アイノンの地 2 悔い改めざる者
クァレーンは殿を務めていた。旅団の追撃を警戒を恐れてのことだった。だが、旅団は帝国を追うことをすでにやめていた。旅団は、帝国がトランシルバニアから撤退した時に追跡隊によって調査を行っており、アイノンを越えれば帝国軍や総督たちにとってそれ以上逃げる場所のないことを、すでに知っていたからだった。
だからこそ、帝国軍とその指導者たちに悔い改めの機会をアイノンの地で与えようとしたのだった。だが、鳴沢はこれ以上の邪魔を嫌い、クァレーンをアイノンの谷に呼び出した。
「クァレーンよ」
「はい、ここにおります」
「アイノンの地でしきりに我らを誑かす者がおる。それを阻止し、消してしまえ」
「はい、鳴沢様を、そして帝国の邪魔をする者を、私は許しません」
アイノンの谷を通過していく帝国軍。もうすぐその列は終わろうとしていた。そこに再びアキーが下りてきた。もう、邪魔をする近衛兵たちはいないだろう。そう思い、最後の最後まで帝国軍に悔い改めの機会を与えようと考えていた。
「この地は、アイノンの水のほとり。ヨハネによる悔い改めの地。アザゼルの眷属たち、アザゼルに騙されいてる民たちよ。今からでも遅くない。啓典の主に立ち返り、怒りをまぬかれるために、この地にふさわしく悔い改めよ」
アキーの呼びかけは続いていた。その目の前に降り立ったのは、アキーが忌み嫌う魔女、魔力のために石化された民たちの復讐を誓った相手が降り立った。
最初、すぐ目の前に現れつつあった影が放つ香りに、アキーは敵意を感じなかった。むしろ目の前の影が放つ香りに懐かしささえ感じていた。だが、その影とそのオーラがはっきり現れるにつれ、アキーはその影が彼にとって復讐をせねばならない敵であることに気づいた。
「お前は僕の憎むべき敵。なぜここに現れた?」
「あんたがこれ以上帝国軍を愚弄するのを止めるためよ」
この時、クァレーンはその姿をはっきり現した。
「お前は、鳴沢総督の配下、いや眷属か?」
「へえ、私が鳴沢師匠の眷属であることを知っているのかしら?」
「鳴沢を『師匠』と呼ぶのか」
「そうよ」
「お前の姿を見たことがあるのでね。そう、あれはトランシルバニアのフネドアラ要塞だったか。帝国の断末魔の状況を二人で話していたのを、見たのでね。そうあんたの名はクァレーンだな」
「へえ、あんた、そんなときから帝国を悩ましていたのか」
「いや、僕はもともと帝国のアサシンだ」
「ほお、アサシン、つまり裏切り者だな。もっとも忌むべき者、裏切り者。そして、帝国に仇成す者。そうか、ここでもそうやって帝国軍を愚弄し続けているのか。だが無駄だ。彼らはもう聞く耳を持たん。そして、いま私があんたを排除する」
「僕を排除するというのかね、魔女クァレーン」
「そうさ。では・・・」
クァレーンは魔力を投射しようとした。周囲には帝国軍の兵士たちの持つ盾に組み込んだガーネットがあるはずであり、魔力増幅ができると思われたからだ。だが、相手が細身の刀身を一振りすると、全てが吹き消された。
「無駄だ。僕にその魔力は通じない」
「その力は・・・・」
「おそらくお前が知っているものだろう。僕はガーネットの力も知っている。ガーネットが結界ばかりでなく、お前の魔力を増幅することもな。だがな、この細身の刀であれば、その魔力を吹き払うことは造作もない」
クァレーンは、目の前の若者がただ者でないことを悟り始めた。
「帝国のアサシンだったといったな…・お前は誰だ…・」
「これから没滅される者に名乗る必要があろうか」
「私を没滅するというのか。私は神邇ではないぞ。没滅することはできないだろう。そして、簡単にはやられないよ」
クァレーンはそういうと、大剣を抜いてアキーに襲い掛かった。その打撃はアキーにとって経験のある太刀筋だった。
「こ、この剣技は・・・・クァレーン、お前は・・・・・」
クァレーンも、相手の剣技になじみがあった。いや、古い、とても古い記憶だった。だが、それでもクァレーンはその古い記憶が途中から遮蔽されており、その代わりにケデロンの谷での戦いを思い出していた。
「男、お前は、私の前世の夫、正煕の仇、宇喜多秀明! おのれ・・・・」
クァレーンはその表情を憎しみに満たし、般若のような顔に転じた。
「ゆ、許さん」
「クァレーンよ。お前の前世の夫が正煕だというのか、僕がその仇だと・・・・お前は誰だ」
今度は、アキーが戸惑う番だった。
「私はクァレーンだ」
クァレーンはそういうと続けざまに剣を繰り出した。アキーは戸惑いつつその剣を受け止めるのが精いっぱいだった。
「お前は、前世で西姫だったというのか」
「だからどうしたというのか? その名前は私にとって意味のない名前。お前が秀明と知った今、お前を殺す。怒りを込めて、全ての怒りを込めてこの剣を打ち下ろす。この剣をうけてみよ」
クァレーンの今までにない剣圧にアキーはひるんだ。彼は目の前のクァレーンを撃つことが出来なくなった。
「どうした? 秀明。観念したか。そうだろうな、お前の帝国に成した罪、そして正煕を殺した罪。万死に値する。死ね」
「クァレーン。僕がこの地で懺悔するとでもいうのか。お前こそ、この機会を生かすべきだ。お前はまだわからないのか。まだ悟らないのか。まだ気が付かないのか。思い出さないのか・・・・・。お前の魔術の犠牲者たちを。お前は魔術によって啓典の民たちの生力を吸い尽くしたのだぞ。その力によって啓典の民たちを魔術に掛けたのだぞ」
その時、クァレーンの後ろに鳴沢が姿を現し、クァレーンの代わりに口を開いた。
「力を絞り取られた男たちは、啓典の民ども。多くの神邇たちに反対し、愚弄し、寂静に至る輪廻転生に反対し、帝国の経綸を暗くする者どもだ。万に一つ帝国の民であれば、輪廻転生により、再び生き寂静に至ることができる。これは、当初お前も尊んだ教えのはず。」
「クァレーンよ。あんたが答えろ。あの民達を、そしてあんたによって屠られた事を天は忘れない。啓典の民達をお前達が自由にして良いと思っているのか。啓典の民達は、愛されているがゆえに自由を与えられているのだ。それゆえ自由闊達に、他のために生き生きとして生きている。帝国の民さえも愛されているのに。それなのに、あんた達によってあきらめさせられて寂静などという不幸にされてはならないのだ」
アキーは悲鳴に似た高い声を上げた。しかし、クァレーンの般若のような顔は変わらなかった。その状況を見た鳴沢は嘲笑した。
「クァレーンは答えんよ。彼女は、前世の西姫となっていた時も含めて私の眷属クビル。私の思いが彼女の思いだ」
「な、なんだと。西姫がお前の眷属、クビルだった、だと?」
「ほう、今頃そんなことを言っているのか。忘れたのか。愚か者め。帝国に育てられたお前が、西姫と一緒に育てられたのは、このようなことがあると想定していたからだ」
「鳴沢、お前は許さん」
しかし、アキーはクァレーンを撃つわけにはいかなかった。たとえ、彼女を撃つとしても、彼女に真に今までの行いを振り返えさせる必要があった。そうでなければ、真に悔い改めによる救いに至らしめることにはならなかった。クァレーンの正体が、アキーが今も愛する妻である西姫のなれの果てであることを知った今、また啓典の主が彼女を選んだという確信がある今、彼の愛ゆえに、啓典の主の愛ゆえに、彼女を撃つことはできなかった。それゆえに、彼は霊刀操によって鳴沢とクァレーンを吹き飛ばした。
「おのれ、秀明ー」
そう叫びながら、クァレーンは飛び去って行った。
「ほお、その技は何だね。新しい業か、だが、もう新しくはないわい。お前の必殺技を見たぞ。愚か者め。お前にはもう勝ち目はないと知れ」
吹きとばされながらも鳴沢は勝ち誇っていた。鳴沢が嘲笑しながらクァレーンを促すと、二人はアキーの前から消え去っていった。そして、アキーの目の前にはもう誰もいなかった。
アキーが用意した泉も川も、全てが干上がりつつあった。アイノンの地は、すでに悔い改めの水を失い、悔い改めの機会は永遠に失われた。




