4 『此処に咲いて』
「へえ、若い人のあいだじゃ、こんなもんが流行ってんのか」
社長が携帯を見ながら呟くように言って「わかんねえなあ。俺も年を取ったなあ」と頭をかいた。
窓から燦々と日の光が差し込んでいる。ヒーリング系の音楽と相まって、オーガニックな喫茶店でのんびりと過ごしているようだった。
「ああ、たまにテレビで特集されてますよね」
藤巻さんが書類を作る手を止め、椅子を回転させた。椅子が歯ぎしりのような音を立てた。
「結城さあ、そういうのってAIがやってるの? それとも中に人が入ってるの?」
「それは言っちゃ駄目ですよ」かなえさんが笑った。「ディズニーファンの前で、ミッキーマウスの中に人が入ってるなんて言ったら、どうなると思います?」
「確かに、そりゃそうだ。悪かった」
藤巻さんはばつが悪そうにコーヒーをすすった。
別に、悪いことを言ったわけではない。
その疑問は当然のものだ。
藤巻さんに悪意がないことは、かなえさんもわかっているだろう。
だがそれはとてもセンシティブな領域の話ゆえに、一言では語れないのだ。
クリスマスに住居不法侵入をする赤服おじいさんはいない。
だけどそれをしたり顔で指摘するのは無粋の極みだ。
そう、粋じゃないのだ。
それはこの世界では、もう死んだ言葉なのかもしれないが。
「なっちゃんも、こういうの好きなの?」
僕は「好きです」と答えた。社長はますます唸って「そうか、なっちゃんは声優の学校に行ってたんだもんな。こういうの、好きそうだ」と言った。
彼ら彼女らは、アニメのような創作物ではない。
生きている。
意志を持って、毎日を僕たちと同じように生きている。
ただ、生きている世界が違うというだけだ。
世界は一つではない──。
「うちの中学生の息子も最近、携帯で何か見てるんだよな。もしかしたらこれにハマってるのかもな」
「きっとそうですよ」藤巻さんが苦笑した。「若い子にとっては普通のことなんです。もう俺たちの時代じゃないんですよ」
「時代は変わったなあ」と社長がたばこの煙を吐くように言った。そしてまた、ミーナの配信のアーカイブを再生した。よく知る声がよく知る場所で流れただけで、日常が裏返ったように感じた。
「学校にはさ、こんな声の人、たくさんいたでしょ?」
「いました、たくさん」
●
「今日はね、またカレーを作ったんだ。でも理想の味には全然遠くて……。カレーって簡単に作れるけど、こだわればこだわるほど底が見えないよね。ほんの少しスパイスの量や種類を変えるだけでまったくの別物になるんだから。まあそこが楽しいんだけどね。私はようやく登り始めたばかりだからな、この果てしなく遠いカレー坂をよ……」
ほんのわずかな間があり「あ、みんなわかるんだこのネタ、嬉しいなあ」とミーナが笑った。
彼女の言葉に僕たちが反応する。
あるいはその逆をする。
それはアニメのキャラクターには絶対に不可能なことだ。
彼女は市販のルーを使わず、自分でスパイスを調合して、オリジナルカレーを作るのが好きだ。料理配信でその様子を見せてくれたこともある。そのときも美味くは出来たようだが理想には遠かったと今日と同じことを言っていた。彼女の跳びはねるような声を聴きながら、僕はその声と記憶を重ねた。
昔、神保町のカレー屋に二人で行った。そこで食べたカレーが比喩ではなく言葉を失うほど美味かった。二人で目を見合わせ、夢中でかきこんだのを覚えている。それからは他のどんなカレーを食べても満足出来なくなった。
しかし店は間もなく潰れてしまった。
すると彼女は自分でカレーを作るようになった。あの味以上の味を求めて方々のカレー屋を巡ったが、あれ以上のものには出会えなかったからだ。
彼女が作ったカレーを何度か食べたことがあるが、そのときはスパイスにこだわり始めた素人にありがちな散らかった部屋のような味だったが、あれから何年も経って、きっと彼女のカレーはかなりの高みに至っていることだろう。
僕がそれを食べる機会は永遠にないだろうけど。
彼女はおすすめのスパイスはないかと問うた。
僕たちは思い思いに声を上げた。
そして話が一段落したところで「そうだ、告知があるんだった」と彼女が言った。
「明日は草薙カナタさんとコラボするよ! 絶対見てね!」
だけど緊張して何を話せばいいかわからない、と彼女は頭を抱えて唸った。
とりあえず、天気の話から入るのがいいのでは、と僕たちは言った。
●
子どもの頃は好きなことを仕事にしたいと、好きなことだけをして過ごしたいと思っていた。
もちろんそれを実現してしまう人間は確かにいて、そんな人たちが光り輝いているのを見て、次は自分だと意気込んでいたが、その光は一生自分には当たらないのだと、やがて気づいた。
そして気づいたとき、僕の人生が始まったのだ。
スポットライトが当たらなくても、生きていかなければいけないのだから。
不思議と自殺を考えたことは一度もない。
同じクラスの人間で、同じように夢破れて自殺した人を知っているが、僕は彼に対し何の同情も出来なかった。
彼は何者にもなれない自分が許せなくて、ついに肉体という最後の防衛線まで壊してしまったのだろう。
魂は形がないゆえに肉体という容れ物がないと形を保てない。肉体もなしに魂の形を保てるのは、人間を超えた存在でしかありえない。
今の仕事は楽しい。
子どもの頃に夢見ていた仕事とは程遠いが、僕はこの仕事に就けてよかったと思っている。
なのに、たった一点だけ、魚の小骨のように引っかかっているものがある。
僕はこの小骨を取り除くべきなのか、それとも引っかかったままにするべきなのか。
無理に手を喉の奥へ入れると、すべてが吐瀉物となってあふれ出しそうな予感がある。
水が低きに流れるように、僕はこの問題をなあなあにしてしまっている。
いや、そもそもこれは問題と呼べるものなのだろうか。
何がどうなれば、僕は満足するのだろうか──。
「おーい、九条?」
急に声が生まれ、僕は横を向いた。
「お前今寝てたろ。先輩に運転させといて寝るなんて、大した奴だな」
「……すみません」
「まあ、それだけ俺の運転が上手いってことだな」
藤巻さんが大きな声で笑った。
「冗談だって。気にするなよ。最近お前頑張ってるもんな。疲れて当然だよ」
僕はもう一度「すみません」と頭を下げた。
あまりの心地よさに、ついうとうとしてしまった。藤巻さんの運転はトランプタワーを作っても崩れなさそうなほど丁寧だった。
仕事中だったことを思い出し、気を入れ直す。
「どんな部屋なんだろうな」
「楽しみですね」
「リノベーションしたばかりの部屋って好きなんだよなあ。生まれ変わって、別物になった感じが」
「転生したみたいな感じですか?」
「転生って」藤巻さんが噴き出した。「まあ、でも、それに近いのかな」
懇意にしているオーナーが、部屋をリノベーションしたので見に来ないかと言ってくれたのだ。ありがたい話だった。部屋を勧めるにも、まず自分たちで見ておかないとその良さもアピール出来ない。
藤巻さんと二人になるのは初めてかもしれないと、今さら気づいた。
なのに眠りこけてしまうとは、あまりいい態度とは言えなかった。だけど、頑張りを認めてもらえて嬉しかった。
藤巻さんがハンドルを操る。大きな腹が邪魔でないかと思うのだが、その体は流れるように動き、なめらかな挙動を生んだ。
「仕事には慣れた?」
「はい。おかげさまで。でも、まだまだです」
「そうだぞ。まだまだだぞ」
「ええ……」
自分で言うならともかく、人に言われると釈然としない。
藤巻さんが僕の肩を叩いた。
「冗談だよ、いちいち真に受けるなよ。面白いなあ、九条は」
片側二車線の国道を、隊列に沿って車は進んでいく。
流れをおびやかすものは見当たらない。
たまに見かけることもあるが、それらは速やかに取り除かれる。
人間が運転しなくなれば、そんなものはもっと少なくなるに違いない。
完全になくなるという未来もあるかもしれない。
誰も足を踏み外さなくていい、誰もが失敗しない世界。
そんな世界に生きていけたら、どれほど幸せだろうか。
「九条はすくすく育ってるよ。結城の教え方もいいんだろうけど」
「かなえさんには頭が上がりません」
「俺も上がらねえよ。あいつ怒るとめちゃくちゃ怖いし」
「怒ることがあるんですか?」
あのかなえさんが、誰かに怒るところなんて想像出来ない。
「あるよ。仕事しないでボケまくったときとか。九条が来てからは全然怒られなくなったけど」
藤巻さんはかなえさんがどんな風に怒るのかを楽しそうに話した。それを聞いて僕もいっぱい笑ってしまった。
「俺はとんでもない後輩を育てちまったのかもしれん」
かなえさんが僕を育ててくれているように、藤巻さんもかなえさんを育てたのだ。
僕もいつかは、と未来を想う。
赤信号が見えた。車がゆるやかに止まった。武道の達人がよく言う、脱力の極地みたいな運転だった。エンジンの熱い鼓動が体に伝わってくる。
「声優、なりたかった?」
言われ、藤巻さんを見る。
「専門学校まで行ってたんでしょ? 本気でなりたかったんじゃない?」
僕はすぐに答えられず、目をそらして、そうしたくはなかったのに、俯いてしまった。
「俺さ、若い頃ミュージシャンになりたかったんだよ。バンドのボーカルやってたんだ」
顔を上げると、車がまた、とても静かに発進した。
「小さなライブハウスとか、駅前で演奏してた。メジャーデビュー目指してオーディションも受けたりしてた」藤巻さんは笑いながら言った。「でもいつまで経ってもデビュー出来なくてさ。卒業して一人、また一人と抜けて行っちゃってさ。気づけばフリーターの俺だけが残されてた」
それを笑いながら言えるまでに、どれくらいの時間が必要だったのだろう。
「しばらくは一人で活動してたんだけど、やっぱり駄目だった。俺に音楽の才能はなかったみたいだ。だから、諦めた。でもさ、諦めたら、すごく楽になれたんだよなあ。ミュージシャンになりたい、がいつのまにか、ならなくちゃいけない、にすり替わってて、それ以外のことを考えられなくなってたんだ。まあ、あれはあれで楽しかったけどな」
釣られて、僕も小さく笑った。
「幸せって一つじゃないんだよな。結局、見えるかどうかなんだ」
僕はうなずく。
「急にこんな話してごめんな。馬鹿にしてるんじゃないんだ。ただ、本気で何かを目指した経験は、決して無駄にはならないぜって言いたかっただけなんだ。年を取ると若者に色々と言いたくなっちまうんだ。許してくれな」
「いえ、聞けて嬉しかったです」
心から、そう思えた。
●
リノベーションした部屋は別人のように変貌していた。
シックな壁紙とチェリー材の床が、部屋全体を明るく見せている。
デザインはプロに頼んだとのことで、かっこよさと快適さを両取りした空間となっていた。
自分が住みたいと思うくらいだった。
「すぐ決まりそうですね」
「そうだな」
僕と藤巻さんはネット掲載用の写真を撮ったり、設備の概要をまとめていく。以前のものと比べると、自分で言っておいて何だが、本当に転生したようだった。築四十年とは思えないほど若々しく、瑞々しい。活力に満ちあふれていた。
「実は社長もさ、若い頃、夢があったんだよ」
手帳に色々と書き込みながら、藤巻さんが言う。
「でも叶わなくて、就職を選んで、それで独立したって感じなんだ」
「そうだったんですか」
僕は備品の一眼レフを下ろす。
「だから、なんだろうな。俺みたいな夢破れた人間に、めちゃくちゃ共感してくれたんだ。社長に拾ってもらわなかったら、今頃まだその辺をふらふらしてたかもしれないな」
僕もそうだった。
面接で、声優を目指していたことを話したら、自分のことのように共感してもらえた。よく頑張ったな、と言ってもらったのを昨日のことのように覚えている。
「あ、これ社長には内緒な。俺が言ったって言うなよ。俺がしばかれるから」
「わかりました」僕は笑った。
藤巻さんが携帯の画面を見せてきた。娘さんらしい。幼稚園児くらいの女の子が、小さなビニールプールで遊んでいるところだった。
彼女は、この世には何らの痛みも絶望もないとでも言うように浮き輪を抱きしめて笑っていた。
「可愛いですね」
「だろ? 渡さねえぞ」
「欲しくないですよ……」
「何で欲しくねえんだよ! ぶっ飛ばすぞ!」
感情がメトロノームみたいな人だ。
「まあ何が言いたいかと言うと、俺は今、世界で一番幸せってことだ」
帰りは僕から運転を申し出た。
来た道を戻っていく。藤巻さんが思わず眠ってしまうような運転を心がけるが、なかなか上手くはいかなかった。
「なあ、結城のこと、どう思ってる?」
藤巻さんが窓の外を見ながら言った。
またいきなり言われて戸惑ったが、今度は俯かなかった。
「いい先輩だと思ってます」
「ああ、本当にな。いい奴なんだよ、あいつは」
自分が生きた激動の時代を振り返る老人のような言い方だった。
「結城のこと、好きか?」
車が揺れ、藤巻さんが「おっ」と声を出した。
「好き、なんでしょうか」
よくわからない、というのが本音だった。もちろんかなえさんのことは好きだ。だけどそれは、ラブというよりライクのほうが近い気もする。藤巻さんが「そうだよな。悪い、変なこと訊いちまった」と笑った。
「でも俺から見たら、二人お似合いに見えるぜ」
「本当ですか?」
「まあ、あいつのこと、よろしくな」
藤巻さんが窓を開けた。空気が駆け込み乗車をするように入ってきた。藤巻さんは「寒っ」と言い、窓を閉めた。