31 消失
ガルフェロイの奇襲とも言える来訪から一夜明け――――マルテは寝ぼけ眼でテントを出て陽の位置を確認し、しばらく愕然としていた。
「……また失態だ」
既に昼食の時間帯に迫ろうかという位置。
完全に寝過ぎてしまった。
現在、エデンの根城はいつどの時間帯に敵襲があっても不思議ではない状況下。
深く眠るのは、それだけで命取りになりかねない。
危機を切り抜けた事への安堵?
蓄積した疲労の悪戯?
理由は幾らでも発見できる。
それだけに、情けなさばかりが心を小突く。
マルテにとって、それは決して初めての経験ではなかったが――――
「成長したと思ってたんだけどな……」
心中でそう嘆くくらいには過去の話だった。
強くなったと烏滸がましく口走る真似は出来ない。
けれど、自立しつつあるという期待感は堂々と持っていた。
マルテには自分を厳しく指導してくれる存在がいない。
叱咤してくれる者も。
だから言葉の刃物で傷つけられる経験は然程なく、空気でいたぶられてきた。
その半分は、自分自身が作った空気でもある。
劣等感は常に、自分を磨り減らす。
――――結局、さ。
左腕がない事を自分への言い訳にしているだけじゃないの?
だからいつまで経っても成長しないんじゃないの?
その所為にばかりして生きてきた僕に、本当の意味での自立なんて不可能なんじゃないの?
まして、他人の役に立とうなんて――――
「だーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
寝起きの目が血走るほどの大声。
身体全体の血流が活性化するような実感を伴い、マルテは火照った身体をしかめっ面で掻き毟った。
右手だけでも十分に可能だ。
薄暗い思考は定期的に浮かぶ。
そういう時は恥も外聞もなく大声をあげれば、意外とやり過ごせる。
経験上、それはわかっていた。
そしてその度に、心の中でこう呟く。
「いいんだよ、自分を疑ったって。考古学者ってそういう職業なんだから」
歴史的価値の高い遺跡を巡り、資料価値の高い文献を読み漁り、誰も見つけられなかった過去を探す。
昔の研究者や考古学者の価値観を信頼して有効利用しているのに、やっている事はそんな彼らの粗探し。
こんな皮肉な職業はない。
だからこそ、マルテは自分に向いていると思った。
誰より自分を卑下し、それでも自分に期待しているから。
そこに矛盾はない。
ないから、自分を一個の人間だと認めてくれた人達がいる。
「……よし!」
両頬を右手でペシペシと叩き、今日一日分の活力を確保する。
そして、改めて現状の理解に努めた。
昨夜、フェーダは定期報告があるとの事で、一旦城から離れ教会へ向かった。
庭に留めていた黒馬は、幸いにも周辺の生草と水で健康状態を維持していた為、移動手段に支障はない。
リリルラも同じく教会へ一度戻っている。
その為、現在城内にはエデンとフワボーら自律魔術しかいない。
本来なら見張りぐらいするべきだが――――
『敵襲があって、君が待ち構えていたとする。戦闘力のない君は為す術なく殺される。そこに残るのはあたしの動揺だけだよ?』
姫君のあまりに切ない正論によって、マルテは一人テントで就寝する事になった。
それでも通常通りに起きて、エデンの無事を確認するのが男としてのせめてもの――――
「……せめてもの、何なんだろね」
色々と考えるのを止め、マルテは城内へ向かう事にした。
城の内部に特別な変化はなく、襲撃者が現われた痕跡は何処にもない。
だがマルテは奇妙な違和感を覚えていた。
それは決して、実感を伴うような違和感ではないし、俗に言う『嫌な予感』ではなかった。
ただ、何かが違う。
何かが足りない――――そんな不思議な欠落感だった。
そしてそれは、目的地であるエデンの部屋に着く前に、二階の廊下で彼女と遭遇した瞬間に判明した。
「どうして……こんなの今まで一度も……」
明らかに動揺した様子で、エデンは何度も周囲を見渡している。
その傍にいない。
三体の自律魔術が。
「エデンさん」
「あ……」
マルテに気付いたエデンの行動は、凄まじく迅かった。
「あの子達がいないんです!」
マルテは一瞬――――自分が疑われると想定した。
胸ぐらを捕まれるか、最悪魔術を放たれるか、そこまで考えた。
だが、エデンの選択した行動は、マルテに涙目を向ける事だった。
不思議だった。
それだけの、ごく普通の出来事に、マルテは自己肯定感を得た。
「どこにいったのでしょうか……私の傍から勝手にいなくなるなんて一度もなかったんです」
「勝手に……って事は、エデンさんの意思次第でいなくなる事はあったの?」
「はい。私が一人になりたいって思った時は、自然と離れてくれますから」
「今回は違うんだよね」
「そう……ですね。そんな気持ちになっていた自覚はありません」
やや曖昧ながら、エデンはそう断言した。
今までにない事が起こった
ならそれは、今までにない事が引き起こしたと考えるのが妥当だ。
すなわち、昨夜の出来事。
ガルフェロイの訪問と結びつけるのが最も合理的と言える。
なら、考えられるのは――――
姫君が、ガルフェロイや魔術士ギルドの目的を『フワボー達の捕縛』と判断し、何処かに隠した?
だがこれは考え難い。
もしそう判断していたのなら、マルテにあらかじめ話していただろう。
それくらいの信頼関係は築けている自負がマルテにはあった。
ある程度は予想の余地がある。
けれど確信を持てるほどの材料はない。
とはいえ、エデンを不安なままにしておくのは忍びない。
マルテは熟考したものの――――
「多分、姫君が隠したんじゃないかな」
結局これという理由を思い描けず、応急処置的な返答をするしかなかった。
「あの子が……? どうしてでしょうか?」
「危機感をエデンさんに知らせる為、かな。昨日、キャルディナの代表が来たの知ってるよね」
「はい。なんか色々バレバレで大変だったみたいですね」
「うん。だから、いつ本当にフワボー達とお別れするような事態になるかわからないって、君に実感して欲しかったんだよ。きっと」
かなり苦しい言い分なのは自覚していたが、マルテはそれで押し通す事にした。
実際、危機的状況なのは事実。
当初予定していた邪術を偽っての時間稼ぎが不可能となった今、そう遠くない未来、エデンは選択を迫られる事になる。
このまま城に残り、実の父によって殺されるか。
フワボー達と別れ、城から脱出するか。
或いは、可能性は極めて低いが――――この城が魔具というマルテの推論を信じ、魔石を探すか。
「だと……良いのですが」
エデンは不安な面持ちで、マルテの気休めでしかない見解を受け入れた。
今はそうするしかなかった。
「ところで、エデンさんと姫君の意見は同じなの?」
姫君は、フワボー達と共に生き延びたいという意思を表明した。
だがエデンの口からは明確な意思表示がなされていない。
両者が日記を使ってそれぞれの考えを把握しているのは了解済みだが、それはあくまで考えを知っているというだけの話であり、見解が一致しているとは限らない。
「私は――――」
彼女は確かに答えようとした。
考えを、意見を、願望を、未来を――――自分の意志を話そうとしていた。
「……あ」
けれど次の瞬間、その言葉はなくなってしまった。
何処にも、なくなってしまった。
「エデンさん? どうしたの?」
余りにも唐突に。
「マルテ」
その声はエデンであってエデンではない。
姫君の声だった。
「姫君……?」
「ごめんね。エデンは……眠ってしまったみたい」
「え? いやいや、今話をしてる最中だったよ? それにまだ昼間だし。眠くなるような時間帯じゃないよね?」
「うん。どうやらもう、時間はそう残されていないみたいだ。本当は昨日話すつもりだったけど……邪魔が入ったからね」
会話が噛み合わない。
マルテはどうしていいかわからず困惑の表情のまま固まってしまい、それを見る姫君は――――ひどく悲しげだった。
「マルテ。あたしは君を信じている。ここまであたしと向き合ってくれたのはリリルラと君だけだ。だから……あたしの事も信じて欲しい。これから話す事は全部真実。どうか、そう受け止めて欲しい」
彼女はいつだって余裕綽々だった。
でもそれが虚勢なのは、もう知っている。
マルテは、異常に喉が渇いているのを自覚しながら、沈黙のまま首肯した。
「エデンはもうすぐ死ぬ」
唐突な、到底受け入れ難い言葉。
エデンの死を断定的に口にした姫君の顔は、不安でも恐怖でもなく――――苦渋だけが滲んでいた。
姫君とエデンは同一人物であり、エデンの死は姫君の死を意味する筈なのに、彼女が浮かべる辛さは、まるで他人の事を話しているようにマルテには映った。
「こっちで話そうか。その方が都合が良い」
どう反応すれば良いかわからず途方に暮れていたマルテを尻目に、姫君は返事も待たず歩き出す。
彼女が向かったのは、自身の部屋の隣だった。
マルテはその部屋に入りながら、彼女の意図を半分だけ理解した。
ここへ来た理由、それは――――
「日記……?」
「そう。やっぱり、ここで見つけ出していたのは君だったんだね」
思わず口に出てしまった言葉が、姫君にとっては確証だったらしく、ニッと微笑む。
そこに悲壮感は見当たらない。
ますます不可解となった彼女の言動に、マルテはただ翻弄されるばかりだった。
「日記帳は二冊あるんだ。一冊は、あたしとエデン達が自分の日常をそれぞれ綴る為の共用。そしてここに隠してあるのは、あたし専用の日記帳なんだ」
かつてマルテがこの部屋で発見したベッド下の床から、姫君は一冊の日記帳を取り出した。
専用と言うだけあり、その手に馴染んでいる。
「盗み見がバレないよう綺麗に戻したつもりだったんだろうけど、汗が一滴、この頁に落ちてシミになってたよ」
「あ……」
読んでいる最中に冷や汗が滲んでいたのは自覚していたマルテだったが、相当慌てていた為、滴り落ちていた事には気付けなかった。
「ご、ごめん……権利書の調査中に、如何にもって感じの書物が隠れてたから、つい……」
「怒ってはいないよ。見なかった事にしたくなるのも、わからなくはないからね」
そう呟く姫君の顔は終始穏やかで、何処か消え入りそうにすら見えた為、マルテは思わず右腕を前に付き出そうとした。
自分でもその衝動の理由はわかっていない。
ただ、今の姫君――――フェアウェルが、別の世界の人間に見えて仕方なかった。
「これに書かれてた内容の意味、理解できた?」
「全然。覚えてるのは……『あなたでちょうど10人目』とか『もうすぐあなたは死ぬ』とか、ちょっとホラーじみた……」
そこまで口にして、マルテは息を飲む。
『もうすぐあなたは死ぬ』
その文章が頭の中に浮かび、背筋が凍る。
「まさか……」
一瞬、それがエデンへの死の宣告かもと邪推しそうになったからだ。
だがすぐに、この日記が姫君専用なのを思い出し、マルテは思わず口元を右手で覆った。
「それはね、準備っていうか……練習みたいなもの。あたしが自覚する為の戒めでもあるけど。現実を受け止めないといけないから」
淡々とした口調で、姫君は答えを語る。
「……どういう事?」
「エデンの死は確定しているから、あたしはそれを受け入れないといけない。でも、中々それは難しい事なんだよ」
「どうして確定してるってわかるの? 姫君は何を知ってるのさ!」
姫君の真意を全く掴めず、マルテは思わず語調を強めてしまう。
しかし、それでも姫君の何処か達観したような顔に変化は見られなかった。
「10人目。この意味がわかるかい?」
「……わからない。この『あなた』がエデンさんを指してるのなら、エデンさんが10人目って事?」
「その通りだよマルテ」
――――瞬間、マルテの全身に痺れるような寒気が駆け巡った。
「エデンはね、10人目の『別のあたし』。過去に9人、あたしは違うあたしを生み出して来た。そして全員……生まれて一年でいなくなって、二度と現れなくなった。死んだんだ」
そして、姫君の述懐にただ呆然と立ち尽くすしかなかった。




