11 『アイシー』
かなえさんは僕を、小高い山の上にある病院に連れてきた。
周りには小さな薬局くらいしかなく、ここに来るのでもなければ、決して誰も来ないような場所にその病院は建っていた。
車から降りると、小鳥の鳴き声が聞こえた。それが一番大きな音だった。
駐車場から町が見下ろせた。町はここから見ると、灰色の汚い塊のようだった。
裏にある入口へ回り、インターホンを押して、かなえさんが名乗ると、扉のロックが解除され、なかに入れた。
そこは病院というより、ホテルのロビーのようだった。一階は見舞客が待機するための空間になっていて、二階より上が病棟らしい。そしてそこへはスタッフと一緒でないと入れないらしい。
スタッフが迎えに来て、僕たちを先導した。二階で受付を済ませると、またスタッフといくつものロック付きの扉を通り、廊下を進む。
厳重な警備だった。これでは誰もこの病院に侵入出来ないだろう、と思ったが、すぐに、逆だ、と気づいた。
これは侵入者を拒む扉ではなく、脱走者を許さない扉なのだ。
高級ホテルのような内装なのに、受ける印象は牢獄のようで頭が混乱した。
かなえさんは僕のようにきょろきょろせず、スタッフと和やかに話していた。
スタッフが扉の一つを開ける。
なかに入ると、ワンルームのような部屋の隅に、大きなベッドがあった。そこに、しわだらけの女性が横たわっていた。
●
「ありがとね。今日、来てくれて」
来たとき登った坂道を下りながら、かなえさんが言った。細い道を、彼女は馴れたように運転していく。対向車が来ても冷静に対処した。時計を見ると一時間ほど経っていた。
一時間しか経っていないのか、と思った。
空の色は、ほとんど変わっていなかった。
かなえさんと、彼女の母親と、三人で、色んな話をした。
かなえさんの子どもの頃の話もたくさん聞いた。
そして彼女の母親が、現在置かれている状況も──。
「ごめんね。重かったでしょ」
国道に出ると車の通りが一気に激しくなった。さっきまでの静寂が嘘のようだった。
「でも、ナツくんには知ってほしかったんだ」
彼女の横顔が日の光に照らされて、輝いているように見えた。
なるほど、人里離れたあそこなら、自殺未遂をしたり、薬物を乱用したり、近隣住民に迷惑をかけたりもしないわけだ。
僕はしわだらけの腕や首に刻まれた、おびただしい量の傷跡を思い出した。
国道沿いの喫茶店に入り、それぞれ飲み物を注文した。平日だが店内は賑わっていて、店員が忙しなく動いていた。
かなえさんが詩を読むように言った。
母親があんな風になったのは自分のせいなのだと。
十代から二十代までの約十年を、彼女は引きこもって生きた。彼女は未来のことなどなるべく考えないようにしていたが、親からすれば、そうもいかなかった。一人娘の未来を案じ続けていた。
そして父親を突然、事故で亡くした。
一人残された母親は、夫の死と娘の未来、二つの重荷を支えきれず、潰れてしまった。
一度潰れた心は、そう簡単には元に戻らない。
彼女は壊れた母親を支えるため、大きな流れに乗ることを決めたのだ。
「今度は、私が支える番」
入院費用を捻出するために、彼女は働いているという。
「これが私のぜんぶ。だから聞かせて。ナツくんのことも」
一息つく頃には、互いの飲み物がほとんど空になっていた。僕たちはおかわりを頼み、ついでにチョコレートケーキとモンブランを頼み、二人で分け合った。
「美味しいですね」
「ね」
うなずいた彼女の微笑みを見つめながら、僕は話した。
阿達奈美と、有栖川ミーナのことを。
かなえさんはそれを、静かに聞いてくれた。
「何となく、そうじゃないかって思ってたよ」
かなえさんが窓の外を見た。空には分厚い雲がかかっていた。
「なら、このあいだのことは許すよ。彼女、大変だったもんね。……一つ、これだけは訊かせて。今も彼女のこと、好き?」
「それは……」
「ごめん、意地悪だったね」
「今は、かなえさんが一番好きです」
「ありがとう。何だか恥ずかしいな。そんなに真っ直ぐに言われると」
そして「私も、ナツくんが一番好き」と小さく言った。
そこで気づく。僕は奈美に、一度も好きと言ったことがなかったし、言われたこともなかったと。




