41 エピローグ
「……」
言葉はなかった。
第五聖地アンフィールドの総大司教ハデス=オーキュナーは、娘の書いた日記帳を読み終えた後も沈黙したまま両肘を机に突き、口元を手で覆っていた。
「この日記帳は、貴方の御令嬢が『邪術によって生み出された別人格』に宛てて書いた物です。少なくとも俺はそう断定しました」
まだ老齢には至っていないハデスの顔には、真相を突き止められた焦燥もなければ、開き直りと受け取れるような姿勢も見られない。
ただ眼前の若者の話を静かに聞いている。
第五聖地とはいえ総大司教。
幹部位階3位であり、最高の裁治権をもつ司教職の彼よりも偉い人間は、魔術国家デ・ラ・ペーニャにおいて僅か数名しかいない。
元老院や準元老院などに属する、事実上格上の老人は数名ほどいるが、彼が国内有数の権力者である事を否定する理由とはならない。
「さる信頼できる筋からの情報ですが、貴方は碌に調査もせず、御令嬢を物憑き……化物に身体を乗っ取られたと判断し、山奥の施設に幽閉したそうですね」
「いいや違う。幽閉などという強い言葉は、私を悪者にする為の悪意に満ちた表現だ。娘は正常ではなかった。周囲の者を傷付ける恐れすらあった。だから身を切る思いで別荘に避難させていたんだ。ちゃんと世話係も付けてある」
言葉遣いは丁寧ではなく、媚びを売るような発言でもない。
それは国内最高峰の権力者であれば当然――――ではなかった。
この国には賢聖という称号がある。
その称号自体は何の権力も冠しないが、魔術士に与えられる最も大きな栄誉であり、偉大な足跡を残したと教皇が認めた証でもある。
賢聖に――――目の前の青年に楯突くのは、教皇に楯突くのと同意だ。
「私は第五聖地アンフィールドの総大司教として最善策をとった。娘にも、私は親として最大限の情けをかけたんだ。譲渡できる全てを譲渡した。だから娘は生き長らえた。私の娘でなければ、私が親でなければ、とっくに始末されていた筈だろう?」
にも拘らず、ハデスは一歩も譲らず大きく見開いた目で賢聖を見る。
瞬きする事なく、睨むでもなく、ただその眼球を晒し続ける。
「この聖地を代表する人間として、私は決して軽んじられてはならない立場にある。決して侮蔑されてはならない。弱味を見せてはならない。恥を掻いてはならない。笑い者になってはならない。それが私の責務。総大司教たる私が命を賭して守るべき矜恃だ」
ハデスは己の正義を振りかざす。
自分が間違っているなど、微塵も思ってはいない。
今までも、そして今日も。
「素晴らしい才能を持っていると思っていた。魔具を使わずに魔術を使用できるあの娘は、この国に新しい風を吹かせる宝石だと信じていた。だが違った。あの娘は物憑きだった。だから特別に見えただけに過ぎなかった。私の無念を理解して欲しい。私も被害者なんだ」
唇の端から血が流れる。
だがハデスは気にも留めず、捲し立てる。
「どれだけ手を尽くしても、あの娘に取り憑いた化物は払えなかった。『物の怪に取り憑かれた憐れな子』ならまだ良い。だがあのままでは気狂いとしか映らない。総大司教の娘が狂っていると他の聖地に知られれば、第五聖地は更に肩身が狭くなる。私達が今、聖地格差にどれだけ苦しめられているかわかるか? アンフィールドの住民にこれ以上惨めな思いをさせるなど、決して許す訳にはいかない。それでも私は、娘を生かしたかった。生きていて欲しかった。だから別荘で生活させていた。同志からの反対意見は多数あった。あの娘を生かしていても良い事はないと断言もされた。だが私は断固として譲らなかった。親だからだ。親が子を生かそうと努力して何が悪い!」
自分の言葉に昂揚し、ハデスは次第に感情を漲らせ、最後は激昂した。
決して演じている訳ではない。
紛れもなく本気だった。
その言い分に対し、賢聖は――――
「幼稚な虚栄心だ」
「……!」
たった一言で切り捨てた。
「別人格という事象一つで物憑きと断定する発想がまず稚拙だが、それはいい。自分の子供に重大な異変が起こって視野が狭くなるのは仕方がない。だが、そう判断したのなら、総大司教を辞めれば済む話だ」
「な……」
「お前が総大司教でなければ、娘が仮に物憑きだろうと気が触れていようと、一緒に暮らして面倒を見られた筈だ。職は失うが、元総大司教の肩書きがあれば天下りくらいは訳ないだろう。それも主義に反するなら、ギルドで仕事探しでも何でもすればいい。全く問題ない。家族と生きていく術は幾らでもあった」
賢聖の指摘に対し、ハデスは何も反論できない。
そんな事が出来る訳がないだろう――――などと言える筈もなかった。
彼が振りかざした信念と正義感は全て、総大司教である自分を大前提としたもの。
娘の為でも、市民の為でもない。
総大司教である自分を堅持する為に積み上げてきたものだ。
総大司教という地位に酔っているだけの男。
だから平気で嘘をつく。
世にも罪深き嘘を、いとも簡単に。
「自分が屑だって自覚はあるか?」
賢聖の目が、ハデスの濁りきった目を蹂躙する。
まだ20歳かそこらの若造だが、それだけでハデスは言葉を失ってしまった。
権力にではない。
肩書きでもない。
純粋な怒りという感情に、純粋に怯えきっていた。
「無回答か。なら次の質問。子供は親の所有物か? 子育てと人形遊びとの違いはなんだ?」
「それ……は……その……」
「無回答だな。娘に宛てて手紙の一つでも送った事はあるか? そんな物は一切なかったそうだが」
「……」
「最後の質問だ。かかりつけの医者はいるか?」
「い、いるが……」
「だ、そうだ。遠慮は要らない。後はやりたいようにやれ」
そう賢聖が告げた直後――――総大司教室の扉が開き、隻腕の少年が入って来た。
少年の顔は、誰が見てもわかるくらい、怒髪天を衝く様相だった。
「……」
賢聖と入れ替わり、少年が総大司教と対峙する。
すれ違いざま、賢聖は無言で少年の右肩に手を当て、力を込めた。
幾度となく、面談の要請は出していた。
だがその度にのらりくらりと躱されていた。
他者の権力を使うのは、決して本意ではなかった。
けれどそんな小さなプライドよりも、もっと大事な事があった。
故に躊躇はなかったし、ここまでの流れは極めてスムーズだった。
『わかった。時間はかけない』
賢聖の言葉は短かったが、裏を取る為のあらゆる捜査を省略するという意思表示だった。
それだけの信頼を、少年は得ていた。
「お初にお目にかかります。僕はマルテと言います。御覧の通り、右腕しかありません」
「あ、ああ……」
「でも、一本あれば十分だ。本当は11人分……って言いたいけど、僕が知ってるのは2人だけだからね。それに、その内の1人はいつか自分でやるって言ってるし、任せる事にする」
「……?」
隻腕の少年、マルテが何を言っているのかわからず、ハデスは狼狽を隠せない。
だが、側近や部下が彼の側に来る事はない。
誰も、彼を助けない。
「だから僕は1人分だけ。エデンさんの分だけで良い」
「お、お前は……何だ? 何なんだ?」
「僕? 僕……は――――」
普段、する事のない行動をする時、人は無駄に力が入る。
けれど今のマルテに無駄な力など一切なかった。
全てを、ぶつけたかった。
「エデンさんの友達だあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
右頬でも左頬でもない。
顔面の中心に向けて、マルテは全身全霊の力を込め、右拳をブチ抜いた。
悲鳴すらあげる間もなく、ハデスの顔面は破壊され、そのまま後ろの壁に激突し、力なくズルズルと落ちていく。
「はあっ……はぁっ……」
たった一度、拳を振り抜いただけで、マルテは息を切らしていた。
この日の為に鍛えてきた拳は、痛々しいほど皮が捲れ、血が流れている。
前歯が直撃した為だ。
「はっ……はっ……ふぅ……」
いつまでも息切れしている訳にはいかない。
本当は、同じ空気を吸う事さえも不快だった。
けれど、落とし前だけはどうしても付けたかった。
「今更改心なんかしなくていいよ。死ぬまで落ち続ければいいんだ」
悪態をつく事に慣れていないマルテは、思った事をそのまま履き捨て、鼻と口から血を流し項垂れるハデスから目を切り、部屋を出た。
「肩が外れてる。力入れ過ぎだ」
廊下で待っていた賢聖――――アウロス=エルガーデンが、半ば呆れたような口調でそう伝えるも、マルテの耳には入っていない。
興奮状態の為、痛みもなかった。
「渋っていたのは事実みたいだが、あの男が最終的に娘を殺すと決めて刺客を差し向けたのは間違いない。お前の見解通りだ。奴が表舞台に立つ事は二度とない。だが……」
一刻も早くあの部屋を、あの男のいる場所を離れたくて、マルテは早足で廊下を歩き続ける。
アウロスはその背中を追いながら、非情な現実を告げた。
「ここまでだ。奴に、娘が受けたのと同じだけの苦しみを与える事は出来ないし、失った時間も取り戻せない。これが俺達の限界だ」
「……だよね」
マルテの足が止まる。
そして、後ろで佇むアウロスに向かって、何かを言おうとした。
あの部屋へ入る為の手筈を整えてくれたお礼。
理不尽な現実に対する怒り。
今の自分に出来る精一杯を叩き付けた満足。
どれでもない。
「けど、お前があの城に行かなかったら、俺達の知らないところでフェアウェル=オーキュナーはひっそりと殺されていただろう。主人格の、姫君……だったか。その子はお前が最善を尽くしたから助かった。お前が今日まで生きて来たから繋がれた命だ」
悔しさ。
それ以外は何もない。
「う……ううう……うっ……うわあああああああああああああああああ……」
マルテはただ悔しくて、悔しくて悔しくて溜まらず、泣き続けた。
泣き叫ぶでもなく、剥がれゆくような声をあげ涙するマルテの全てを、アウロスは理解している訳ではない。
彼が体験した時間全てを知る訳ではないから。
どうしても殴りたい奴がいる――――
自分の元を訪ね、そう告げて来た時のマルテは、アウロスの知る彼ではなかった。
一本しかない腕を失っても良い。
この腕が壊れるくらい殴りつけたい。
そう訴えたマルテの激憤を思い返し、肩が外れる程度で済んだ事に、アウロスは内心安堵していた。
「泣くな。胸を張れ、マルテ」
マルテの頭を撫でながら、そう呟く。
これからもっと成長していくのだろう。
沢山の出会いと別れを繰り返して。
「……大きくなったな」
悔しさの上に、少しずつ違うものが積み重ねられていく。
マルテの静かな慟哭は、この腐り切ったアンフィールド教会を洗い流す雨のように、暫く降り続けた。
――――それは、或る晴れた日の事。
「あたしは本気で信じてるよ。エデンはいつかまた目覚める。君に会う為にね」
別れ際、日記を手渡した姫君は、何処か余所余所しい態度でそう告げた。
まるで遠慮しているみたいに。
「だからその時までに良い男になってあげてよ。賢聖なんて余裕で追い越すくらい」
「それ、結構無茶振りだよ……」
「あはは。そんな頼りない事言ってるようじゃ、まだまだだね」
影のあるその笑顔は、皮肉にも姫君には良く似合っていた。
彼女はいつも、夜を背負っていたから。
「……日記、本当に良いの? 僕が貰っても」
「リリルラから新しいのを調達して貰うから大丈夫。そろそろ埋まりそうだったし」
「そういう事じゃないんだけど……」
「読んであげて。あの子の生きた証だから」
マルテが右手に持つその日記帳は、エデンだけでなく、他の9人の形見でもあった。
それでも姫君は、マルテに持っていて欲しいと懇願した。
まるで、マルテの指に赤い糸を結ぶように。
「それじゃ、元気でね。故郷にいる例の子にフラれたら慰めてあげるから、その時はここにおいでよ」
「……」
「あたしはずっと、ここにいるから」
魔術国家デ・ラ・ペーニャ唯一無二の城。
彼女達の聖域は、マルテにとっても特別な場所になった。
「……うん」
込み上げてくるものを無理矢理抑え、マルテは歩き出す。
次の場所へ向かう為に。
長らく放置していた相棒の馬車馬は、毎日草を食べ続け、寧ろ太っていた。
その姿に半ば呆れながらも、久々の乗り心地に思わず体勢を崩す。
しかしすぐに立て直し、誰の手も借りず、マルテは馬上から姫君に向かって声をかけた。
「姫君」
「何?」
「……エデンさんは、幸せだったのかな」
問いかけるべきかどうか、最後まで迷った言葉。
唯一、正解を知る姫君は、一瞬困ったような表情を浮かべたものの、影を払うかのように銀色の髪を掻き上げ、柔らかく微笑んだ。
「無名の魔術士、だったっけ。あたしの城に昔住んでたのって」
「え? あ、うん。エデンさんにも話したけど、フェーダの一族の祖先なんだ。自律魔術を生み出した人で……」
「ずっと、ひとりぼっちで研究を続けてたんだよね?」
「うん。だけど――――」
――――その魔術士は、それで良いと思っていました。
たった一人でも、誰にも邪魔されず大好きな研究が続けられるのなら、他に何も要らないと信じて疑いませんでした。
けれどある日、彼はふと奇妙な事を思い付いたのです。
別に人間の友達なんて要らない。
でも、この大好きな魔術が友達になってくれるのなら、楽しいんじゃないか?
魔術士は、一生を終えるその時までずっと、そう願って止みませんでした。
すると、その何気ない思いつきは、魔術に意思を持たせるという不思議な力を生み、彼がいなくなった後もずっと、お城の中に残り続けました。
これが、マルテ君から聞いたこの城と私達の秘密。
御伽噺みたいですよね。
きっと、誰も信じてはくれないでしょう。
でも、それで良いんです。
『凄い凄い! フワフワ浮いてボーボー燃えてるから、あなたの名前はフワボーさんです! それからあなたは――――』
私はとっても、とーーーっても楽しかったんですから。
みんな大好きでした。
だから、それで良いんですよ、きっと。
自分がもうすぐいなくなる事、なんとなくわかってました。
自分の事ですから。
楽しい時間が終わるのは悲しいですけど、仕方ないですね。
ここだけの話にしておいて下さい。
最後の10日間、本当に楽しくて、夢のような日々でした。
夢が叶った時間でした。
私は、幸せです。
貴女も、私達にばかり気を遣ってないで、貴女だけの幸せを見つけて下さい。
貴女なら絶対に見つけられます。
もし、貴女の言う事が本当に実現するのなら、きっとその時だと思います。
気長に待っていますね。
エデンより
追伸
その言葉、そっくりそのままお返しします。
それと、好みは似るものですよ。
私があなたであるように。
あなたも私なんですから。
片翼のフェアウェル Fin.




