39 生きた証
体調を崩して三日目の夜。
「マルテ君。日記帳を取って貰っていいですか?」
自室のベッドで寝たままのエデンが少し弱々しい声でそう求めると、傍に椅子を置き座っていたマルテは驚き半分、戸惑い半分といった表情で暫し沈黙し、慌てて頷いた。
エデンの方から進んで自分の日記帳をマルテに触らせるのは初めての事。
恐々と本棚に立て掛けられた日記帳を手に取り、複雑な心境で手渡した。
「ありがとうございます。あ、勝手に読んじゃダメですよ。乙女同士の秘め事ですから」
受け取るエデンの顔は、病人のような顔色ではない。
それでも、マルテには彼女の姿が儚げに映る。
「ペンもお願い出来ますか? 寝てばっかりで特に書く事なかったからサボってたんですが、そろそろ纏めておきたくて」
「うん。書き終わるまで外に出てるよ」
羽根ペンを渡し、マルテはエデンの部屋から出て、扉を閉めると同時に背を預け、天井を見上げた。
微かに重苦しいを覚え、大きく息を吐き出す。
それでも心の底に鎮座する重石は動いてくれない。
理由はわかっていた。
でもそれを言葉にするのは、例え自分しかいないこの場所であっても、到底できそうにない。
エデンが今、姫君からどんな言葉を受け取ったのか。
何を綴っているのか。
どんな思いでいるのか。
孤独ではないのか。
孤独にさせてしまってはいないか。
マルテはずっとそんな事を考えながら、時が経つのを待った。
「――――入って良いですよ」
扉越しに聞こえたその声に、いつの間にか自分が俯いていた事に気付き、思わず顔を上げる。
そして余りに意味のないノックをして、マルテは再びエデンの部屋に入った。
穏やかな顔で、エデンは日記帳を閉じていた。
「これ、本棚に戻して置いて下さい。違う場所にあると、あの子が混乱するので」
「うん」
受け取った日記帳は、先程より心なしか重く感じた。
その重さが、今書いていた文字のインクの重量である筈はないが、マルテはそう思う事にして、所定の位置に日記帳を戻す。
そんなマルテを眺めながら。
普段通りの、何気ない日常会話のように――――
「私、ここまでみたいです」
あまりにもあっけらかんと、エデンはそう口にした。
「ここまでって……何が?」
震えそうになる唇を噛み、マルテは振り返りながら問う。
わかっていた。
わかっていても、聞くしかなかった。
「日に日に魔力がなくなっていくのがわかるんです。魔力の量って普通、変わらないじゃないですか。なのに、特訓で使える魔術の回数がどんどん減っていましたから」
魔力の減少――――
実際にそういう事が起こっているのか、今のマルテにわかる筈もない。
少なくとも通常は、十分な睡眠さえ取れば魔力は回復する。
ここ数日、エデンは殆ど寝っぱなしだが、改善されるどころか悪化の一途を辿っている。
「マルテ君。今までありがとうございました。本当は、もっと早くに出て行くつもりだったんでしょう? 無言の圧力で引き留めちゃいましたね」
「そんな事は……」
「私、楽しかったんです。初めてリリルラ以外の……お友達が出来て。勝手にお友達認定しちゃいましたけど、良いですよね? それくらいなら」
確証はなかった。
間違いないという自信はあったが、それでも確固たる証拠はなかった。
だからマルテは、心の何処かで自分の仮説が誤りであって欲しいと願っていた。
もし本当に、エデンという人格が魔術によって無意識に生み出されたのだとしたら。
無意識に一年という寿命が決められてしまっているのだとしたら。
「後の事は、リリルラにやって貰います。あの子とはずっと一緒にいましたから。嫌々でもちゃんとしてくれると思います。マルテ君は気にしないで、旅を続けて……」
彼女はもう、二度と――――
「……ダメだ」
「え?」
「まだ諦めちゃダメだ! 何か手がある筈だよ!」
そう叫びながら、同時に虚しさを覚え、マルテは思わずその場に崩れ落ちる。
わかっていた事だった。
エデンがいなくなる事は、姫君から聞いていたのだから。
ある日突然、ふといなくなって姫君と入れ替わるかもしれない。
笑顔でお別れを言われるかもしれない。
いろんな想像をしてきた。
その中で、最も辛い想像が現実になってしまった。
今のエデンは、普段の元気な彼女とは程遠く、病人としか思えないほど弱々しかった。
「マルテ君は意外と粘り強いですよね」
けれど、自分を見るエデンの目が、まだ光を灯している。
背けてはいけない。
この目から逃げる訳にはいかない。
マルテは、涙でぐちゃぐちゃになっている自分の顔を袖で擦り、口元を強引に引き締めた。
「だったら、少しお話をしましょうか。付き合って下さいよ」
「……うん。時間なら、たっぷりあるよ。僕は気ままな旅人だから」
エデンは、自分の死を受け入れた。
そしてその最後の時間を、自分との会話に使うと決めた。
そう決めてくれた。
マルテはそのエデンの選択に、歯を食いしばりながら何度も頷いた。
「このお城、最初に見た時はどう思いました?」
「え……そうだね。僕は凄いって思ったよ。フェーダは小さいって言ってたし、普通の城と比べたらそうかもしれないけど」
「そうですか。私もです。気が合いますね」
マルテとエデンでは、この城の意味するところは全く異なる。
少なくともエデンにとって、歓迎すべき場所である筈がなかった。
それでも――――エデンはこの城を誇っていた。
自分の居場所だと。
自分の生きる場所だと。
「私は……自分が何者なのか全然わかっていませんでした。気が付いたらここにいて、何か薄っすらと記憶はあるけどハッキリとは覚えてなくて……でも、ここで暮らす自分を疑問に思った事は一度もありませんでした。不思議ですよね」
エデンの話している内容は、人間にとって現在も全てが解明されている訳ではない未開拓の力『魔力』に関し、極めて示唆に富んだ内容だった。
彼女は魔力そのものなのだから。
魔術士であれば、研究者であれば、一語一句聞き漏らせないほどの金言の宝庫だ。
「エデンさんはこの城が好きだったんだね」
だが、マルテは魔術士ではないし研究者でもない。
魔術的な解釈をするつもりなど毛頭なかった。
今はただ、エデンという"人間"がどんな性格で、どんな事を思っていて、どんなものを好きだったのか――――それだけを覚えておきたいと願っていた。
「そうですね。ここにいれば謎のお手伝いさんが美味しいジャムを持って来てくれましたし、お掃除も洗濯も全部やってくれましたから。楽でした」
「はは……確かに楽だ」
「それに、あの子達もいましたから」
それが、ずっとその存在について口を閉ざしていたフワボー達の事を指しているのは、すぐにわかった。
エデンにとって、彼らは紛れもなく『守るべき存在』であり『守ってくれる存在』だった。
そういう存在をエデンが欲していたのだとしたら、彼らは見事に役割を全うしたと言える。
「きっと……私はあの子達と同じなんですよね」
エデンはもう、自分が何者なのかを見つけていた。
何もかも決壊しそうになる自分に、マルテは一瞬、全て委ねそうになる。
けれど踏み留まった。
最後まで看取ると約束したから。
「ううん。違うよ」
エデンの頭を撫でるように、マルテは右手を添える。
慈しむように、労るように。
「エデンさんはエデンさんだよ。フワボーはフワボーだし、メツブはメツブ。ヴァールはヴァール。みんな違うよ。一括りにするなんてとんでもない」
強い口調で、そう言い切った。
「……でしょうか?」
「そうだよ。だってエデンさん、強烈だったもん。今まで色んな個性的な人達と出会って来たけど、その中でも圧勝だよ」
「だったら……私の事、忘れませんか?」
今までとは少しだけ違う、甘えたような声。
マルテは苦笑しながら、即座に首を縦に振った。
「忘れろって言われても無理だよ。でも、もう少しだけ補足はしたいかな。まだ情報不足なところが沢山あるし」
「なんですか? この際だし、秘密主義は撤廃します。好きなだけ聞いて下さい」
「なら遠慮なく。趣味は?」
「魔術の訓練です。終わった後にスッキリするんですよね」
「特技は?」
「実は掃除です。ここだけの話ですけど、リリルラより上手いんですよ」
「へぇ、意外。リリルラとは仲良かった?」
「向こうはどう思ってるかわかりませんけど、私は好きですよ、あの子の事。毒舌なのも含めて」
「じゃあ、フェーダは?」
「嫌いでしたね。最初から私の事を変な目で見ていましたし」
「あー……妹を重ねてるとかなんとか言ってたっけ。シスコンだったのかな」
時が流れる。
緩やかに、穏やかに。
「何か欲しい物は? ジャム以外で」
「最新の髪油が欲しいです。私の髪、実は艶が今一つなんですよね。ここだけの話、少しコンプレックスなんです」
「え、そうなの? 寧ろ自慢の銀髪だと思ってたよ。こんなに綺麗なのに何が不満なの?」
「……あ、ありがとうございます」
それでも決して止まる事はなく、堅実に、淑やかに。
――――残された時間は過ぎて行く。
「今までで一番楽しかった事は?」
「ジャムを食べる時はいつだって一番です。それには及びませんけど、マルテ君とバルコニーで隠れた時は楽しかったですね」
「一番恐かったのは?」
「……言いたくないですけど、マルテ君達が来た時です。数多の野蛮な男達を恙なく退けてきた実績、本当はないんですよ」
「うん、知ってた」
「え……? バレる要素ありました?」
「そもそも辺鄙な場所だし、人自体滅多に来ないでしょ」
「まあ、そうですね。総大司教の娘の幽閉場所ですから、人が立ち入らないように……していたのかもしれませんね」
「父親の事、恨んでる?」
「そもそも一切の面識がないので……どうでもいい存在です……でもあの子の事を思うと……一発殴ってやりたいですね……」
「わかった。ところで、結局どのジャムが一番好きだったの?」
「選べま……せん……日替わり……です」
声は少しずつ小さく、途切れ途切れになっていく。
マルテは気にも留めない。
この時間を一分、一秒でも長く――――それだけだった。
「夢はあった? 何かしたい事。いつかしたいって思った事とか」
「……恋……です」
エデンはずっと、そう言い続けてきた。
彼女はずっと本音を話していた。
マルテは、それが嬉しかった。
「リリルラが持ってきてくれた……本の中に……あったんです…………」
恋を題材にした物語は世に溢れかえっている。
特にそれを所望しなくとも、本を支給するとなれば嫌でも一冊は混じるだろう。
「素敵な世界……でした……私の知らない……キラキラしていて……眩しくて……」
エデンにとって、その一冊は宝物となった。
「一度で……良いから……恋を……してみたかった…………」
「……」
「ねえ……マルテ君…………今度は……教えてくださいよ…………」
「うん、何を?」
「恋するって……どんな……気持ちですか…………?」
それは以前、マルテが答えをはぐらかした質問。
今日はそうする理由がない。
「えっと……その人の事を考えてるだけで凄くドキドキするし、ハラハラするし、アワアワするし、とっても疲れるよ」
「大変…………なんですね…………」
「うん。苦しい事ばっかりだ」
「でも…………素敵なんですよね…………」
「そう。素敵なんだよね。変だけど」
「変じゃ…………ないですよ……………………」
エデンの声はいよいよ消え入りそうなほど小さくなり、マルテは必死に耳を澄ます。
絶対に聞き逃さないよう。
「……………………マルテ……………………君」
「何?」
「私は……………………私はね…………………………マルテ君のことを………………………」
彼女が生きた証を、最後まで見届ける為に。
「好きに……………………なれ……………………」
――――目を閉じたエデンの声は、そこで途切れる。
最後まで穏やかな顔のまま、静かに眠っていた。
彼女の建てる寝息は、もう彼女のものではない。
煌びやかなその声が、この身体から発せられる事はもう、ない。
「……」
マルテは沈黙のまま、右手でその銀色の髪を撫でる。
彼女の身体を抱きかかえて行くには、腕が一つ足りない。
でも、一緒にいる事は出来る。
目が覚めるまで待てば良い。
名前や口調は違っても、彼女はこの身体の中にいるのだから。
「……おやすみ、エデンさん」
震える声で別れの言葉を告げ、マルテは城の外へと出て、空を見上げた。
夜空でも夕焼けでもない、雨雲も虹もない、ごくごくありふれた青空。
そこに、数多の風景が映る。
この城を訪れて、今日まで過ごしてきた日々の景色を、風が運んで来た。
『そこで何してるんですか!?』
エデンはいつも激怒していた。
『私の炎は活火山!』
いつも活き活きしていた。
『はーっ……楽しいですね。マルテ君のおかげで、今日は朝から元気が出ました』
笑う時はいつも心から楽しそうだった。
――――恋するって、どんな気持ちなんですか?
「……」
思い出は取り留めもなく滲み続け、やがて空をいっぱいにした。
マルテは暫しその景色に身を委ねる。
決して心地良くはない。
苦く哀しい時間。
けれど何処か温かくもある。
エデンがそこにいたからだ。
彼女の明るさがそこにあった証だ。
だからマルテは気兼ねなく浸り続けた。
その、楽園のように美しい風景に、いつまでも、ずっと――――。




