先輩からの奢りだ」


 そう言った彼は、予想外にも、屈託ない子供のような微笑みを浮かべた。

 とっ、とっ、と胸の辺りから音がする。その音が、ペットボトルのミルクティーが波打つ音なのか、自分の鼓動なのか、それは私にはまだ分からなかった。



 ◇ ◇ ◇

 あのときから、私はこの感情に名前を付けられないまま、そして彼に話しかけられないままでいる。

 そういえば、彼はなぜチョコレートには反応したのに、私の髪色には何も言わなかったのだろうか。あの場で真っ向から不要物を注意してくるくらいだ。他の誰が怖がって遠巻きに見ていようと、茶髪を見過ごせるような甘い人ではないと思うのだが。

 それに、月曜も水曜も金曜も、毎度のように顔を合わせているのだから、私みたいな見た目からして素行の悪そうな生徒が図書室に通い詰めているなんて、迷惑に思っていてもおかしくないのに。実際、私がいるせいで、他の生徒の図書室利用率が低迷しているのだから。


 とはいえ、私としては、追い出されない方が都合がいい。家以外で落ち着いて勉強できるのはやはりここだけだし、本を読む彼の横顔を見るのは、何となく好きだから。

 

 そう、勉強。回想に浸っている場合ではなかった。数学の問題は、まだ手付かずのままだ。


 参考書や授業のノートを片っ端から開きながら、ヒントを探る。正直、何が理解できていないのかも理解できない。国語や地理よりは数学だったり物理だったりの方が楽しいと思って、2年生から理系を選択したのだけれど。こんなに躓くとは思わなかった。

 頭を抱えていると、突然プリントに影が落ちた。


「苦戦してるな」


 忘れもしないその声に、パっと顔を上げる。中指で眼鏡を上げる、その仕草。さっきまでカウンターに座っていたはずの彼が、今、小説を手に持ったまま、机を挟んで目の前に立っていた。


「あ、あの……?」


「それを解く前に、こっちのこの問題を解いてみろ」


 こちらの戸惑いなんて1ミリも気にしていないように、彼は勝手に私の参考書を手に取り、ページを数ページめくってひとつの問題を指す。

 なんで突然話しかけられたの?

 もしかして、さっさと勉強を終えて、図書室から出て行ってもらいたい?

 いろいろな考えがぐるぐると頭を埋め尽くす中、言われたとおりに参考書の練習問題に手を付ける。この辺りは、そう難しくはなかったはずだけど……。


「あれ?」


 解いている間に、思わず声を漏らした。


「似てるだろ、さっき躓いてた問題と」


 こくこくと頷く。彼の言う通り、問われている本質は課題プリントと同じだ。参考書の方は、段階を踏んで解けるように、いくつかの小問に分かれているだけで。

 記憶の新しいうちに、プリントの問題にも手を付ける。すると、長い間悩んでいたのが嘘のように、ものの数十秒で解けてしまった。


「良かったな」


 先輩が去ろうとしたので、思わず立ち上がる。その衝撃で机が揺れ、あの日のようにペンケースが落ちた。派手な音を立てて、中身が散らばる。——なにをやっているんだ、私は。肩を落として拾い始めると、頭上で、フッと息が漏れる音がした。


「……相変わらずそそっかしいな」


 どうやら、笑われてしまったようだ。それでも、一緒にしゃがんで、ペンを拾ってくれる。


「あの」


「何だ?」


「ありがとうございます。勉強も、ペンも、それからその……この前のことも」


 「この前のこと」と言われ、彼は一瞬動きを止めた。覚えていないのだろうか。こんな見た目の人間と関わったのだから、良くも悪くも印象に残りやすいと思っていたのだが。

 しかし、彼はすぐに頷いた。


「礼を言われるほどのことじゃない」


 なんだか、態度といい言葉選びといい、古風な武士みたいだ。少し、面白い。

 せっかくこうやって対面しているのだから、少しでも話をしたくて、私は言葉を続ける。


「先輩、数学得意なんですね。ちょっと見ただけで解き方わかっちゃうなんて」


「まあ、理系の端くれだからな」


「理系だったんですか!?」


 思わず大きな声を上げると、訝しげな眼を向けられる。


「文系っぽかったか?」


 不快にしたかと思ったが、そうでもなさそうだ。単純に、なぜ文系と勘違いしたのか謎だ、と思っているようだった。


「すみません、ただのイメージです。いっつも本読んでたし、図書委員長だし。本が好きな人って国語とか得意そうだから、勝手に文系かなぁって」


 なるほどな、と相槌をうちながら、彼はテーブルの天板を使って集めたペンをトントンと揃えた。軸と蓋の向きが全て揃っている。やっぱり、生真面目だ。

 ペンケースに戻し、今度こそカウンターに戻ってしまうかと思いきや、彼はおもむろに、真向かいの席に座り始めた。呆然と立ち尽くしている私にも、目で座るよう訴えてくる。私は、ドギマギしながらも椅子を引いて腰を下ろした。


「これは俺の持論なんだが」


 手に持っていた小説をコトン、と机に置いて、人差し指で指す。


「理系だろうが何だろうが、一番必要なのは国語力だ」


「え?公式を暗記したり、素早く正確に計算したりする力じゃなくて?」


 私の反応が予想通りだったのか、彼は何だか嬉しそうに口元を緩める。「それもあるけどな」と付け足して、彼は続けた。


「公式はひとつしかなくても、その公式を使う問題の問われ方は何通りもある。数学で躓く奴は、問題文を読んでも何を問われているのか、覚えた中のどの公式を使えばいいのか分からなくてついていけないことも多いんだ。だから……」


「読解力が必要……ってこと?」


 ついそう言うと、彼は満足げに頷いた。分かってるじゃん、と言いたげな瞳だった。


 それから、彼はずっと対面に座ったまま、残った課題プリントの問題の中で分からない問題が出てくると、少しずつヒントを出してくれた。教科書のここを読めばいいとか、参考書のこの問題を解けばいいとか。彼の出すヒントは、直接解き方を教えるというより、解き方を自分で探せるようにしてくれているというタイプで、自然と自分自身に力がついていると思えた。

 この人、普通に教えるの上手いな……。

 思った通りにそう伝えると、彼はさらっと「特進クラスだからね」と答えた。3年生で、理系の特進クラス。300人近い3年生の中で、クラス全員が上位40位以内に入るという、うちの学校で一番頭のいいクラスだ。

 そんな人に教えてもらえるなんて、ラッキーすぎる。


 最初見たときは、冷たそうな人だと思ったのに、バレンタインの一件といい今日といい、彼はかなりの世話好きで、そこそこに社交的なようだった。これだけ言葉を交わした今なら、訊いても答えてくれるだろうか。

 伏し目がちに本に目を落とす彼を、そっと呼ぶ。


「先輩」


「ん?また分からないところでもあったのか?」


「いえ。数学は、先輩のおかげで何とかなりそうです。そうじゃなくて……。

 先輩あの日、チョコレートには突っ込んだのに、どうして私の髪色には何も言わないんですか?」


 彼は、なぜか困惑の色を浮かべた。そして、「何を今更」と呟く。


「ハーフなんだろ、きみ。染めてるならともかく、地毛なら問題ないじゃないか」


「……知ってたんですか?」


 本に栞を挟み、頷く。


「うちの生徒会を舐めるなよ。役員は全員知ってる。入学の時に容疑検査しただろ。そこで怪しい奴は、ちゃんと調べてある。じゃなきゃ、そんな目立つ茶髪、野放しにするわけないだろ」


「でっ、でも、先生たちは信じてくれないし……!」


「それは、うちの高校の教師が無能なだけ」


 ……これはまた随分、はっきりと。

 曲がりなりにも生徒会役員ともあろう人が、私しか聞いていないとはいえ、そんなことを堂々と言ってしまっていいのだろうか。

 こちらの心配をよそに、彼はぶつぶつと呟き続ける。


「頭が固いんだよな……時代遅れというか。大体バレンタインのチョコレートだって、俺たち生徒会は別に取り締まるつもりなかったんだ。就任してからじゃ時間が足りなかったから、校則を変えられなかっただけで……」


「そうなの!?」


「こら、タメ口」


 ピシっと窘められ、慌てて口を塞ぐ。何だか、この人の真面目と不真面目の境界線が分かりづらくなってきた。変なところで厳しいのに、教師に対しては意外と反抗的。

 変なの、と思いつつ、まだ疑問に思っていたことを問いかける。


「でも……事情を知ってたとしても、私が先生たちからも他の生徒からも厄介者扱いされてるの知ってますよね?乱暴だとか、すぐキレるとか……。それなのに、品行方正な生徒会役員様が、私なんかと関わっていいんですか?」


 そう言うと、彼はなぜかグッと眉根を寄せた。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える、そんな表情。

 暫く黙っていたが、彼は突然長くため息をつき、呆れたように言ったのだった。


「きみ、そういう奴じゃないだろ」


「……」


「少なくとも、図書室(ここ)でのきみは、喋らず静かに、ただひたすら真剣に机に向かってた。誰にも迷惑をかけるようなことはしてないし、勉強中に本を使ったときも、必ず元あった場所に戻す。帰るときには、消しくずは丁寧に集めてゴミ箱に捨てて、椅子も綺麗に並べて帰った。

 もちろん、当たり前のことといえばそうだ。でも、その当たり前ができない人間は、この世に溢れてるからな。

 噂はどうであれ、週3回、ここで見るきみは何の問題もない優等生だったよ。……それに」


 眼鏡の奥の目が、穏やかに細くなる。


「俺は生徒会役員になる少し前から、きみを知っていた」


「……え?」


 少なくとも、私の方に彼の記憶はない。忘れてしまっている?いや、そんなはずは……。

 頭を抱える私を可笑しそうに見ながら、悪い悪い、と繰り返す。


「知っていたのは、一方的に、だ。見てたんだよ。……去年の初秋、クラスマッチを」


 クラスマッチがあったのは、9月中旬のことだ。その時すでにクラスで浮いていた私は、他の大人しい子や変わった子と一緒に「その他大勢」のチームを組まされ、バレーに出た。小学生の頃のような、仲間との楽しいバレーというわけにはいかなかったけれど、それでも久しぶりにチーム競技で身体を動かせたのは、思った以上に嬉しかった覚えがある。


「なんせ目立つからな、その髪。自然と目に入ってきた。どう考えてもずば抜けて上手いくせに、周りのミスに文句は言わないし、黙々とカバーに入ってただろ。転んで怪我しそうな人がいればぶつかったふりして支えてたし、動きの鈍い子の顔面に飛んできたボールもさらっとレシーブしてたし。器用なんだか不器用なんだか」


 そう言って、また肩が震えだす。何だか失礼な気はするけれど、この笑顔は嫌いじゃない。ひとしきり笑ったあとで、彼はとにかく、と前置きして言った。


「その時からずっと思ってた。きみは、いい奴なんだろうなって」


 その時、窓の向こう、空にかかっていた薄い雲が、さあっと晴れた。沈みかけた太陽が、彼もろとも、図書室中を染め上げる。細いフレームの眼鏡も、その奥の私を優しく見つめる瞳も、影を落とす鉄の本棚も古びた百科事典も、そして私のこの気持ちも——何もかもが、朱鷺色の世界に飲み込まれる。


 ——ああ、これは、あれだ。世間一般で言う、()()()というやつだ。


「あれ?照れてるのか?顔、赤いぞ?」


 揶揄うような口調に、私は目を逸らし、ぽそりと呟く。


「夕日の所為じゃ、ないですかね」


 自分でも驚くほど、囁くような小さな声だった。


「どこかで聞いたような、ありきたりな言い訳だな」


 彼は、今までで一番、甘ったるい声だった。——そう感じたのは、私だけかもしれないけれど。


「私、文才ないので。すみませんね、語彙力なくて」


 そう言って唇を尖らせると、彼はクスリと笑って、読んでいた本を差し出した。


「じゃあ、これを貸してやる。語彙力、鍛えられるぞ。私物だから、期限なしだ。好きな時に読め」


 表紙に目を落とす。作者は、堀辰雄。タイトルは『風立ちぬ』。確かこれは、アニメ映画にもなった作品ではないだろうか。原作が純文学だということは知っていたけれど、映画は見ていないし、まして純文学なんて手に取ったことすらない。

 でも、彼は私物だと言った。古そうなのに、折れも破れも一切見当たらない。きっと、大切に扱われてきた本だ。それを貸してくれるなんて。


「……いいんですか?」


「ああ。俺が卒業するまでなら、返すのはいつになってもいい。ただし、返すときにはちゃんと感想聞かせろよ」


「はい!」


 思わず声を上げると、元気が良いなあ、と小さい子を見るような目で言われてしまった。

 自分だって、笑った顔は子供みたいなくせに。


 スピーカーから、ぷつっ、と放送が入った音と共に、音楽が流れ始める。下校の時間だ。私は慌てて荷物を片付け始めた。彼も、カウンター下に入れていた自分の荷物をパパっとまとめて背負う。どうやら、彼もリュック派のようだ。

 ふたり同時に図書室を出て、すぐ横の階段を下りる。校舎は全然人影がなくて、グラウンドの声もほとんど聞こえなくなっていた。


 1階まで下りきると、彼は「あっ」と小さく声を上げ、廊下の奥を見た。視線の先には、生徒会室がある。


「俺は、役員と終礼があるから。ここで」


 じゃあ、と片手を上げ、彼の背中が遠ざかる。一緒に帰れるわけないとは思っていたし、帰れたとしてそんな度胸はまだない。でも、でも……。


「あっ、あのっ!」


 自分でも気づかぬうちに、叫んでいた。彼は驚いて振り返る。


「また、勉強教えてくれますか?数学だけじゃなくて、他にも」


「もちろん。俺でよければ」


 当然、という風に頷く。懐の深い先輩だ。今なら何でもOKしてくれそうだ。勢いに任せて、さらに言う。


「それから……!先輩、頑張ってバレンタインの校則、変えてください!」


 きょとんとした、彼の顔。あああ、絶対に不審だと思われている。何だかいたたまれない。しかし、彼は眼鏡をクイッと上げて応えた。


「そうだな。その方が、きみの父上の墓参りにそのまま行きやすいだろうしな」


 そうだけど、そうじゃない。そのためじゃない。この人、女心に鈍いのだろうか。いや、私だってさっき自覚したのだから、あまり人のことは言えないかも。

 はっきり言わなきゃ。きっと、伝わらない。


「それだけじゃなくて!先輩にも、チョコレート、渡したいんで!!」


 それじゃあ失礼します!と、私は方向を180度変えて一目散に駆け出した。

 かなり大胆なことを言ってしまった。仲良く——かどうかは分からないが、話せるようになったのはついさっきだというのに。

 顔から火が出そうだ。

 

 でも、何だかすっきりした気分だ。試合でスパイクを決めたときのような、高揚感と爽快感と、あふれ出る喜び。

 少なくとも、借りた小説を返すまでは、先輩と関わり合える。

 私は、ローファーを履いて、勢いに任せて校門へと続く坂道を駆け下りた。


 ——ああ、明後日が待ち遠しい。



 ◇ ◇ ◇

「随分賑やかだったわね」


 生徒会室の扉から顔を出したのは、同じクラスの生徒会会計役員だった。


「……何ニヤニヤしてるのよ、気持ち悪い」


 辛辣な彼女の言葉も、今の俺には通じない。どうせあの子絡みでしょ、と肩を竦め、手にしていた会計ファイルに目を落とす。


「まあな。今日は俺たち以外誰もいなかったからな。やっと話せたよ」


「ハイハイ、それは良かったですねー」


 呆れたような彼女の言葉も、聞き流せる。


 きみが月・水・金の3日間だけ図書室にいると知って、後輩に無理を言って俺をその日のカウンター当番にしてもらったと言ったら、きみはどう思うだろうか。

 頑固すぎるくらい信念は曲げないくせに、実は人にもモノにも優しくて、誰よりも気遣いができるきみを知って、クラスマッチのあのときからずっときみを目で追っていたと伝えたら、どう思うだろうか。

 きみが図書室にいることで利用者が減っていると分かっていながら、少しでもふたりきりになるチャンスが欲しくて、わざと放置していたんだと知ったら、きみはどう思うだろうか——。


「あの日だって——」


 そう、バレンタインのあの日だって。


「他の男にチョコレートをあげるんじゃないかと思ったら気が気じゃなくて、つい校則を利用して取り上げようとしたなんて知ったら……」


「あんた、父親へのチョコレートだったから申し訳ないって思ってるかもしれないけど。本命宛てのチョコだったとしても、やってることは超クズよ、それ」


 ファイルに書き込みをしながら、冷たい声でそう突っ込む。この会計役員——1年生の時から同じクラスなのだが、自分の恋人にはめちゃくちゃに甘いくせに、他の男にはやたらと物言いが鋭い。

 ——まあいい。今日の俺は、かなり気分がいい。

 なんせ、やっときみが、その気持ちを自覚してくれたのだから。


「夕日の所為なんかじゃ、ないんだがな……」


「は?」


 訝し気に訊き返され、何でもない、と答える。


 きみは、照れていない、夕日の所為だなんて言ったけれど。

 そんなこと、あるわけがないんだ。だって——。


 ——外が真っ暗だったバレンタインのあの放課後も、きみの頬は朱鷺色に染まっていたのだから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この二人の物語の記録はここまでとなりますが、また、他の誰かが登場する恋愛短篇を綴っていこうかなと思っております。

その時はぜひ、お読みください。

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