ローヌをたどって
「お前はだれだ」
ヤザンを呼び止める女の声。それと同時に、群衆の雑踏の中にまぎれているはずのヤザンの前に、ぼんやりとした陽炎が揺らめき、彼をいきなり建物の陰に引き入れた。ヤザンは思わず身構えた。陽炎はヤザンだけを睨んでいる。ヤザンだけを狙っているはずなのに、彼の名前を聞くなどと言うことがあろうか。彼が怪しいと感じたからなのだろうか。
揺らめく姿はそのままに、得体のしれない影はなおもヤザンを問いただしはじめた。
「欧州の地に住む民たちは全て我ら神邇によって寂静になっているはず」
確かにマルセイユの通行人たちは、一言も発していない。母国のニューヨークなどでは雑踏の感性や騒音が通常の姿なのに、ここでは、企業の広告も意見主張の看板もないし、誰一人声を発していない。欧州人は確かに昔から紳士淑女の国なのだろうが、この静けさは異常だ。
「お前は周りと異なっている。何か良からぬことを考え、寂静を乱す者。この寂静たる私、倶利伽羅の神域を乱す者よ」
ヤザンは背中のバックらに手をやりつつ、懐に忍ばせた颪鎌をゆっくり手にした。
……………………………
コロンビア南北大陸連邦は、前身の合衆国が太平洋へ進出した頃から東瀛とその本国である煬帝国の歴史を注意深く観察してきた。煬帝国海軍は非常に強力であり、その力は松花江河海戦や朝鮮海峡海戦にて、ロシア艦隊を圧倒的火力で壊滅させている。それゆえに、煬帝国がシベリアやビアクトラを越え、アラブや欧州へ拡大する姿に、連邦政府は旧大陸との交流を全て遮断しつつも、ただただ恐怖するだけだった。
60年ほど前に東瀛の長崎から脱出したカトリックの民たちがコロンビア大陸の北端に流れ着いた時、連邦は初めて帝国への対抗手段を目にした。オーギュスタンジャクランの孫、ジェロニモジャクランのもたらした吹颪の大剣である。
その後、連邦はその武器からヒントを得て長い間の開発を経て、颪鎌と呼ばれる暗器を開発し、その使い手を工作員として養成した。その一人がジェロニモの孫、ヤザンだった。
その後、ヤザンは欧州に派遣された。といっても、海中の潜水艦のみが帝国の領土に接近可能な手段だった。
潜水艦からゆっくりと陸に近づくと、12月ゆえにまだ暗い曇り空の下にマルセイユの街の明かりが見える。海岸に近づくと、真っ暗なはずの空が不気味に赤みが勝っている。濃い結界が存在しているのだろう。人影が無い地点に用心深く上陸すると同時に潜水服を脱ぎ捨てると、その下は作業着の掃除夫姿。ヤザンはそのまま街の中へと消えて行った。
街の中は、想定した通り、早朝のゴミ収集や施設やビルの掃除人などが働き始めていた。そのような人間は下層階級を形成するアラブ人や多種多様の人種達だった。それゆえにアラブ系の混血の顔つきから彼が選抜されたのだが、ジェロニモの孫であることも、派遣要員とされた理由である。彼の任務は、欧州の様子を探ること、そして以前に派遣されたジェロニモの消息をたどることだった。
「私はやり合うつもりはないよ」
倶利伽羅姫から接触を受けた時、ヤザンはそう答えた。連邦から派遣されたのは、彼が望んだからではない。彼はこの任務を何度も断った。だが、連邦の潜水艦は半場強制的に彼を上陸させて、さっさと消えてしまった。一人捨てられたような感情を覚え、自棄になっていたところだった。
もちろん、ヤザンは神邇の存在をあらかじめ学んでいた。神域すなわち渦動結界と、その発動者である神邇を、大剣と同様に没滅出来る暗器、颪鎌の使い方にも熟練していた。
「やり合うつもりがない? では、なぜ寂静を乱すのか」
「寂静ね。私は嫌なものや嫌なんだ。その思いがいけないのか?」
「どうやら、敵ではなさそうだ。ただし、その自暴自棄な態度は帝国内ではあるはずもないし、帝国以外でも見たことが無い」
「偉そうに! 私に何を教えようとするのかね。私は自由に行かせてもらうよ」
まっぴらごめんだ、とヤザンは独り言をぶつぶつ言いながら立ち去ろうとしたが、その前に俱利伽羅姫は立ちはだかった。
「寂静を乱すからには、勝手に歩き回らせるわけにはいかない」
「うるさいなあ。私は自由にさせてもらう」
ヤザンはそう言いつつ、頭の片隅に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「そうか、お前は倶利伽羅姫! 聞いたことがある。商伽羅の眷属、その正体は商伽羅の眷属龍だろう」
たしかにその名は、高祖父オーギュスタン・ジャクランに仲間の宇喜田秀明が知らせた名前だった。
「ほお、私の正体までも知っているのね。ただ者ではないわね。ここで死んでもらおうかしら」
「へえ、簡単に私を撃つというのかね」
「小さな剣さえ持たぬお前が、自由に行くだと? 私から逃げられると思うのかしらね」
そう言ったとたん、周囲にあったはずの街の風景は、急に多重化された渦動結界によって暗闇となった。しかし、ヤザンは動じずに目の前の陽炎のような女の顔の前に、自分の顔を近づけた。
「逃げる? とんでもない。それどころか、少々痛い目に遭ってもらい、私のストレス解消のサンドバックになってもらおうか」
女は面白がって目を光らせた。
「へえ、あんた、この私と渡り合おうというのかしら?」
「いや、あんたをここから自由にさせないつもりさ」
「へえ、どんな風に?」
ヤザンは颪鎌を起動させようとすると、それに気づいた倶利伽羅姫は初めて狼狽を見せた。
「あ、あんた、『渦動没滅師』・・・・。滅びたはずの『旅団』が・・・」
「へえ、なんだ、その呼び名は?」
ヤザンがそう言いかけると、倶利伽羅姫は渦動を激しくさせながら逃亡を図った。だが遅かった。
「私がここにいることを知ったからには、没滅させてもらう」
そう言ったとたんにヤザンは颪鎌を小さくうならせた。それと同時に倶利伽羅姫の周りに広がっていた渦動結界は吹きとばされ、倶利伽羅姫の全身は二次元空間に押しつぶされたように封じ込められていた。
「私は、『渦動没滅師』などという呼ばれ方をしていない。さて、『旅団』と言ったねえ。どんな組織なのかねえ、その『旅団』と言うのは?」
「お、お前は誰だ?」
二次元のシートを震わすようにして、倶利伽羅姫は声を出した。それに口を近づけてヤザンはささやいた。
「そう、私はコロンビアから来た工作員ヤザン・ジャクランだ」
「こ、工作員達の一人だというのか? 旅団が再び帝国に対抗するというのか?」
「工作員たち? 私は一人だけだと思うが…。工作員が複数いるというのか?」
ヤザンは工作員が複数いるということに気を取られた。
「ヤザンとやら。お前は旅団の工作員なのだろ?」
「『旅団』ねえ・・・・」
『旅団の工作員ではないのか…・。ほお、それでは旅団が復活したわけではないのか。それなら、いま監視対象のローヌ谷の一派だな。お前らごときを恐れる必要もないな。たとえ、私がこのようにされたとしても、帝国はゆるぎない。そうだ、旅団は確かに滅び去ったのだ。お前は単なる不穏分子にすぎない。それなら、帝国はゆるぎない。ハハハ。お前はそのうち我らの仲間、帝国のアサシンによって簡単に殺されるだろうよ」
「ほお、アサシンね。いろいろ教えてくれてありがとうな。もうこれ以上話すことはない」
ヤザンはそういうと、颪鎌の二振りで二次元のシートを粉々に砕いた。断末魔のような声が聞こえたが、それも一瞬だった。ヤザンはそれで十分だと思った。
「クリスマスのお祝いの紙吹雪だよ」
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倶利伽羅姫のつぶやいていたローヌ谷は、マルセイユの西、マルティーグ近くのデルタからローヌ川を遡ったはるか上流の山間にある。ヤザンは人々の密集するゆえに神邇のいるであろう平野部をたどっていくことを憚った。ローヌ川からバントリ川沿いにドーフィネアルプスに向かった。
だが、山に、そして川に、またある種の建物に、岩に、全て目ざといところに神邇がいた。ヤザンの持つ颪鎌の微かな振動が、彼らの渦動結界をヤザンに教える。帝国は彼らをそのように配し、彼らの渦動結界が隣同士が重なるほど濃密に展開されていた。ただ、大河であれば大河の主として配された神爾は一人であろうと想定できた。また、大河であればところどころに結界の掛けているところがあり、結界がなければ神邇に遭遇することもなさそうだった。
ヤザンはローヌ川の中を遡ることにした。
ローヌ川には堰やダムが多数ある。ヤザンはそれをどうするか、まだ考えつかなかった。だが、ヴァラブレーグ堰についてみると、その重力ダムは破壊されていた。それも爆破などではなく、明らかに水の力による崩壊だった。さらに上流へ遡っていくと、すぐ上流の席も崩壊している。いや、上流のすべての人工的な堰が破壊され尽くし、流れは人の手の入らない昔の姿に戻っていた。ただ、そのことによって、ヤザンは川の水の中を難なく上流へ遡上していくことができた。
堰やダムはなかったが、レマン湖はそのままだった。ここに至ってヤザンの颪鎌が震えた。どうやらここジュネーヴには、ローヌ川に配された神邇の気配がある・・・・・。しかも、そいつはヤザンの気配を感じ取っていた。同時に復讐心も燃え滾らせていた。