アイノンの地 1 懺悔と傲慢
アイノンの谷。帝国軍は不意の崖崩れとガリラヤ湖からの洪水との前に、一時的に進軍を止めていた。その洪水の向こうから声が聞こえてきた。鳴沢は聞き覚えのある声に、思わず洪水の向こうを睨みつけた。
「ほほう、ここで待ち伏せていたつもりか」
それにこたえるように、アキーは声を張り上げた。
「この地は、アイノンの水のほとり。ヨハネによる悔い改めの地。マムシの主たるアザゼルとその眷属たちよ。啓典の主の怒りをまぬかれると思うのか。この地にふさわしく悔い改めよ」
「悔い改める? 何をだ?」
「あんたたちは地上の民たちをもてあそび、食い物にし、その犠牲者たちの上にふんぞり返って支配していたではないか」
「宇喜田秀明、今はアキーと名乗っているのか? お前は帝国で育ったはずだ。帝国の存在意義、帝国の目的、民たちがいかに幸せだったかを目にしていたはずだ。それのどこが食い物にされ、犠牲者となった姿だったのか。さあ、言ってみよ」
「魔醯首羅、もと大天使の大魔アザゼル、いやお前の最も好む名前で呼んでやろう。明鬼神、陰陽道の太一、商伽羅よ。自らの悪行を正しいと言って誇るのか。それなら言ってやる。お前たちは、いや、お前が帝国で何をしてきたか。苦しみの中にある民たちに輪廻転生の呪いをかけ、渦動結界Tablacusの中に閉じ込め、繰り返し生きることで苦しみに対するあきらむることを強制し、寂静へと入らしめる。それが悪行でなくて何だというのか」
「輪廻転生とは、この大地、この地球のエネルギーのもとで繰り返し生きる美しい姿だぞ。それを悪戯業と言うのか。いや、寂静に至ることこそ民たちの幸せだ」
「いいや、違う。幸せとは、啓典の主とともにあることだ。そもそも人間は愛されるために存在する。愛されるゆえに自由を与えられた姿こそ幸せな姿だ。創造主たる啓典の主の愛を浴び、大地、地球に縛られず、自由の中で考え、闊達に行きかう姿こそ彼らの幸せだ。それを、大地の下で生きるだと。それは、創造主たる啓典の主の下で、お前によって罪を犯した人間たちにもたらした大地の呪いではないか。」
「大地の呪いだと? 大地の下にあるあきらめ、寂静という素晴らしいものではないか。お前は創造主と言ったな。確かにすべての時空を想像したのは啓典の主だろう。しかし、彼等こそすべての時空の上にふんぞり返っている存在ではないか。虫けらのような人間に愛を、自由を、闊達に生かす、だと? 笑わせるな。そのような勝手なことを」
「勝手なことだと? すべての時空、そしてあんた達をさえ創造された啓典の主を、傲慢にもそのように呼ばわるのか?」
「私を傲慢と言うのか。私ほど民たちを大切にしている者はないぞ。お前こそ、身の程を知れ。真実を知りながら帝国の経綸を暗くする者よ」
「帝国の経綸?。笑わせるな。あんた達こそ、いやあんたこそ代々の経綸を暗くする者。・・・・そうか、もう説得の余地、議論の余地はないようだ。ここを通り過ぎるがいい。しかし、ここから先、お前とお前に従うものには滅びしかない、ゲヘナへと投げ込まれる道しかないぞ」
「ゲヘナと言ったな。そう簡単ではないぞ。私は陰陽道の太一である故、結界断層の能があることを忘れているな。あとは、お前と戦いの場で再び会うことになろうな」
アキーはもう鳴沢に語ろうとはしなかった。アキーは今まで留め置いた洪水を解放し、アイノンの地から水が徐々になくなっていく。それを見つめながら、アキーは心を決めた。減っていく水、確かにその水はアキーが設けた、悔い改めの最後の機会だった。そして、悔い改めの機会はもう失われつつあった。
鳴沢は帝国軍の先頭を行き、アキーの目の前から去っていった。いつまでも続くかに見える帝国軍の列。それを見つめるアキーの目の前を、皇帝たちが通り過ぎようとしていた。
「皇帝陛下、皇后陛下」
アキーが呼び止めたのは、輿とそれを幾重にも守る近衛兵の一団だった。彼らは輿の中の掛け声で進むのを停止した。一時的な停止だと思われたのか、後続の帝国軍は、その横をそのまま過ぎていく。
「煬帝国第21代皇帝陛下に於かれましてはご尊顔を拝し、ご健勝のことと恐悦至極に存じ上げ奉ります」
「その方、先ほどトランシルバニア総督の鳴沢を呼び止め、議論していた輩であったな。許す、名は何というのか?」
「陛下、アキーと申す小さきつまらない者です。一度お目にかかっております」
「そうか。それは久しいことではあるな。祝着じゃのう」
「陛下・・・・・」
アキーは顔を上げた。
「な、なんと!」
皇帝たちは、思わず声を上げ、これを聞いた近衛兵が大声を上げた。
「顔を上げるとは無礼な!」
「とらえろ」
それを見つめつつ、アキーは言葉をつづけた。
「私を無礼者と言うのですか。おかしな話です。私は一度は帝国に属したが、帝国が卑しきもの、忌むべきものであることを知っている者です。今や帝国に反対する立場の者、その者に対して『敬意を払え』とでもいうのですか」
「御前で、よくも・・・・」
「両陛下、私をお忘れですか」
「おもいだしたぞ! お前は秀明!」
「あ、昼行燈なの?」
宣明と思来は驚きのあまり、輿から身を乗り出していた。アキーはそれにこたえるように言葉をつづけた。
「そうです。そして、帝国崩壊の時にあなた方を追い詰めた時は、敵であるという思いと、同級生であることに気を取られて、大変無礼な言葉遣いをいたしました。ここでは、あなた方は帝国皇帝ご夫妻。それを僕はよく認識して言葉遣いに気を付けて申し上げているのです。それは、あなた方に素直な態度と言うものを示したいがためです。」
「『素直な態度』と? なぜそんなことを?」
「ここは、悔い改めの地。皇帝ご夫妻、此処アイノンは悔い改めの最後の地、最後の機会です。水があるうちに光があるうちに悔い改めの機会を生かすべきでしょう」
「な、何を言っているのだ? 秀明」
「そうよ、私たちは前世の記憶では同級生であったはず」
それを聞いたアキーはうなづいた。
「そう、その通りです。ただ一部が違う…僕の持つ記憶は前世のものではありません。今の人生の記憶、つい最近の記憶なのです。僕は輪廻転生をせず、結界断層のはざまに時を止められたまま閉じ込められていました。僕自身の時間ではあなたたちとの時間はつい最近のことであって、決して前世のことではないのです。他者の時間を、人生を好き勝手にするなど、決して許されないはずのことを、あの鳴沢総督は実施してきたのです」
「秀明、その言葉は・・・・帝国に対する冒とく、帝国の基となる守護者への冒涜だぞ」
「昼行燈、そんなことを言ってはダメ」
宣明と思来は驚きながらアキーを見つめた。その視線を受け止めながら、アキーは繰り返した。
「そう、先ほど鳴沢総督との間で繰り返していた議論をあなたたちの聞いていたのでしょうね。そして僕の語った言葉は、あなたたちによれば冒涜なのでしょうね」
「そうだよ、秀明、君の言うことは間違っている。傲慢な言い方だ」
「そんなことで、帝国に反発しているの?」
アキーはひるまずに続けた。
「反発? 傲慢? そんな言葉で僕のいうことを代表しないでほしいのです。素直に先ほどの僕のいうことを聞いてほしい」
「素直になれと、君が言うのか」
宣明はアキーの言葉に怒りを覚え始めた。思来もアキーを冷たく見つめている。それでもアキーはあきらめずに説得しようとした。
「どうか、心を素直にお開きください。鳴沢総督は、魔醯首羅、明鬼神、陰陽道の太一、商伽羅と様々な呼ばれ方をしています。彼は元は大天使のアザゼル、大魔アザゼルです。彼が『正しい』と主張していることは、苦しみの中にある民たちに輪廻転生の呪いをかけ、渦動結界Tablacusの中に閉じ込め、繰り返し生きることで苦しみに対するあきらむることを強制し、寂静へと入らしめることです。」
アキーがそう言うと、思来が冷たい声で答えて来た。
「輪廻転生がよくないと言っているけど、人間は、この大地、この地球のエネルギーのもとで繰り返し生きる者ですよ。その人間を永遠に生かすために寂静に至らしめることは、人間にとっての幸せのはずです」
思来の言葉にアキーはすぐに否定をした。
「いいや、違う。幸せとは、啓典の主とともにあることです。そもそも人間は愛されるために存在します。愛されるゆえに自由を与えられた姿こそ幸せな姿。創造主たる啓典の主の愛を浴び、大地、地球に縛られず、自由の中で考え、闊達に行きかう姿こそ彼らの幸せ。それを、大地の下で生きることで縛るのですか? それこそ、太古の昔の人間の罪による、大地の呪いそのものではないですか」
「もういい」
宣明は鋭く否定した。
「しかし、お聞きください。素直な心で、素直な態度で…・」
「くどい。私は皇帝だぞ。皇帝に対して並べ立てるこれらの言葉。愚か者の所業」
宣明はそういうと、近衛兵たちに合図を送った。
「近衛兵、あの無礼者をひっとらえよ。いや、二度とその口を利かぬようにしてやれ」
アキーは皇帝の言葉を聞きながら、ため息をつき、言葉を継いだ。
「両陛下。それなら諱を呼ばせてもらいましょう。宣明、そして思来。このように帝国の頂点の名を呼んだとて、何の問題がありましょうか。むしろ、あんたたち自身が忌むべき存在であろうことを知るべきです」
そう言い続けるアキーに対して、近衛兵たちが殺到した。しかし、アキーは踵を返し、谷をはるかに見下ろす峰へと昇りあがってしまった。
「追うな」
そう声をかけたのは、鳴沢トランシルバニア総督だった。その声に、帝国軍と輩たちは、登っていくアキーの姿を見送るのみだった。
「陛下、今はここを通過すべき時です。お急ぎください」
その言葉で、皇帝たちの進軍が再開された。これ以上留まることを好まなかった鳴沢は、クァレーンを呼び出し、帝国軍の進軍を見張らせることにした。




