8 『夕暮れリフレイン』
『私、もう辞める』
鼻をすする音がきれぎれに聴こえる。
しかしどれだけすすっても鼻水は止まらず、彼女の白いコートに染みを作り続けた。彼女は箸を握りしめたまま、そうして泣き続けた。
『無理だったんだよ、私には』
私たちには、と言われているような気がした。
いや言わないだけで、彼女はそう言っていた。
温かい店内にいると、外の景色が映画のワンシーンのようにしか思えない。だが吹き荒れる雪によって濡れた体は、それが単なる錯覚であることをちゃんと教えてくれる。体がまだ小刻みに震えていた。
紙ナプキンを何枚か取り、彼女に渡した。
彼女はそれを奪うように取ると、顔を拭き始めた。
だが嗚咽は止まらなかった。
僕の目の裏に、何万人もの大観衆を前に歌や踊りを披露した神様たちの輝きがまだ残っていた。
雪が激しくなっていく。これでは電車も止まっているだろう。店内には他にも、僕たちと同じように避難してきた客が何人もいた。
行くも地獄、帰るも地獄といった状況だった。だがここにいてもまた、地獄なのだ。
この道を選んだ時点で、天国などないのだ。
わかっていたはずなのに、僕は何もわかっていなかった。
だから彼女に対して何も言えなかった。
その代わりに僕も泣いた。彼女ほどではなかったが、静かに涙をこぼした。
二人して泣きながら食べた牛丼の味は、今でも思い出せる。
それは人生で食べたもののなかで、一番美味しかった。
●
鍵を開けて、シャッターも開けて、店の掃除をする。年末に大掃除はしたが、それでも埃やら何やらは溜まる。それを丁寧に取り除くとき、僕の悩みも取り除かれるように感じる。
掃除とはむしろ、自分の心を綺麗にするための行いなのかもしれない。
かなえさんが出社してきた。
「ナツくん、おはよう」
「おはようございます。かなえさん」
綺麗な目をした人だ、とあらためて思った。二人して小さく笑う。
何かとても温かいものが僕たちに降り注いでいるように感じた。
●
「鼻歌なんて珍しいな」と藤巻さんが言った。「そんなに残業が好きなのか? 九条は変態だなあ」
「変態じゃないですよ……」
僕はまとめた書類を封筒に入れた。何度も確認したので不備はないはずだ。
藤巻さんも明日の契約のために書類を準備しなければいけないのに、携帯をいじってばかりで全然手が進んでいなかった。年が明けても変わらないでいてくれて、逆に安心感を覚える。
シャッターを閉めていても車の通る音や、人のいくつもの足音が聞こえてくる。
今日もまた色々あったが、いつものように終わろうとしている。
「何かいいことあったん?」
僕は言葉を濁した。
家の都合で帰ったかなえさんに、心のなかで助けを求めた。毎週金曜日、かなえさんは必ず定時で帰る。
それは太陽が東から登って西へ沈むことと同じくらい決まったことだ。
「あ、わかった。結城と付き合い始めたんだろ」
言われ、目玉が飛び出そうになった。
「……え、マジなの?」
僕がまごついていると「おい、詳しく聞かせろよ」と椅子ごと藤巻さんが寄ってきた。そして僕の肩に手を回すと「いつからだ?」とささやいた。
「し、仕事はいいんですか?」
「あ? いいに決まってるだろ。仕事なんかしてる場合じゃねえだろ。仕事なんていつでも出来るんだよ」
仕事をサボるための口実にしているのではないかと思ったが、それだけではないと信じたい。
「……年明けから、です」
もしかすると一夜をともにしたあの夜からなのかもしれないが、互いの気持ちを確かめ合ったのは年明けだ。僕はセンシティブな部分は除いて、おおまかな馴れ初めを話した。
「よくやった九条! お前はやる男だと思ってたぜ!」
藤巻さんが親指を立てて満面の笑みを浮かべた。
「そうか、ついにか……」
天を仰ぐ藤巻さん。
「これで俺も、安心して死ねるな」
「え? 死ぬんですか? 今までお世話になりました」
「死なねえよ! てか悲しめよ!」
肩を殴られた。
「……あいつはな、本当にいい奴なんだ」
藤巻さんが呟くように言った。
「ああいう奴が一番に幸せになるべきなんだ。だから九条、あいつを不幸にしたら許さねえぞ」
「はい。幸せにします」
まるで結婚の挨拶でもするようだった。
しかし将来のことを考えると、ここで経験しておいてよかったのかもしれない。
──結婚。
そんな人並みの幸せなんて、自分には訪れないと思っていた。
贅沢だと、高望みだと、自分のような地を這いずり回る人間には、決して手が届かないものだと思っていた。
しかし必死に生きていれば、それをごく自然と身近に感じられるのだ。
気づいたら、それが目の前にあった。
僕はそれを、もう分不相応とは思わない。
僕はそれに、自然と手を伸ばせるだろう。
そしてそれをずっと大切に出来るだろう。
「どうしたんですか?」
「いや、そんな真っ直ぐに言われるとは思わなくて」
藤巻さんが顔を赤らめて、巨体をもじもじさせた。憧れの先輩に告白された女子中学生のような反応だった。
「ま、九条なら大丈夫だろ。それで、お前も幸せになれよな」
「僕もですか?」
「当たり前だろ。あいつだけ幸せにしてどうすんだ。片方だけ幸せじゃ意味ないだろ」
そうか、幸せは一緒になるものなのか。
「社長には言ったのか?」
「いえ、まだです」
「社長も嬉しがるだろうなあ」
藤巻さんは、社長とかなえさんと三人で店を切り盛りしていた頃の話をいくつかしてくれた。その話を聞いて、不思議と疎外感は覚えなかった。
「長話しちまったな。続きに戻ろうぜ」
僕のほうは後一件で終わりだった。手を動かしながら「藤巻さん、結婚っていいものですか?」と訊いてみた。それに藤巻さんが「最高だよ」と答えた。
「ついでに、九条が俺の分も手伝ってくれたら最高」
「ええ……」
●
もしも流されたくなければ、流されないほど大きな存在になるしかない。
そうする以外に流れから逃れる方法はない。
だがそれは修羅の道だ。
流れに乗って生きるより、何倍も、何十倍も大変だ。
僕はそうすることを選ばなかった。
いや、選べなかった。
小さきものとして生きることを、選ばざるをえなかった。
しかし往々にして言えることだが、普通の人間ほど幸せになれる。
普通というのは悪いことじゃない。
普通にすらなれないよりは、よほど幸せであるから。
『やっと終わりました』
扉の横にもたれ、メッセージを送る。誰も彼も僕と同じように俯いて、携帯の画面を見つめていた。
『お疲れ様。手伝えなくてごめんね』と返信があった。『藤巻さんのほうはどうだった?』
『結局、僕も手伝いました』
『本当にあの人は……』
画面越しなのにため息が伝わってくるようだった。明日、藤巻さんの命運はいかに。
『ねえ、今日も夜、電話していい?』
『もちろんいいですけど、用事はいいんですか?』
『うん。終わったから』
『じゃあ、また後で』
『また後でね』
手の甲を口に当てた。そうしていないと、口角が天井を突き抜けて夜空へ飛び出しそうだった。
帰宅し、あれやこれやを終わらせて通話ボタンを押すと、鈴のような声が耳もとに生まれた。このときのために今日も一日頑張ったと言っても過言ではない。
時計をちらと見る。
そろそろ配信が始まる時間だった。
彼女が笑う。僕も笑う。何でもないようなことを、何となく共有する。するとあっという間に時間が経っている。
気づけば日付が変わろうとしていた。
『もうこんな時間。ちょっと話しすぎちゃったね』
「僕はまだ大丈夫ですけど」
『ナツくんは元気だね。でも、私がもたないよ』
かなえさんが大きなあくびをした。
『明日も頑張ろうね』
この人が側にいてくれるなら、頑張れると思う。
『じゃあ、おやすみ』
「おやすみなさい。愛してます」
『いきなり言うのは反則だよ……』と言いながら、かなえさんが通話を切った。そしてそのすぐ後『私も』とメッセージが送られてきた。僕はベッドの上でもだえ、布団をめちゃくちゃに抱きしめた。下腹部がマグマでも溜まっているように熱かった。
だが少ししたら、その熱はどこかへ消えてしまった。そして気づくと、僕はミーナの配信を開いていた。
「やったああああっ!」
ミーナの声が響いた。
ずっとフルコン出来なかった曲が、ついに出来たようだった。彼女は息荒く「やった、本当に出来た……」と呟いた。
祝砲が飛び交った。
彼女はついに人間を卒業した。
みんなが自分のことのように彼女の達成を喜んでいた。
しかし僕は何一つコメント出来なかった。
それが、とんでもなく罪深いことのように感じた。
熱狂が冷めやらぬなか、彼女は応援してくれたリスナーに何度もお礼を言い、配信を終えた。
僕はしばらく天井を見つめ、自分の手のひらを見つめ、窓の外を見つめ、そしてアップされたばかりのアーカイブを最初から見始めた。
●
気づいたら、救急車に乗せられていた。
ふっと電気が消えたように目の前が真っ暗になったと思ったら、上半身に強い衝撃が走った。
少し経って、あれがエアバッグだったのだとわかった。
意識はあるのに映画でも見ているように現実感がなかった。
たくさんの人が、機械が、僕を生かそうと動いていた。
自分がどれくらいの怪我を負ったのか、そのときはわからなかった。
ただ全身に力が入らないので、もしかしたら死ぬかもしれない、とは思った。
だがそれと同じくらい、自分は死なないだろう、とも思った。
川の向こうで誰かが手を振っていたら、あるいは向こう岸へ渡ってもよかったのかもしれない。しかしあいにく、そんな誰かはいなかった。だから、大丈夫だと思った。
なかなか孤独になれないのと同じように、人はそう簡単には死なないのだ。
●
社長が息荒く病室に駆け込んできたが、僕が大事ないことがわかると「何だよ、心配させやがって」と肩を叩いた。僕は医者から受けた説明を、そのまま社長に話した。
全身に強い衝撃を受け意識が朦朧になったものの、大きな外傷はなし。
レントゲンの結果も問題なし。だが念のため三日ほど入院して様子を見る、と。
「まあ、何ともなくてよかったな」
「すみません、大事な時期に、事故なんて起こしてしまって」
車のボンネットがぺしゃんこになっていた。車がまるで、子どもが適当に粘土をこねたような形になっていた。
あれで無事なのは間違いなく奇跡と言えるだろう。
「いいって。俺も若い頃、事故ったことあるし。いやあ、あのときは先輩を乗せてたから、その後ずっといじられたなあ」
車も保険で何とかなるさ、むしろ新しく出来るからラッキーだ、と社長は大口を開けて笑った。
だが僕は笑えなかった。
もしお客様を乗せていたら、と考えてしまうからだ。
いや、社長や、藤巻さんや、かなえさんを乗せていたら……。
いやいや、今回は自爆で済んだが、もし人を轢いてしまっていたら──。
「何、寝てたの?」
「そう、みたいです」
「夜更かししたんだろ」
「……ええ、まあ」
「若いなあ。俺も昔は先輩たちと朝まで飲んで、そのまま仕事に行ったもんだけどさ」
今店は、藤巻さんとかなえさんの二人で回してくれているらしい。きっと心配をかけているだろう。一番の下っ端なのに、一番のお荷物になっている。
「店を閉めたら、二人も来るってさ」
携帯を見ながら社長が言った。
「本当に、申し訳ないです」
「気にすんなよ。長い人生、こんなこといくらでもあるさ」
社長が窓の外を見る。僕も釣られて見た。山々の稜線が淡い橙色に輝き、上のほうへ行くごとに少しずつ黒くなっていた。廊下からキャスターの転がる音や、人の切迫した声や、子どもの笑い声などが聴こえてくる。
「俺さ、昔芸人になりたかったんだよ」
以前、藤巻さんが社長も何か夢を追っていたと話してくれた。そしてその夢が叶わなかったから今の社長があり、僕たちがいるのだと。
「青森から東京に出てきたんだけどな。まあ駄目だった。何年やっても、ちっとも芽が出なかった」
楽しい話ではないだろうに、社長の顔にもどこか楽しさがあるように見えた。
「田舎じゃ俺より面白い奴はいなかったんだけどな。世のなかにはごろごろいるんだわ、俺より面白い奴がさ。掃いて捨てるほどいた。俺はその掃われるゴミの一つにもなれなかった」
それは社長のことなのに、僕のことのようだった。
いや、ようではなく、まさに僕のことだった。
「でも夢に挑戦したおかげで、前向きに生きられるようになったんだ。芸人にはなれなかったけど、なりたい自分にはなれたと思うからさ」
かっこつけてるな、俺、と社長が鼻を鳴らした。
「人生つまずくこともあると思う。だけどつまずいたって人生は続くんだ。仕事をして、金を稼いで、飯を食ったり、家族を養ったりしなきゃいけない。そんなとき、もし誰かが新しい人生を歩もうとしてるなら、そんな奴らが生きていける場所を作りたいな、って思ったんだよ」
社長は独立してからの思い出を、たっぷり僕に話してくれた。僕はそれにうなずきながら、社長の言葉を何度も噛み締めた。
そう、つまずいたって人生は続くのだ。
だから、僕たちは生きなければいけない。
生きている限り、生きることを諦めてはいけない。
今日、僕は僕の周りの人たちを、もっと好きになった。
●
面会時間ぎりぎりに二人がやってきた。
藤巻さんが「ちっ、生きてたか」と言うと、かなえさんがそのすねを蹴った。かなえさんは僕が無事だと社長から聞いてはいたものの、とても心配してくれていたらしく、泣き始めたと思ったら、僕を抱きしめた。
かなえさんが泣き止むまで、誰も時間に触らなかった。
「ごめんね、泣いちゃって」
「いえ、泣いてくれて、嬉しかったです」
僕はかなえさんを抱き寄せて、そして社長と藤巻さんに、付き合い始めたことを話した。藤巻さんがさも初耳のように驚いたのには、あえて突っ込まなかった。
「じゃあ今日なっちゃんが助かったのは、愛の力なのかもな」
「いや社長、それはさすがにどうっすかね……」
「うるせえ! 自分が一番わかってるよ!」
社長が藤巻さんをしばいたのを、みんなで笑った。