5 『夢へ向かって前ならえ!』
「よろし、く、お願いしゃす」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
もう既に彼女の息は上がっていた。
対して草薙カナタのほうはごく自然な感じだ。人と話すことを苦と思ったことが一度もなさそうな声だった。
「有栖川さん、緊張してますか?」
「い、いえ、はい、いや、ちょっと、だけ、してる感じですかね、はい」
「今日はせっかくのコラボなんですから、リラックスしていきましょう」
明るく言ってもらえたのに、彼女はかすれた声でうなずくだけだった。僕たちがまだそれを茶化せているので致命傷にはなっていないが、試合開始から早くもコールド負けを予感させた。
「あ、て、天気、いいですねえ」
「天気?」草薙が空を仰ぐ。「今、夜ですけど」
「そ、そうでしたね。……はは」
相変わらずだった。僕も最初のうちはコミュニケーションを取るのにかなり苦労した。
まず目が合わなかった。彼女は常に地面を見ていた。まるで彼女だけ他の人より重力が多めにかかっているようだった。
「じゃあ、素材を集めに行きましょうか」
草薙は活舌もよく、声も明朗だ。普通に話しているだけなのに下腹をくすぐられているような気分になる。
果たしてこんな調子で城は作れるのだろうか。
今日もまた長期戦になりそうだ。
二人はトロッコに乗り、素材があるほうへ向かっていく。
「草薙、さんは、朝ご飯はパン派ですか?」
「朝ご飯ですか? 僕は、ご飯派ですね。パンのときもありますけど」
「そう、なんですか」
「有栖川さんは?」
「私は……食べないですね」
「食べないんですか」
「食べ、ないです」
じゃあなぜ訊いたのか。彼女は何を知りたかったのか。彼女の息がどんどん荒くなっていく。
「あの、草薙さんは、オレオを食べてるとき、口のなかを鏡で見ませんか?」
「いや、見ませんけど……。見るんですか?」
「え、見ないんですか? みんなやってると思ってたんですけど」
「多分、誰もやってないと思いますよ」
「そうですか……」
「ええ……」
口を開けて咀嚼したオレオを鏡で確認すると、天の川に見えると昔言っていた。僕も一度やってみたことがあるが、人として何か大切なものを失った気がして、二度とやっていない。
本当に男女コラボなのかと思うほど空気が冷え切っていく。
山や洞窟から素材を削り出し、ストックしていく。草薙の手際がいい。彼は歌も上手ければゲームも上手いようだ。
「あ、アルバム、買いました」
「本当ですか? 嬉しいです!」
「『湿ったチワワ』が、よかった、です」
「有栖川さんにそう言ってもらえて光栄です」
「いえ、私なんて全然、まだまだで、へてぃくそで……」
僕は思わず「そんなことないよ!」とコメントした。それを彼女が読んだかはわからない。
僕のコメントは、ものの数秒で他のコメントに呑まれてしまったからだ。
すると「そんなことないですよ」と草薙も言った。
「有栖川さんの歌、僕は好きです。このあいだの歌配信も、とてもよかったです」
「ありがとう、ござい、ます」
「よかったら、今度一緒に歌いませんか?」
「え、いや、でも……いいんですか?」
「もちろん! 実はいつか一緒に歌ってみたいと思ってたんです!」
「じゃあ、その、よろしく、お願いします」
自信なさげだが、しかし歩みだけは止めないのが彼女のすごいところだ。
彼女もわかっているのだ。
そこが、歩みを止めた者から置いていかれる苛酷な世界だということを。
城作りは難航したが、草薙のフォローもあり、少しずつ進んでいった。最初は緊張の極みにあったミーナも、次第に自然に話せるようになっていった。
夜が明けて、豪華な城が完成した頃には、二人の距離は友達のように縮まっていた。
●
「前々から思ってたけど、なっちゃんは写真を撮るのが上手いねえ」
社長が、掲載サイトにアップしたばかりの写真を見ながら言った。
「藤巻、お前より上手いぞ」
「いや、言わないでくださいよ。俺も思ってたんですから」
「お前は肉が邪魔だから上手く撮れないんだよ。いい加減痩せろよ」
「痩せろと言われたくらいで痩せると思ったら大間違いですよ?」
「何で偉そうなんだよ……」
社長と藤巻さんが言葉でつつき合う。
僕は机の下で、拳を静かに握った。
「やったじゃん」
かなえさんが小声で言い、僕の肩を叩いた。叩かれたところが火傷したように熱く感じた。
「確かに、本当に上手いよね。綺麗だし、部屋が広く見えるよ。どうやって撮ってるの?」
かなえさんも写真を見て言った。
しかし上手く説明出来ない。僕としては普通に撮っているだけだからだ。その部屋の魅力が少しでも多く伝わればいいな、としか思っていない。
「今度、写真の撮り方教えてよ」
「そんな、僕がかなえさんに教えられることなんて……」
まったく恐れ多い。釈迦に説法だ。
しかしかなえさんは、何やらおかしそうに笑った。
「仕事は助け合いだよ? だから九条くんも、私を助けてほしいな」
その笑顔を前に、言い訳じみた思いなどすべて吹き飛んだ。心のなかが、太陽に照らされたように明るくなった。
するとその部屋に内見の予約が入った。
それが写真を見てのことなのかはわからないが、何かが前に進んだような気がした。
●
風が吹いた。背中を丸める。
「寒くなってきましたね」
「そうだね。何で寒くなるんだろうね」
「不思議ですよね。毎年寒くなりますよね」
僕はまだ冬を二十四回しか経験したことがない。それはだいぶ少ないように感じた。
かなえさんが前を歩く女子高生に「見てあの子たち、こんなに寒いのに足出して。寒くないのかな?」と言った。
「寒さを感じるのは大人だけなのかもしれないですね」
二人組の女子高生は何が面白いのか、肩を寄せて、何かを覗きこみながら笑い合う。
「そう言えばあれ見た?」
「見ました」
見ていないわけがなかった。むしろ通知が来た瞬間に見た。昨日から何度繰り返し見たかわからない。朝も電車のなかでずっと見ていた。許されるなら仕事中も見ていたかった。
草薙カナタと有栖川ミーナの歌動画は、投稿からすぐ話題になり、トレンドで世界一になった。
彼女は歌が上手いとは言え、歌が活動の主体ではなかったから、まさかこんなに上手かったとは、と多くの人が驚いていた。
世界が有栖川ミーナに気づいた。
文字通り、世界が。
「すごかったねえ。イメージ変わっちゃった」
不審者のようだった彼女と同一人物とは思えない。
彼女はフィルターを一枚通せば、誰よりも輝けるのだ。
これでメジャーデビューはほぼ確実なものになっただろう。彼女が拒んでも、もう世界のほうが彼女を放っておかないだろう。それは僕には想像もつかない世界の話だった。
人から必要とされる存在になるには、どうしたらいいのだろう。
替えの効かない、唯一無二の部品になるには、どうしたらいいのだろう。
掃いて捨てるほどいる人間のなかで、一人だけ抜きん出るには、どう生きたらいいのだろう──。
「九条くん?」
「はい、何ですか?」
「ううん。何かぼーっとしてるから。前見ないと危ないよ?」
僕の口が「すみません」と言った。
「最近多いよ、そういうこと。ちゃんと寝てる?」
「寝てますよ」
嘘だった。毎日夜遅くまで、いや朝まで彼女の配信を見ている。
社会人としてあるまじき生活だとはわかっている。でも止められない。彼女がそこにいるのに一人だけすやすやと眠っているなんて出来ない。
「ならいいけど……」
また皮膚を裂くような風が吹いた。
居酒屋の客引きに、どうですか、すぐ入れますよ、と言われたが、僕たちは無視した。その客引きの笑顔があまりにも完成されているように見えて、少し恐ろしく感じた。