32 別人格
「……それって、姫君が過去に9つの人格を生み出したって事?」
マルテの上擦った声に、姫君は悠然と頷く。
その首肯は、マルテの想定していない真相の確定だった。
一体いつから――――
「エデンさんが主人格じゃなくて、姫君が主人格だったのか……」
そう誤解していたのか。
マルテはずっと、エデンの別人格として姫君が出現したと認識していた。
「あたしが主人格だったのがそんなに意外?」
「いや……というより、先に会ったのがエデンさんだったから、勝手な先入観でそう思い込んでたのかも」
加えて、自らを『幽霊』『亡霊』と表現していた事も、その固定観念を植え付ける一因となっていた。
ただ実際、総大司教の娘という育ちの良さは、エデンより姫君の方に色濃く出ている。
彼女の醸し出す雰囲気は妖しくもあり、何処か上品でもあった。
「……詳しく聞かせてくれる?」
無論、その意思があるからこそ、日記の置いてあるこの部屋に連れて来た訳で、姫君に断る理由はない。
それまでの穏やかな表情から一変、頷くのと同時に口元を引き締め、語り始めた。
己の真相を。
「あたしが初めてここに来たのは11年前。その時は、両親と一緒だった」
11年前――――ちょうどガーナッツ戦争が勃発した時期と重なる。
無関係とも思えないが、今回の本筋とは関連しない事なので、マルテは話を腰を折らず黙って続きを聞く事にした。
「その時は、特に何も変わった事はなかったよ。フワボー達もいなかったしね。でも家に帰ってから、あたしの中にもう一人のあたし……別人格が急に現れたんだ」
姫君は、当時の事を切々と話した。
最初は『昨日はどうして夜中に部屋を出て走り回っていたのか』『勝手に厨房に入って食べ物を取っていくのはやめなさい』など、自分が記憶していない事を両親や周囲から注意され、理不尽に感じていた。
そしてある日、自室の日記帳に『私が誰だかわかる?』と書かれていた事で、子供ながらに姫君は自分とは違う自分が存在している事に気付く。
彼女には名前はなかった。
だから姫君が『カナン』と名付けた。
愛読していた小説のタイトルから付けた。
カナンは悪戯っ子で、しかも野性的で、当時絵に描いたような優等生だった姫君とは完全に別人だった。
怒られれば反抗し、執拗に攻め立てられれば歯茎を剥き出しにして威嚇した。
その姿が、両親達には『憑き物』に映った。
何人もの霊媒師を連れて来てお祓いを試みたが、当然のように上手くはいかない。
当初は夜間だけだったが、寝不足の翌日や体調の悪い日などは昼間にも豹変するようになった。
姫君は次第に頻度を増すカナンの出現を、心から歓迎していた。
初めて出来た友達だったから。
当時、姫君にはたった一人の友人も、心を許せる同世代の子供もいなかった。
だから彼女にとって、カナンは唯一無二の存在だった。
けれど出現から一年が経過したある日、カナンは突然消失した。
何の前触れもなく突然。
姫君は嘆き悲しんだが、両親は安堵した。
ようやく娘がまともな状態に戻ったと。
しかし、長くは続かなかった。
新たな人格が現れたのは、カナン消失から20日後の事だった。
グリと名付けられたその人格は、姫君ともカナンとも違い、常に凶暴極まりない危険人物だった。
まるで、姫君の慟哭をそのまま具現化したかのように。
グリの出現が決定打となり、総大司教の娘フェアウェルの隔離および幽閉が決まった。
第五聖地における最高権力者にとって、娘の存在は最早『自分に恥をかかせる異分子』でしかなかった。
世話係には、『枢軸殺し』で落ちこぼれて流浪の身となり、教会に拾われ給仕の仕事を習っていたリリルラが担当する事になった。
裕福だった暮らしから一変、山奥に殆ど一人で生活する事になった姫君だが、親を恨む事はしなかった。
まるで城のように造り替えられたとはいえ、山奥の"あの建物"に軟禁場所を指定した自身の要望を受理してくれたからだ。
自分がまともじゃなくなっているのは自覚していたし、子供ながらに自分が邪魔者なのは理解していた。
姫君にとって、総大司教の娘としての立場や暮らしには未練などなかった。
寧ろ気兼ねなくグリと意思の疎通ができる事を楽しみに思っていた。
総大司教の屋敷を離れたグリは、荒々しさこそ変わらなかったが、凶暴性は一気に鳴りを潜めた。
一方、彼女は強さを欲し、その重要性を姫君に説いた。
一人でも生きていける強さを身に付けなければならないと。
そのグリも出現から一年、住居を城に移して間もなく消失した。
彼女の場合は、その予兆のようなものもあったし、カナンの事もあった為、姫君もある程度は覚悟できていた。
それでも、お別れは悲しく辛いものとなった。
約10日後、三人目の人格が出現した。
姫君はその子をエリュと名付け、カナンやグリ同様に日記を付けるよう促した。
そして同時に、自分専用の日記もリリルラに用意させた。
彼女達は大切な友達で、かけがえのないパートナー。
でも、本当はわかっている。
自分自身である事は。
姫君は自戒する。
もしそれを忘れ、他人として認識してしまったら、必ず嫌いになってしまうと。
フェアウェルは――――自分が大嫌いだったから。
両親への自分の期待は、幼心に感じ取っていた。
けれど、その期待に応える事は出来なかった。
思い通りにいかず落胆する両親の姿を見る度に、自分が嫌になった。
姫君と名乗るようになったのは、そんな自分を変えたかったから。
華やかで、煌びやかで、誰からも羨望の眼差しを向けられる『姫』になりたかった。
それに、本名を名乗れば主人格と交代人格との間に格差が生まれる。
彼女たちを対等の友だと思っていた姫君にとって、それは決して本意ではなかった。
どの別人格も、姫君の考えを尊重してくれた。
彼女たちは決して姫君を裏切らず、関係は良好。
それだけに、一年経つと必ず離別してしまうのは苦しかった。
だが、六人目の人格『カディア』は違った。
彼女は初めて、姫君に対して反抗的な姿勢を示した人格だった。
当初は困惑した姫君だが、次第に彼女との言い合いが生き甲斐の一つとなった。
そこでようやく気付く。
長らく甘やかされてきた自分は今、否定される事を望んでいたのだと。
自分が生み出した人格である以上、そこには常に自分の理想や願望が反映されている。
姫君はそう理解し、同時に自分と彼女たちが同一の存在である事を忘れていた自分に気が付いた。
一年に一度、友達を得るこの暮らしは楽しい。
けれど一年に一度、必ず死別しなければならないのは辛い。
姫君は、新たな願いを抱くようになった。
一年以上、一緒の時間を過ごせる友が欲しい。
一人じゃなく、何人かで和気藹々と暮らしたい。
それを邪魔する者を追い返す力を得たい。
そう願い続けて――――
「……ここまで生きて来たんだ」
最後まで、姫君の感情は制御されていた。
自分語りとは思えないほど客観性を帯びた語り口調で、柔らかく、穏やかに。
「あたしのこの人生についてマルテ、君の見解を聞きたい。率直にどう思った?」
彼女がどんな言葉を欲しているか、マルテはなんとなく理解していた。
彼もまた、ずっと一人で生きて来たから。
友や仲間を欲していたから。
「良い人生なんじゃないかな」
だから、決して皮肉でもなければ下心もない。
寄り添おうという意思も、突き放そうというサドッ気もなく、純粋にそう答えた。
「……。そっか。そういう感想か」
拍子抜けしたような、それでいて何処か嬉しそうな顔で、姫君は笑った。
「で、エデンさんが10人目の別人格で、もうすぐ出現から一年が経過する……って事か」
「これまでの経験上、彼女はそう遠くない未来、完全に消失する。そして二度と現れない」
既に9度も経験してきただけに、間違いはないと断定する姫君の目に憂いはない。
それは、彼女が少しでも心の負担を和らげるため無意識に身に付けてきた対処法なのだと、マルテは感じていた。
「でも……どうして別人格が出現するようになったのかな。きっかけはここに来てからなんだよね?」
「そう。だから幽閉するのならこの場所にして欲しかった。あたしなりに自分の状態を把握しておきたかったから」
ただの偶然か、それとも必然か。
姫君はその答えにまだ辿り付けていない。
だから、マルテは自分の見解を言うべきかどうか迷っていた。
彼女の人生を左右しかねない、一つの可能性。
それを提示するのは、姫君の人生に責任を負う事でもある。
何処まで踏み込んで良いのか。
踏み込むべきなのか。
もし踏み込んだら、別の女性に対し無責任ではないのか。
「……そもそも、責任を取るような関係でもないけどね」
「ん? 何が?」
「独り言。自虐的な独り言だよ。はは……」
渇いた笑いと共に、マルテは勝手に決め付けた。
好きな女性がいるのなら、他の女性に優しくすべきではない――――なんてのは恋愛脳の戯言だ。
必要な優しさは絶対的に存在して、それを放棄するのは律儀でも貞操観念の遵守でもない。
ただの人でなしだ。
きっとあの人ならそう言うだろうと。
「姫君。もしかしたらエデンさんは……そして今まで君が生み出してきた人格は、魔術かもしれない」
「……え?」
「自律魔術。自分の意思を持った魔術……それが姫君の心とか精神、それと……魔力に働いて、別人格って形で棲み着いているのかもしれない」
マルテの大胆な推論に、姫君は珍しく眉間に皺を寄せた。




