霊の本(ひのもと)から世界は始まった
新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、外の世界である、物質的なものから、自分自身の内面と向き合う時間も増えたのではないでしょうか。
歴史や科学、医療なども非常に限定的で、見えない世界の研究はまだまだこれからというところも見受けられます。
見えない世界を解く鍵のひとつが量子力学なのかもしれませんが、その量子と深い関わりがあるのが、言葉であると思います。
~プロローグ~言霊の幸倍う国、日本
名前や言葉がこれほどに力を持つとは...
やはり言葉の持つ力は、なんと凄いことか。
「新型コロナウイルス」「がん」「糖尿病」「高血圧」「アトピー」「PTSD」「自閉症」「認知症」すべて日常生活の「生体反応」に過ぎないのであって、名前さえつけなければ、恐ろしいものではなく、体の状態を示すメッセージに過ぎない。
メッセージに従い、原因を改善していけば、命を落とすには至らないはず。
仮に命を落としたとしても、それは医療があっても無くてもあまり変わらず、むしろ医療によって落としているケース『医源病』という事が多発。
薬や手術でメッセージを消して、己を傷つけ、本質から遠ざかる事で、さらに新しい病気を生み出しているのだ。
それが巨額の利益を産み出してきた。
教育からすでに始まっている、とてつもなく大きな医療という洗脳。
本当の医療崩壊とは、真実が明るみになり、誰も医療を利用しなくなることなのではなかろうか...
「霊の本=日本」とは、
言葉が現象を生み出す、言葉で国を創る、まるで魔法使いのような国の事である。
その昔、日本から、世界は始まった。
第1話 言葉の持つ力
大和言葉というが、日本語は本来「大きな和」を持った言葉であり、「和」とは我、あなた、相手の事を気遣った、優しい言葉の事でもある。
そして言葉とは現象に対する名前であって、その名前が現象を生み出している。
つまり魔法の言葉こそが言霊であり日本のルーツでもある。
言葉とは言霊であり、霊であり。日の本(ひのもと・霊の本)である。
つまり言葉の国が日本であり、言葉で国を創ったという唯一の国である。
和とは戦争などの争いの無い、いわゆる「平和」も含まれるが、(和・わ)はわれ(われは相手の事)相手の事を気遣った、厳しい言葉も「和」であり、時には喧嘩もして、仲直りをした時、真の「和」を理解したときの「和」も同じなのである。
わ→和、我、輪
名は体を表すというが、言葉、言霊は現象を生み出す。
わと言えば、輪っかをイメージし、そして、相手と調和のイメージをもたらすのだ。
話した言葉がイメージを創り、目の前の一切の現象を創り出す言霊とは、波動であり、周波数であり、モノであり、命でもある。
言葉で国を創った、大和国である日本の、日本語についてのお話のはじまりといきましょう。
第2話 「あいうえお」から「あいえおう」の時代へ
愛の意味は言霊で言えば、わたしがいるという事。
つまり有る、という事でもあり、有り難うの意味でもあるのである。
日本語からはじまり、愛は英語のアイでもある。わたしが存在する事が愛であり、不変であり、主体である。
そして、世界を創っているのはあくまでも主体であるという事。
例えば、この文章を読んでくださっているあなた。あなたは主体であり、
この文章の世界はその主体に従うものであり、書いているわたしもあなたに従うだけの存在なのである。
わかりやすく言えば、【面白いか、面白くないかはあなたが決める】見ている主体が決めるという事である。
いくら書いた側が面白いと言っても判断するのは見ているあなたであり、主体であるあなたがいるから、主体の反対側である客体のわたしが存在するのだ。
つまり主体側から見た世界、感情、存在、欲望、知識、そして判断こがすべて。これを表したのが、五十音である。
この並べ方によって世相が決まるのだとしたら...
【あいうえお】と【あかさたなはまやらわ】→欲望と金
【あいえおう】と【あたかはまらなやさわ】→経験に基づいた判断力と自由意志(つまり自分軸という事)
これまでの世界は文明を発展させる為、「あいうえお」だった。これからは、「あいえおう」と順番が変わるのかもしれない...
第3話 人類の共通意識
何かに気づいた時、ひらめいた時、つい「あっ」という言葉は出ないだろうか。
この時の「あ」は人類共通の言葉とイメージなのかもしれない。
そして、誰かに久しぶりに会った時、誰かに何かしてもらった時、「わー、久しぶり」と言ったり「わー、ありがとう」と言ったりしないだろうか。
「わ」は相手の事、和、輪、調和、客体の事、見える、現れる、湧く
言葉を発した時に湧くイメージ、これは教えてもらったものでは無く、自然にでるもの。
それが言葉なのである。
ことばという文字も(現象が生まれる)という意味のようである。
※「古事記と言霊」島田正路さんの著書を参考にしている。
こ(子)と(戸)ば(葉)
子どもが戸を通って葉っぱのように広がって出てくるイメージ。
これがこの世に現象が生まれる、起こるをイメージをしている。
まるで子どもが生まれるように。
このように、共通の言葉、共通のイメージというものがある。
例えば、ほうきにまたがった魔法使い。龍に乗った子ども(日本むかしばなしのイメージ?)
もちろん、アニメや絵本によるものかもしれないが、何故だか心地良く、「そのイメージが違う」とは誰も思わないのではないだろうか。
そして、そもそもの見ているものすべてが「触れる事のできる共通イメージ」と言ってもいいだろう。
この共通の意識こそ、世界のすべてであり、生命であり、あなた自身であり、わたし自身でもある。
これが、おおもとは一つ、「大いなるすべて」の正体なのであろう。
わたしは、大人気の漫画、ワンピースもこれではないかと思っている。
もともとは大きな1つであった存在が分かれた理由。
経験するため、成長するため、感動するため、生み出すため、別れるため、そしてもう一度一つになるため。
結局、正解などなく、一瞬一瞬を懸命に生きれば、大いなるすべてに還るようになっている。1つに還るようになっている。ゴールは決まっている。
そうであれば、過去を悔いる事なく、未来を憂えることなく、名一杯ゴールまでの道のりを楽しもうではないか。
第4話 国生みの島・淡路
この世は、自分自身である主体と自分自身以外の客体世界とに別れる。
ことばで言うと主体である自分が「あ」で客体である相手が「わ」
現実世界は「あ」と「わ」が織り成す世界であって、あ、わの母音、半母音に、父韻と言われる意識が神(噛み)結んだ時に子音という現象、音が生まれる。
そして、あわのように浮かんでは消え、浮かんでは消える儚い世界でもある。
「あ」と「わ」は物質世界でいうところの素粒子というところになろうか。
「淡い」ので、まだ「あなた」と「わたし」がいるだけでは何も起きていないという事でもある。そして、この物質の最小単位である素粒子、あわの状態は実際の現実世界にも投影する。
これが、すべてこの世の中はフラクタルと呼ばれる所以である。
フラクタルとは自己相似の事。自己の投影が世界である。
なにしろ、淡路島から世界が始まっているという話もある(※)。
物質の最小単位が、自分自身の意識とそれ以外の「あ」と「わ」(淡)だというのも頷ける。
すべての始まりが主体と客体、つまり「あ」と「わ」だとすれば、
あなた自身が、ただただ「ある事」が何よりも尊く、すべての始まりであるという事である。
※国生みの島・淡路は伊弉諾尊・伊弉冉尊が天沼矛で下界をかき回し、日本で最初に生まれた特別な島だと言う事。
あなたがいなければ、この文章も存在しない。何故ならば文章から読み取るメッセージは読み手が感じる世界がすべて。
読み手が100人居れば、100通りの世界ができる。
「自分と自分以外のもの」から、すべてが始まり、まだ何も起きていない、「淡い状態」を経て、国(組んで似せる)をつくったのも主体、主体が有ると認識した時点、そして、存在するものが発するメッセージを主体が受け取った時点で、物質は完成する。
どういう事か?
コウモリを例にとればわかりやすい。
コウモリは目が見えていないが、ぶつからずに飛ぶ事ができる。
コウモリと同じように、人間も、飛びはしないが、物質からでている波動を受けとることにより、モノを認識し、見えているすべてを認識する。
一人一人がそれぞれにメッセージを受け取って現象世界を見ているのである。
自分自身が世界をつくり、客体は主体に従うもの。しかし個々で独立している。これはまさに「自分の体全体が主体」、「自分の体の細胞が客体」この関係がわかりやすい。
「地球が体とするならば」起こっている現象は、自分も含めて、「体の細胞組織がそれぞれに活動している」と見てはいかがであろうか。
見えている世界も、自分の体の一部ではあるが、各々は独立して活動している。
「人の振り見て我が振り直せ」や「情けは人の為ならず」は、共通していて、『相手に優しくすれば、自然に自分が癒される』ようになっている。
目の前の現象を癒すという事、
そして、相手を嫌いと思う気持ちや憎む気持ちというのは、自分の癒すところ、傷のようなイメージと言ったところだろうか。
相手に対して感情的に怒っている時は、自分自身にとって戒めのような感じなのだろう。『そんな事をしてはいけないよ』と、結局は自分を戒めている。
相手のように見えて、実は「自分の状態が現れた鏡」とも「自分の体の一部」とも言えるだろう。
自分の内面が溢れでているのが目の前の現象なのである。
そして、世の中の事象はすべて自分自身の内面で起きている事だと言えるであろう。
例えば、全国的に雨が降っていれば、自分の体全体は癒しモード。
局地的な大雨なら、部分的な傷の治癒モード。
全国的に晴れなら、全快、活動モード。
そして、世の中が感染症や犯罪が多いのであれば、それは自身が恐怖に支配されているのかもしれない。
「自分の状態がすべて」なのである。自分自身が神なのである。
恐怖からの支配から逃れる為には、愛の選択をする事。
愛とは、子どもや動物に接するような、無償の愛。Iでもある。
つまり自分(I・アイ)と向き合い、その内面を全面に表していくこと。
そして神なりとは、言葉の事。言葉を世界に向かって投げかけて、主体も含めた全体、世界を変革していくモードであるといえるのかもしれない。
言葉は世界を創り、変革していく。
体と言葉と意識が世界を創る。これを身口意(しん、く、い)と言うのだろう。
第5話 心の宇宙
目を閉じてみましょう。
目を閉じれば、しばらくは目の前の残像が残ります。
目の前のイスや机、テレビなど、うっすらと残像がみえます。
少しすると、そんな物質世界、現実世界から離れて、今度は、感情的な気持ち、不安な気持ちなどが浮かんでは消え、そんな不安な気持ちも、次第には晴れてきます。
嵐の雲がまるで晴れてきたようです。
そうすると、自分の中にある光が見えて来ます。
そう、まさに宇宙の中にある太陽のように。または宇宙の中にあるただ一点のように見えるかもしれません。これが言霊ウになるのでしょう。
いかに今まで目に見える外の世界だけを見てきたのか。
自分自身が今ここに居る事がすべてなのだと感じる事ができますでしょうか。
自分の内面の世界では、もちろんコロナウイルスもなければ、お金の心配、将来の心配もありません。
反面、現実のように見える、目の前の世界では、コロナの恐怖を煽る報道、将来の不安を煽る金融商品、健康の不安を煽り、食や薬などの商品の宣伝が溢れています。
もともと何も無い、心の宇宙に、不安をベースに創りあげてきた物語が、今見えている現実社会なのではないか。と思うのです。
1分ほどでも、とても心地良く感じると思いますし、眠っているのに意識ははっきりしている。そんな感覚になります。
目を開けると人間のエネルギーの多くを視覚についやしていた事がわかります。目の前の仮装現実、物語に振り回されていたのだな、と。
目を閉じて自分の内面と向き合う事がとても大切だと思いますし、何よりもリラックス、ストレス解消にいいと思います。
目を閉じれば、目の前にある不安も払拭できるのです。
1分だけでも、すべての人がリラックスして目を閉じれば、目の前の現実も様変わりするのだと思います。
これが良い!と強制するつもりも全くありません。
ただ、ただ、不安や恐怖をベースにした、目の前の現実に振り回されるより、自分の心の宇宙に向き合ったほうが、ごく、ごく自然に振る舞えると思うのです。
人に優しくする、楽しむ、触れあう。
そんな当たり前の事が、目の前の世界に捉われすぎると、簡単にできなくなってしまうように思います。
少しだけ、1分でも30秒でもいいんです。
目を閉じて本当の自分、自分の内面と向き合う。
是非やってみてくだい。そして、すべての人が一体感を感じますように。
そして、もともとは一体の宇宙であった事を思い出しますように。
言葉を心の宇宙に響かせる。
その言葉のヒビキが、波動が、世界をつくっているのだ、と強く感じます。
今まで専門家や権威に依存してきたのは、仮定の条件と検証が必要であったからで、これからは仮定の条件を外し、無限に答えを求めて行っても良いのではないでしょうか。
風の時代とも言われます。
自由ない発想で大きな可能性を追求していきたいと思います。