9 『花に祈りを、あなたに愛を』
華々しい勝利はあっても、華々しい敗北はない。
敗北はいつも日の当たらない場所で、ひっそりと起こる。
それが人の前にわかりやすく出てくることは稀だ。
スポーツや格闘技の試合などは、そもそも試合の舞台に立てている時点で勝利しているのだ。本当の敗北者は試合に出ることすら許されない。
だから退学届を出したあの日が、特別な日になったりはしない。
むしろ、いつもと変わらない、ごく普通の日だった。
校舎を出て、振り返る。何て汚く、小さい場所だったのだろう。
こんな場所での評価に一喜一憂して、僕は勝手に負けていったのか、と思った。
駅までいつものように歩く。
すると、奈美の声が聞きたくなった。
『今、退学届、出してきた。奈美は?』
『私もさっき出したよ』
話しながら地面を踏んでいく。アスファルトの地面は多くの人間に踏まれながらも、何も言わず、ただ地面としてあり続けている。果たしてそんな生き方が、ただの人間に出来るだろうか。
『じゃあまだ近くにいるの? ちょっと会おうよ』
駅前の喫茶店に入り、一番奥の、一番目立たない席に座った。
抹茶フラペチーノを飲みながら、店の前を往く人々を眺める。
あの一人一人に、それぞれの敗北があるのだろうと思った。いや、思わずにはいられなかった。
奈美がやってきた。奈美は僕を見ると、小さく、悲しそうな笑みを作った。
今日の彼女は何もかもが違った。
髪型がツインテールではないし、リズリサやらアンクルージュ、シークレットハニーといった服とは全然違う、ユニクロやしまむらで売っていそうなものを着ていた。ヴィヴィアンのネックレスもないし、ジャスティンデイビスの指輪もない。まるで芸能人のオフの日のようだった。
しかし僕は、その変化にはいっさい触れなかった。
『終わっちゃったね』
彼女がミルクティーを飲んだ。
『これでよかったのかな』
『よかったんだよ』
間を置かずに僕は答えた。
店内には僕たちの他に誰もいない。ジャズ調のゆったりとした曲が、今は耳に優しくなかった。
『奈美は、これからどうするの?』
僕のほうは、まず親に学校を辞めたことを報告しなければいけない。反対を押し切ってまで通わせてもらったのに、僕は何の相談もなく辞めた。それは、親不孝以外の何なのだろう。
奈美も僕と同じく上京してきた口だ。もしかしたら実家に帰るのかもしれない。
しかし奈美は『私は、まだこっちにいる』と答えた。
『何か、やりたいことがあるの?』
『ナツくんに言う必要ある?』
氷水のように冷たい声だった。
『……何だよ、それ。ちょっと聞いただけじゃん』
『ちょっと、じゃないよね。知りたくて知りたくてたまらないって顔してるよ?』
言葉こそ尖っていたが、表情は穏やかだった。
僕が何も言えずにいると、彼女は歌うように続けた。
『ナツくんはいつもそう。奈美は? 奈美は? って私のこと知りたがるけど、私のことなんかどうでもいいでしょ。人がやってることじゃなくて、自分がやりたいことを見つけなよ。誰かの後追いしか出来ないんだったら、ここにいる意味ないよ』
同じ立場のはずなのに、遥か高みから言われているような気がした。
それでも僕は何も言い返せなかった。
『私は見つけたよ。だからナツくんも、自分の道を歩いて』
このときの僕には、何を言われたのかわからなかった。自分の道なんてものはないと思っていたし、仮にあったとしても歩けるはずがない、と思っていたからだ。
奈美はこの後、僕に何も言わず引っ越して、音信不通となった。
それから、二度と会っていない。
●
「いい車ですね、心地よかったです」
お客様にそう言ってもらえた。僕は嬉しさといたたまれなさに包まれたが、前者を大切にしようと思った。
新車は運転しやすく、シートも格段に柔らかかった。焼け太りってのはこういうことだ! という社長の高笑いが再生された。
頭がすっきりしている。
ちゃんと夜、眠るようになったからだろう。
世界の見え方が、前とは全然違う。
僕には大切にすべきものがたくさんある。
だから、何かを捨てなければいけなかった。
僕は欠陥品だ。人として何か大切なものが欠けている。
だけど、だからと言って、人並みに生きていけないというわけじゃない。戦い方によっては、十分すぎるほどの戦果を上げることも出来る。
少しずつ、忘れていこうと思った。
●
「あっ」
思わず声が漏れた。
適当に巻きつけられたパスタがほどけて皿に帰った。何本ものパスタが晴れの日のミミズのように舞い踊った。僕は震える指で、携帯の画面をスクロールした。
「どうしたの?」
戻ってきたかなえさんが首を傾げた。
当然だ、トイレから戻ったら、恋人がパスタを食べながら固まっているのだから。
目線の先には携帯。何事かと思うだろう。良くない報せでも届いたのかと思うだろう。
しかしそうではなかった。
むしろ、良い報せだった。
有栖川ミーナの、メジャーデビューが発表されたのだ。
世界中から喜びのコメントが寄せられて、言葉の大河が出来つつあった。
「すごいね。どんどん遠くに行っちゃうね」
かなえさんがカルボナーラを巻いて口のなかへ入れた。唇についたクリームが、彼女の舌でぬぐい取られた。
「よかった」
その笑みに、目が痛くなるほど熱く惹かれた。
●
ショッピングモールを歩く。色んな店が祭りの屋台のように連なっている。平日なのでそこまで人は多くないが、きっと土日は子どもが簡単に親とはぐれるくらい人でごった返すのだろう。
僕たちは映画が始まるまで、本や雑貨や服などをゆっくりと見ていった。一緒に同じものを見るというだけで、心が満たされていくのがわかった。彼女が試着した服はどれも似合っていて、その気持ちが心から言葉になった。
たいそう泣けるらしいと評判の映画だったが、僕は涙一つこぼれなかった。対してかなえさんは、終盤からぼろぼろと泣いていた。繋いだ手を握りしめ、彼女を感じた。上映後、かなえさんはパンフレットを買った。
美術館も近くにあったので入った。現代美術特集をやっていて、簡潔か難解かの極端な作品ばかりが展示されていた。僕たちは作者が何を思ってその作品を生み出したのか、首をひねりながら考察し合った。
大きな公園では子どもたちが遊んでいた。ランドセルが樹の下に集められているのが見えた。犬と遊んでいる女の子もいたし、バドミントンをしている高校生くらいの男女もいたし、キャッチボールをしている中学生くらいの男の子もいた。
「子どもたちが遊んでるだけで、どうしてこんなに幸せな気持ちになれるんだろうね」
「自分が生きてきた世界が、間違ってなかったって思えるからじゃないですか?」
公園の側にある花畑に入った。虹のなかにいるような、目がくらむような輝きに包まれた。
すると「ありがとう」と言われた。
「何がですか?」
お礼を言われるようなことは何もしていない。むしろ僕のほうがお礼を言いたいくらいだ。一緒にいてくれて、ありがとうございます、と。
そこで気づく。
彼女も、そういう意味で言ったのだと。
甘い香りがした。彼女の髪が風鈴のように揺れた。
「みんな、私を置いて遠くへ行っちゃうんだ。私だけが、いつも取り残されてばかりだった。でも、それでよかった。私にはそれがお似合いだって思ってた。だから諦めてた。私を見つけないでほしい、って」
胸が痛くなった。
「でもナツくんが私を見つけてくれて、ずっと近くにいてくれて、よかった。見つけないでほしいって思ってたのに、見つけられちゃった」
「見つけちゃいました」と僕も笑った。
「だから、ありがとう。私を特別にしてくれて」
僕は繋いだ手を、強く握り直した。
また春がやってくる、と感じた。
花畑を出ると、彼女が言った。
「ねえ、今度、一緒に来てほしいところがあるんだけど」
「どこですか?」
「今はまだ、言えない。でも必ず言うから、そのときは、聞いてほしいな」
どこへ連れて行かれるのだろう。
いや、どこでもいい。
たとえ地獄の底だろうと、僕は彼女と一緒にいると決めたのだ。
僕は「はい」とうなずいた。




