6 『ジュブナイルダイバー』
『ナツくんは、どうして声優になりたいって思ったの?』
かつて奈美に訊かれた。
訊かれて心に浮かんだのは、お芝居をするのが好きだからとか、自分がアニメで感動したようにその感動を自分も届けたいからとか、そんな文字列だった。
決して嘘ではないはずだ。そう心から思ったから、僕はこの道を選んだのだ。
だけどなぜか、それらがすべて台本に書かれた台詞のように感じた。
『奈美は?』
『……わかんない』
『わからない?』
『うん。おかしいよね。声優になりたいから、ここにいるはずなのに』
自虐のつもりだったのだろうが、僕のほうにも大きなダメージが入った。
『本当は、なりたくないのかもね』
『え?』
部屋は電気を消したままなので、表情までは見えない。彼女は天井を見つめながら続けた。
『特別な存在になるって、きっとみんなが想像してるほどいいものじゃないんだよ。私は、それが怖いんだと思う』
『……僕は、なりたいけど』
苦難の波に襲われても流されない、大きな存在になりたい。いてもいなくてもいい存在ではなく、九条夏樹というただ一人の存在でありたい。力がないばかりに掃いて捨てられてきたこれまでの人生を否定したい。
『そうなんだ。でもきっと、ナツくんもなれないと思うよ』
一番言われたくない人に、一番言われたくないことを言われた。
『ナツくんさ、お芝居もアニメも、そんなに好きじゃないでしょ?』
『そんなこと……』
『あ、ごめんね。確かに好きなんだとは思うよ。でもそれは、普通に好き、程度のものなんじゃない? あればいいけど、なくてもいい、みたいな。《好き》にも色々あるけどさ、この世界で上に行けるのは《常軌を逸して好き》な人たちなんだよ。何て言うのかな、それをすることで不幸になったり、あるいは死んだりしても構わないって思うくらいの好きじゃないと、息をすることすら出来ないんだと思う』
今ならわかる。声優に限らず、何か夢を追うことは、幸せを追うことでもある。
だが追った全員が幸せになれるわけではない。
厳しい世界であればあるほど、その数は激減していく。むしろ追えば追うほど不幸になっていく。
そこでふるいにかけられるのだろう。
不幸まみれになったとしても、それさえ出来ていればオールハッピー、後は他に何もいらない、と思えるかどうか──。
僕にそこまでの覚悟は、なかった。
好きなことをして、かつ幸せになりたかった。
だから、続けられなかったのかもしれない。
進んで不幸になれる人間だけが、人としての幸せをすべてゴミ箱にぶちこめる人間だけがほくそ笑むことが出来る世界に、僕は足を踏み入れてしまったのだ。
『奈美は、どれくらい好きなの?』
しかし奈美は答えず、寝返りを打って、僕に背を向けた。
僕はその背中を抱こうとして、止めた。
同じ布団のなかにいるのに、彼女が世界で一番遠いところにいるような気がした。
●
「兄ちゃん、店にある酒、全部持ってきてくれい!」
「いや社長何言ってんすか!」
「止めるな藤巻! 俺はもっと飲みたいんだ!」
「もうその辺で! すみません、ウーロン茶一つ」
「嫌だ! あと一杯! 一杯だけ!」
顔を赤くし駄々をこねる社長。藤巻さんはため息を吐き、社長の酒を注文した。いい年をした大人の酔っ払いぶりに、大学生風の店員が苦笑いしながら去っていった。彼は今日何かを学んだかもしれない。
「まったく、この人は……」
藤巻さんが言いながら、グラスを傾ける。社長と対照的に藤巻さんは顔色一つ変えていない。隣のかなえさんが、半熟卵やベーコンが入ったポテトサラダをつまみ、あ、これ美味しい、と言った。
「なっちゃん! ちゃんと飲んでるか!」
「あ、はい。いただいてます」
「そうか。ならいい!」
もっと飲めと言われるのかと思った。しかし振り返れば、社長に酒を強要されたことは一度もなかった。
「今日はトコトン飲むぞ! 朝まで飲むぞ!」
社長が叫んだ。社長と同じように叫んでいる人が店内には大勢いたので、誰も僕たちのほうを見たりしなかった。
年の瀬を感じる騒々しさだった。
だがこんな雰囲気は嫌いじゃなかった。
店員が焼酎を持ってきた。社長はそれを喉の奥へ流し込むと、大きく息を吐いた。
「飲みすぎですよ」
「うるせえ! これが飲まずにいられるか!」
「何か嫌なことがあったんですか?」
「馬鹿野郎! 逆だよ逆! 俺は今、めちゃくちゃ嬉しいんだよ!」
社長がテーブルを叩いた。皿やグラスが何ミリか動いた。
「こんな吹けば飛ぶような店に、こんなにもいい奴らがいてくれてさ、俺は何て幸せ者なんだって思うんだよ」
酒はアンプだと誰かが言った。社長の感情がいつもより増幅されていた。
「なっちゃんもしっかり成長してくれてさ。いい先輩に囲まれてる証拠だよ」
僕はかなえさんや藤巻さんに、たくさんのものをもらっている。それは重たいが、とても大切なものだった。
「九条くん、頑張ってますよね」
「ま、俺のおかげだよな」藤巻さんの顔が歪んだ。かなえさんがテーブルの下ですねを蹴ったらしい。
「ぜんぶ社長のおかげですよ」
かなえさんの言葉に、僕と藤巻さんがうなずく。
社長はとうとう涙を流し始め「俺は今日ここで、死んでもいい!」と叫んだ。
いつか僕も、そんな風に思えるときが来るのだろうか。
来てほしいと思った。
そしてこの人たちと一緒なら、いつか来るだろうとも思えた。
●
世界が揺れている。首に力を入れていないと頭が落ちてしまいそうだ。
「もう一軒行くぞ! まだまだ飲むぞ!」
「いや、もうベロンベロンじゃないですか。帰りますよ」
藤巻さんがタクシーを止めた。
「嫌だ! まだ飲みたい!」
「はいはい、大人しくしましょうね」
手慣れた風に社長をタクシーに押し込むと「じゃあ俺は社長を送っていくから」と言った。
「はい、お疲れ様です」
すると藤巻さんに手招きされた。近寄ると「頑張れよ」と耳打ちされた。「え?」と聞き返すも、藤巻さんはさっとタクシーに乗りこんでしまった。
かなえさんが「お疲れ様でした。気をつけて帰ってくださいね」と笑った。彼女の頬はほんのりと桃色に染まっていた。
タクシーが流れに呑まれて消えると、雑踏の音が余計に大きく聞こえた。
かなえさんと目が合う。
互いに数秒固まった後、かなえさんが「じゃあ、私たちも帰ろうか」と笑みを浮かべた。
その歩き出した背中に、僕は「かなえさん」と言った。
彼女が振り返る。
「二人で、飲み直しませんか?」
考える前に言葉が出ていた。酒のせいかもしれない。でも僕は自分の選択を何かのせいにしたくはなかった。
酒はアンプだ。つまりこの気持ちは、もともと僕のなかにあったものなのだ。
時が止まったようだった。
息が出来ない。今すぐにでも目をそらし、どこかへ隠れてしまいたい。
でも僕は、かなえさんから逃げなかった。
かなえさんが何度かまばたきをして「うん、いいよ」と言った。
●
しっとりとしたメロディーのジャズが小雨のように降ってくる。
どこかで聞いたことがあるような気がするし、ないような気もする。
しかしこれが本当にジャズなのかはわからない。僕が勝手にジャズと分類しているだけかもしれない。作者はジャズのつもりで作ったわけじゃないかもしれないのに。むしろジャズなんか嫌いで、ジャズに対抗するためにこの曲を生み出したのかもしれないのに。
「こんなお洒落なお店が近くにあったんだ。知らなかったな」
店内にはぽつぽつと客がいて、それぞれ何か話しているが、内容までは聞こえない。きっと僕たちの会話も、同じように聞こえていないだろう。
「この前たまたま見つけまして。いつか入ってみたいと思ってたんです」
繁華街から少し離れただけで、さっきまでの喧噪が嘘のようになくなった。まるで違う世界にやってきたようだ。
かなえさんがカルーアミルクを少し減らす。僕もファジーネーブルを同じくらい減らした。
「色々飲めるようになったけど、結局こういうのが一番美味しいんだよねえ」
「そうですね」
二人して、小さく笑った。
「でもびっくりしたよ。二人で飲み直しませんか、なんて」
冷静に考えると、とんでもないことを言ったと思う。しかし言ってしまったものは仕方ないし、それは僕が言いたくて言いたくてたまらなかったことなのだから、恥ずかしがる必要はない。
「何か話したいことがあるの? 仕事の相談なら乗るよ? 藤巻さんがサボってばかりで困ってます、とかだったら私がガツンと言ってあげるけど」
「いえ、仕事は順調です。藤巻さんは……まあ、はい」
藤巻さんにはガツンと言ってほしいけど、今は置いておいて。
「会社以外で、かなえさんと話したかったんです」
「いつも帰りに話してるじゃん」
「そうですけど……でもよく考えたら、かなえさんのこと全然知らないな、って」
間違いなく一番お世話になっている先輩だ。仕事のことも、そうじゃないことも、いっぱい話した。
でもそれは、砂浜や浅瀬のような、誰でも立ち入れる領域のことだけだ。
人の心には必ず海がある。その沖に何があるのか、僕は確かめたい。
「そうかな? だいぶ色々話してると思うけど」
「例えば、どうしてこの会社に入ったのか、とか……」
星の数ほどある会社のなかで、どうしてここだったのか。
不動産屋なんてコンビニよりも多い。
そこには何らかの巡り合わせがあると思う。
そしてそれが、その人をその人たらしめているはずだ。
かなえさんがカルーアミルクを煽り、空にした。するとバーテンがやってきて、次の飲み物を訊いた。彼女はグラスホッパーを頼んだ。
「私ね、学校行ってないんだ」
黄緑色のカクテルが置かれると、チョコミントの香りがふわっと漂う。歯磨き粉のようでいて、しかし歯磨き粉では絶対に出せない香りだ。グラスホッパーが彼女のなかへ入っていく。
「中学でいじめられて不登校になってね。だから中卒ですらないんだ。こういうの何て言うんだろうね。小卒?」
笑う彼女に何も答えられなかった。
「九条くん、今二十四だよね? ちょうどそれくらいまで引きこもってたんだ」
中学からということは、約十年。
十年も引きこもる生活とは、どのようなものだったのだろう。
それは果たして、生活と呼べるものなのだろうか。
「中学も出てない人間が、いざ社会に出て行こうと思っても、どこも受け入れてくれないじゃん? ちゃんとした人間ですら居場所があるわけじゃないのに。だから適当にぶらぶらしてたんだけど……そうも出来なくなってね。ちゃんと就職して、お金を稼がなきゃいけなくなったんだ。それで片っ端から当たってたら、社長に拾ってもらえたんだ」
グラスホッパーがなくなった。だが彼女は追加の飲み物を頼まなかった。
「いっぱい断られたよ。お前みたいに学歴も職歴もない引きこもり女がやれる仕事はうちにはないって。直接言われたこともあるし、言われなかったこともあるけど、だいたいみんな同じような反応だった。まあ、私が悪いんだけどね」
「そんなこと……」
したくてしたわけではないのに、それを彼女が一人で背負う必要はないはずだ。しかし彼女は「ううん。私が悪い」と譲らなかった。
「でも社長だけは、そんな風に私を見なかった。社長だけが、よく頑張る気になったなって、認めてくれたんだ」
だが彼女の気持ちだけは、僕にもわかった。
「それが、この会社に入った理由」と彼女は笑った。「ごめんね。重かったでしょ?」
その話を笑って出来るようになるまで、どれくらいかかったのだろう。
それは藤巻さんに対しても思ったことだ。
順風満帆な人なんて、もしかするとこの世に一人もいないのかもしれない。
誰もが、それぞれの苦難に立ち向かって、乗り越えて生きているのかもしれない。
「入ったばかりの頃は全然喋れなくて、申し訳なかったな。でも社長や藤巻さんがずっと寄り添ってくれて、ようやく喋れるようになったんだ。私に比べたら九条くんはめちゃくちゃ優秀だよ。自信持ってね」
こんなにも明るいかなえさんの、そんな姿は想像出来ない。だが想像出来ないだけで、それは現実だったのだろう。
「じゃあ今度は、九条くんの番。──昔話、聞かせてよ」
僕はファジーネーブルを飲み干すと、ギムレットを頼んだ。ライムの強烈な酸味が頭のなかを駆け巡った。
僕は専門学校でのことを話した。
しかし奈美のことには触れなかった。
かなえさんは声優の学校という閉鎖空間に興味津々で、色んな質問をしてきた。授業はどんなだったのかとか、同期で有名になった人はいるのかとか。だが、あまり期待には添えなかった。
授業はサボってばかりだったし、同期で声優になった人間は一人もいないからだ。
僕が知る限り、事務所に所属出来た人間もいなかった。
誰一人、夢を叶えることは出来なかった。
学校を出た後は、小さな劇団に所属したり、僕のようにお芝居とはまったく関係のない仕事に就いた者が半分くらい。もう半分はニートや消息不明の者たちだ。
そう考えると一番の出世頭は奈美なのかもしれない。
阿達奈美としてではないが、何万、いや何十万という人間に存在を認められている。
それは凡人には到底なしえない偉業だ。
神々の領域の話だ。
神話の世界に彼女は生きているのだ。
「辞めた後は工場とか、倉庫でアルバイトしてました。声を出すのが怖くなって、なるべく人と話さない職場を選んだんです」
あそこは心地よかった。
誰も僕の挫折になど触れてこなかったから。
でもやっぱりそれは僕がしたい生き方ではなかった。
僕は僕として、僕だけの人生を歩みたかった。
だからふらふらせず、ちゃんと働こうと思ったのだ。
そして社長に拾ってもらった。
「大変だったね」
自分のほうが大変だったはずなのに、かなえさんはそう言った。
「すごいと思うよ。私には夢なんてなかったから。なりたい自分なんて想像も出来なかったよ」
「僕も想像出来なかったですよ。ただ何となく、きらきらした世界に憧れて引き寄せられただけの虫みたいなものでした」
火に飛びこまず、生き残れただけで奇跡なのだろう。
「でも今は違います」
僕はかなえさんの手の上に、自分の手を重ねた。
「なりたい自分が、ちゃんとあります。……かなえさんも、そうじゃないですか?」
彼女は置かれた手を見て、そしてその手を裏返し、僕の手を握った。彼女の指が、とても熱かった。
「そうだね」