氷河の寒村
「付いて来い」
老人は、さっさと移動をし始めていた。
「爺さん、あんたはだれなんだ?」
「彼らの追跡を巻きたいのだろう? いいところを知っているぜ」
シオン城を出ると、老人はヤザンとともにそのままレマン湖を離れて北へ向かった。ときおり吹雪となる山の中をヌーシャテル、ビエンヌに至り、タヴァンヌへ。だが、老人は歩き始めてから事務的なこと以外は名前も出身も語ろうとしない。
ルベヴリエ(Rebevelier)にてその近辺の最も高い山へ上り切ると、老人は周りを見渡した。
「あの山には結界が及んでいない。人が行かないからな」
「どういうことだよ?」
「なんだ、あんた、そんなこともわからないのか? 結界を張って寂静の中へ抑えるべき対象の人間たちがいなけりゃ、神邇はいない。だから、人の行かないところまできたのさ」
冬山を行くことを考えると、この老人は体力が心配なのだが、この地に至ってひときわ高い山を目指すという。
「やれやれ、思った以上にラッセルがきついな」
「それならやめればいいじゃないか」
ヤザンのその返事に、老人はいたく怒り始めた。
「ほお、そうやって諦めるのか? とことんまでやる気にならないのか? 自分勝手な気分屋め。そんなことでは、また直ぐに捕まるぞ」
ここまでは、ヤザンは素直に聞き入れることが出来た。しかし、その後の老人の言葉は………
「なんだ? 大したことはないのう。やる気も根性もないろくでなしだな。だから、あんたはすぐ捕まったんだろうよ。ろくな仕事もしてないうちに捕まりやがって」
ヤザンはこの言いように思わず大声をあげた。
「何だと、この老ぼれ。私があそこに行かなければ、あんたは解放されなかっただろうが。今までつかまっていてろくな仕事をしていないんだろうが!」
「ほほう、そうかね。あんたが助けに来てくれたのかね? ほほう、あんたは随分計画的に動いているんだなあ。それなら、なぜ私が連邦の人間であることを知らなかったのかね」
その指摘にヤザンは黙ってしまった。それを見つめつつ、老人はさらに言葉を続けた。
「あんたが今まで無事で動いてこられたのは、啓典の主の導きがあってこその偶然なのだろうさ。さてさて、ここまでくれば、もう神域つまり渦動結界は存在しない。彼等に我々の位置はわからなくなっているはずだ……。これでも、私がなにも仕事をしていないと言えるかね。なあ、仕事のできるという若者よ」
老人の皮肉はヤザンにとって痛かった。
…………………………………………
山伝い、氷河に沿っての道筋を経て、結局はローヌ川沿いに戻り、老人はヤザンを氷河末端の寒村に案内した。ヤザンはここがどこなのか、見当もつかなかった。
「ここは、私のお世話になった寒村ジャクランじゃよ」
“ジャクラン”。それはヤザンの苗字でもあった。老人は周りを見渡しながら氷河の末端近くを歩き始めた。
「この奥に、小さい城がある。城というより、館といった方がいいかも知れんが」
氷河の間に立つ目立たない高台の上。その岩の上に、氷河に隠されるように石造りの古い城壁と館がみえる。見掛けは廃墟なのだが、その廃屋に出入りする人間が見える。この人々ははるか下の寒村の住人らしい。確かにはるか下には緩やかな丘や谷川が見える。
「あの高台の上に見える館はフランク王国時代の古城だ。今まで氷河の間に隠れていたのじゃよ。温暖化な時に姿を現すように仕組まれていたようだが、今では帝国はおろか、欧州人のほとんど誰も知らないよ」
あまり目立たない岩山のような城壁が雪にうずもれている。崩れた外側の城壁の隙間からは、あまり大きくない廃屋のような館が見える。
「やっと着いた。ここは、私の祖父が教えてくれていた場所なんだ。私は欧州に派遣されてからここを拠点にして、反帝国活動をしていたんだから」
そう老人が言うと、老人を見つけた村人が館へ走りこんでいく。老人に目であいさつをすると、彼は館の鐘を谷に響かせた。まるでクリスマスの知らせのように・・・・。
高台の上の廃屋と見えた館。その館まで登り切ると、その館の入り口から地下へと続く階段が見えた。老人は躊躇することなくそこへ入り込んでいく。
そこには古い礼拝堂が設けられていた。いや、地下と言うよりもともとの館の下部分を城壁のような石と岩戸で隠すようにして丘を作り上げた構造だった。礼拝堂に降りていくと、アーチ状の天井の下におそらく村人全員を収容できるほどのホール。半円状に設けられた座席群に囲まれた中央には台があり、白いせんべいとぶどう酒を入れた木製の器とがおかれている。また、その台の奥にはケルビムが二体向かい合う像を彫り付けた箱が置かれていた。それらの風景は、ヤザンが幼いころに見たものとよく似ていた。
その礼拝堂に、老人の帰還を聞きつけたのか、多くの村人たちが集まってきた。ヤザンはその光景に驚いた。
「この人たちは…」
「この村の皆は、姓をジャクランという。皆ジャクラン一族と言っていいだろうね・・・・・彼らは、ここで聖櫃を守り、また聖杯を守り続けてきたのだよ」
老人はそう言った。ヤザンは少し考えて老人を見つめた。
「ここは、聖杯城・・・・・」
「そう、聖杯城」
「あんたはいったい誰なんだ? コロンビアから来たといっていたよな。なぜここで反帝国活動を・・・・・」
「私は、もう二十年も前にコロンビア連邦からここへ派遣されたんだよ」
「二十年も前の派遣…まさか・・・・」
「まさか・・なんじゃよ?」
老人はいぶかしげにヤザンを見つめた。
「あんたの名前はミスタージャクランだろう?」
「ほお、その通りだ。ふむ、私は派遣元でまだ覚えられていたのか? それとも教科書に載るようになっていたのか・・・?」
「いや、私がよく覚えているんでね」
「あんたが? つまりあんたが個人的に覚えているとでもいうのかね?」
「そうだよ、ジェロニモ爺さん」
「そ、そうだ。私の名はジェロニモだ。それを知っているとすると、あんたは…・年齢からみると孫の・・・・ヤザンか?」
老人は驚き、少し経ってから何かを思い出したように口を鳴らした。
「出来の悪い孫をよこすとは、連邦も人材不足なんだな」
「どういう意味だよ」
「お前は…・簡単につかまる・・・・帝国軍兵士一人を相手に負ける・・・・突撃猪を知らない…・いや、帝国の最低限の知識もない…・・最低限の下調べもしないでいきなり潜入? お前は工作員としては落第だ。いや、連邦情報局職員としても落第だね。ヤザン、お前はいったい何を学んできたのだね。これでわが孫なのか…・はあ・・・・」
「なんだよ。再会したとたん、嫌みを言うのが立派な祖父のやることかよ」
ヤザンとジェロニモが言い合っている間に、礼拝堂は村人たちでいっぱいになった。その集団からおもむろに一人の老人がヤザンたちへ歩んできた。
「ジェロニモさん、そしてお若いの・・・・、メリークリスマス」
ジェロニモはヤザンの頭を小突き、ヤザンを紹介した。
「これは、私の孫、ヤザンだ」
「そうですか。それでは彼は我々一族の一人・・・・・。我々はこの聖杯城とその秘密を守り、聖櫃と聖杯とを守り続けてきた一族です。・・・・・村の皆さん、我々はこのクリスマスの夜に再び一族を迎えることができた。啓典の主に感謝を捧げましょう」
こうして、ヤザンら二人、そして村人たちは祈りのひと時を持った。
さて、村人たちに迎えられたヤザンだったが、彼には違和感があった。ヤザンもジェロニモも東瀛人系のコロンビア連邦人であるはずだが…。ジェロニモはなぜジャクラン一族がこの村にいることを知っていたのか・・・。なぜ、よそ者のジェロニモが、1500年以上も前から欧州の一部となっている彼らに受け入れてもらえたのか・・・・。
ジェロニモはヤザンのその戸惑いを解くように説明を加えた。
「ヤザン、あんたはアラブ系の母親の血が濃いが…私はあんたの祖父だ。そして私の祖父はオーギュスタンジャクランと言う。祖父から聞いたのだが、私も祖父も東瀛人の血が流れているが、先祖にポルトガルの血が混じっているらしい。私の祖父のオーギュスタンの先祖はポルトガル人じゃ。つまりこの地のジャクラン一族から来たラテン系の欧州人が私の先祖なんじゃよ。そして、この地にジャクラン一族がいることも教えられた。それゆえ、欧州が帝国に蹂躙され征服されたときに、私は志願して二十年前に連邦政府状況局から工作員として派遣され潜入した。そして、この地に来た時に祖父オーギュスタンから教えられた言葉をもって、彼らに受け入れてもらえたのだ」
ジェロニモは話を続けた。
「ただし、私も祖父オーギュスタンも彼らが先祖だということをなぜ知っていたか・・・・それは、祖父オーギュスタンも私も帝国人だったからだ。つまり死んでは子孫として再び生まれる。それも記憶を持ったままの輪廻転生。それを繰り返してきたから、先祖のことを祖父も私も記憶しているのだ。特に、オーギュスタンは戦いに負けて処刑された記憶を持ち、私も島原で殺された記憶がある。意味のない死と苦しみを繰り返す輪廻の中に何度も絶望したまま無気力のまま虚しく生き続けてきたのじゃ」
ジェロニモは一息入れると、話し方を、ヤザンに言い含めるようにゆっくりとした調子に変えた。
「ヤザン、お前は我々カトリックの民が帝国の長崎からコロンビア連邦に脱出した後に、啓典の主の導きの下に生まれた人間じゃ。だから、輪廻転生を知らぬ。それは幸せなことじゃ。それゆえ、私は輪廻転生を維持する帝国を憎み、ここから出かけて反帝国活動をしていたのじゃよ。まあ、シオン城の地下牢にぶち込まれたのは失敗じゃったがな。まあ、よいじゃろう。それがあったから、お前と会えたんだから。そう、啓典の主の導きじゃよ」
ヤザンは、その説明を聞いて頭が痛くなった。