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3  『LINK・LINK』


 阿達奈美と検索しても何も出てこないが、有栖川ミーナと検索すると、僕の月収くらいの数がヒットする。それだけ彼女が、この世界において認知されている証だった。


 それはかつて思い描いていた自分の姿とはずいぶん違うものだろうが、何もかもを諦めて普通になろうとした僕とは違い、彼女は誰も自分を守ってくれない世界で、今もまだ果敢に戦っていた。


『こんなことしてて、いいのかなあ』


 彼女は僕といるとき、何度もそう呟いた。

 それは彼女なりの抵抗だったのだろう。

 そんなとき僕は決まって『いいんじゃない?』と返した。


 何の根拠もない、口から空気のように出た言葉だった。

 僕は悩む彼女の手を引き、あるいは後ろから抱きしめて、その唇に自分の唇を重ねた。


      ●


 ミーナの悲鳴が響く。

 彼女の高い声が鼓膜を震わせるたび、心まで震える。

 ホラーゲームを実況しているときに出る悲鳴もいいが、こんな楽しそうな悲鳴も彼女らしくていい。


 彼女が「冷静に、冷静になれ、私……」と呟く。


 この曲を一つのミスもなく叩けたら人間を卒業出来る、とはファンの総意だ。普通の人間ならふりかけのように降ってくる音符に五秒ともたないだろう。それが八分以上も続くのだ。


 数多の曲をフルコンしてきた彼女ですら、この曲だけはフルコン出来ていない。それほど別格の曲なのだ。僕も譜面に合わせて指を動かしてみるが、全然追いつける気がしない。僕の指はもうかつてのようには動かない。ただの人間の指だ。


 対して彼女は、あの頃よりさらに上手くなっている。昔の僕よりも格段に上手い。いや比べるのも失礼なほどだ。彼女は後少しで人間を辞めるレベルにまで来ていた。


 いいところまでは行けるのだ。だけど、どうしてもどこかでミスが出てしまう。

 多くのプレイヤーがここで数えきれないほど挫折してきた。


 ここから先は生きる領域が違う。

 普通とそれ以外を分ける、見えない線が確かに引かれている──。


「もう少しだよ、頑張って!」


 僕は声援を送った。すると「うん、ありがとう。もう少しだよね、頑張るよ」と彼女が言った。


『ナツくん、難しいよ、このゲーム……』

『考えてちゃ遅いんだ。考える前に指を動かせるようにならないと』

『考える前に──』


 と呟きながらプレイする彼女の姿が、走馬灯のように点滅した。


 結局、今日も朝になっても人間は卒業出来なかった。

「みんな、ごめんね、フルコン出来なかった。でもまた挑戦するから、絶対見ててね」


 彼女の頭上に、健闘を称える言葉が桜吹雪のように舞った。


      ●


 この仕事は僕に向いていたようだ。

 ものにはならなかったが、お芝居もこの仕事も、誰かに自分のパフォーマンスを見せるという点では共通している。

 それが観客かお客様かの違いでしかない。

 体や声を使い、社会人という役割を演じ切ると考えたら、ごちゃごちゃと絡まっていた糸がほどけたように楽に思えた。


 夢が叶わなくても人生は続いていく。

 だったら、自分のすべてを目の前のことに注ぎ込んだほうがいい。


 社長を含めてたった四人の小さな不動産屋だが、僕にはあそこが楽園のように思える。

 今はまだ僕が一番下っ端だが、いつか自分にも後輩が出来たとき、胸を張って仕事を教えられる先輩になりたいと思う。


 扉の横にもたれ、ミーナの配信を見返す。

 大きなあくびが電車の音と混ざった。


 そして電車が止まり、携帯から顔を上げ、降りようとしたところで、隣にかなえさんがいたのに気づいた。

 僕は慌ててイヤホンを外した。


「あ、おはようございます」

「おはよう。さっきの、すごいあくびだったね」


 小さく笑うかなえさんとともに、電車を降りる。ホームに人の波が生まれた。その波に押し流されないよう、しっかり舵を取る。


「今日も早いね」

「かなえさんこそ、早いですね」

「ちょっと早く起きちゃってね。だったら早めに会社に行こうと思って」


 人の波に上手く乗る。

 一糸乱れぬ隊列で、僕たちは駅からそれぞれの居場所を目指す。


「そう言えば、さっき有栖川ミーナ見てたよね」


 信号を待っていたら、そう言われた。


「よく見るの?」

「まあ、はい」

「そうなんだ」


 かなえさんが口角を上げた。

 職場の後輩があんなものを熱心に見ていたことが、おかしかったのだろうか。


 まだまだ一般的に認知されているとは言いがたい世界だ。まだまだ偏見に満ち溢れた、何の歴史も権威もない世界だ。

 見下されるのは馴れているが、尊敬する先輩にそんな風に思われたら、僕は立ち直れないかもしれない。


「私も見てるよ、有栖川ミーナ」


 バイクが猛スピードで曲がっていった。そのすぐ後、信号が青になった。

「そうなんですか?」

 意外だった。ああいったものを見るイメージはまったくなかった。


「面白いよね。可愛いし、ゲームも上手いし」


 彼女の登録者数を考えれば、近くにファンがいてもおかしくはない。だが、まさかこんなにも身近なところに同じ《好き》を抱えている人がいるとは思わなかった。


「まあ配信時間が長いから、全部は見れてないけどね」

 朝の澄んだ空気と混ざって、彼女の声がよく耳に響いた。


「歌も上手いよね」

「上手いですよね」


 あの頃から歌は上手かったが、彼女より上手い人が大勢いたので、埋もれてしまったのだ。

 しかし普通の人間からしたら、雲の上の人のように上手い。


 彼女には、いくつもの刃がある。


 会社に着くと、いつものように掃除をした。最初からかなえさんがいてくれたので、だいぶ早く終わった。

 僕たちは二人がやってくるまで、まったりとお茶を飲みながら、ミーナの話で盛り上がった。


      ●


 星のない夜空だ。


「九条くんはさ、コメントってする人?」

「まあ、する人ですね。かなえさんは?」

「私は全然しないな。したことないんだ」

「どうしてですか?」

「自分の好きなものを、邪魔したくないって思うから」

「邪魔だなんて……」

「わかってる。私が勝手に思ってるだけだから。でも思っちゃうんだ。この完璧な世界に私っていう不純物が混ざっていいのかな、って」


 空は奥行きのないただの紺色の一面としか見えない。あの向こうには、僕たちの想像も及ばないほどの無限が広がっているはずなのに。


「私は影も形もなく、応援だけ出来たらいい。私を見つけないでほしいんだ」


 そう言うかなえさんは、しかし満面の笑みだった。

 無理して笑っているようには見えない。


「変わってるでしょ」

「そうですね」

「あ、九条くんひどい」


 二人して、変な声で笑った。


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