30 収穫
張り詰めた空気が、室温を急激に下げる。
――――そう錯覚させるほどに、ガルフェロイという老人の醸し出す戦禍の臭いは濃厚だった。
実際に下がったのは室温ではなく体温。
マルテの身体は完全に制御を失い、意識さえも朦朧としていた。
それでもどうにか持ちこたえ、その場に留まり続ける。
紛れもなく、過去の経験が生きた瞬間だった。
かつて――――マルテは第一聖地で行われた教皇選挙という名の教皇争奪戦に巻き込まれ、心ならずも修羅場をかいくぐってきた。
その過程で、人を殺す事や支配する事に躊躇いのない、禍々しい人間とも何度か対峙してきた。
それなりに臭いに敏感になるのは、自然だった。
「理由ね。一言で言ってあげる。信用できないから」
一方、姫君はというと、やはり平常心とは言い難い表情だった。
口調こそ、いつもの挑発的で怖いもの知らずといった彼女らしさに溢れたものだったが――――堅い。
気圧されているのはマルテの目からも明らかで、ガルフェロイが気付かない筈がなかった。
「ふむ……一応、信頼を得る為に私め自ら馳せ参じた次第なのですがね」
「それは感謝してるよ。こんな辺鄙な所まで足を運んでくれてありがとう。でもさ、きっとそれくらい、なんて事ないんじゃない?」
刹那――――ガルフェロイの護衛として室内で待機していた二人が顔色を変える。
主が侮辱されたと判断し、瞬間的に鋭い眼光を姫君に向けた。
「よい」
手を挙げる事さえなく、ほんの僅かな言葉でガルフェロイが殺気を制する。
それ以前に、護衛が感情を爆発させなかった事自体、この老人の抑止力によるもの。
自分の指示なしに勝手な行動は許さないと徹底している証だ。
「さっきの口振りからして、あたしの出自は知ってるよね? だったら、きっと君達には美味しい御馳走に見えるんだろうね、あたしは。人間、上等な料理を食べる為なら何処までだって行くよ」
「……」
ガルフェロイの口元が微かに弛む。
蛇が獲物を前にして、舌を出すかのように。
「貴方たち魔術士ギルドは、教会に強い恨みを持っている。そんな人間が、元凶たる総大司教の娘を見逃すなんて思えるとでも?」
「現にこうして平和的に話し合いをしているではありませんか。処罰感情を表に出すならば、今頃貴殿も隣の少年も取り押さえていますよ。数の暴力をもってね」
「あたしに利用価値がある内は大事にしなきゃってだけでしょ? 教会を出し抜いて用済みになったら即座に始末するつもりなんじゃないの?」
「ご冗談を」
あくまで柔和な姿勢を崩さないガルフェロイ――――だが、始末しない理由は述べなかった。
なら、この話し合いは姫君の勝ち。
彼女の見解が正しかったという事になる。
尤も、交渉決裂となると本格的にギルドと敵対する事になる。
ただし、リリルラの話ではギルドも一枚岩ではない。
このままではギルドと敵対してしまう――――そんな認識で、マルテは両者の駆け引きを眺めていた。
「それに、こっちはギルドを信用できない理由がもう一つある」
「ほう。お伺いしましょう」
「前に一度、そちらさんのギルド員に襲撃を受けてるんだよ、こっちは」
姫君はここで、鍵となるカードを切った。
マルテは敢えて口は挟まず、ガルフェロイの反応を待つ。
彼は――――
「一度……ですか」
そこに引っかかった。
そしてそれは、マルテにとって僥倖だった。
姫君の発言は誤りだった。
正解は"二度"。
だが二度目――――リリルラが退けた際の襲撃については、彼女は一切知らされていない。
なので間違い自体は仕方ない事だが、問題はガルフェロイの反応。
『一度ではないのですがね』という心の声が聞こえてくるほど、表情に考えが出ていた。
姫君の様子から、ガルフェロイは姫君だけでなくマルテを含む関係者全員が事情を把握しきれていないと判断した。
だから気が緩んだ。
実際には、把握していないのは姫君だけだった為、事情を知るマルテは容易にガルフェロイの思考を読む事が出来た。
姫君と情報の共有をしていなかった為に起こった偶然の収穫。
その意味するところは決して小さくない。
ガルフェロイは、ギルド員によって行われた二度の襲撃を、両方とも詳細に把握している。
一度目はともかく、二度目は教会に雇われた連中であり、しかも全員リリルラが返り討ちにして遺体は彼女が埋葬している。
にも拘らず、その襲撃を彼が把握している理由は一つしかない。
ギルドを裏切っているのは――――その長だった。
少数派による反乱だと決めてかかっていただけに、マルテは動揺を隠せずに思わず息を飲む。
キャルディナのギルド長が教会の指示に従って刺客を送ったという事は、ギルドごと教会の傘下に入る用意があるか、ギルドを捨てて自分だけ教会に移籍する意志がある証。
もしマルテの見解が正しければ、教会と魔術士ギルドの関係性を根底から覆しかねない凶兆だ。
「敵の敵は味方……というほど単純でないのは理解しております。だが貴殿にとっても切迫した状況の筈。我々の支援なしに、父君と教会から逃れられる算段はおありですかな?」
自身の反応がマルテに悟られているなど知る由もないガルフェロイは、交渉を継続しようと粘り強く食らいつく。
しかしその姿勢も、教会と裏で繋がっている事がわかった今、演技でしかないのは明白だった。
もし二度目の襲撃後のあの場面に出くわさなければ、マルテが彼の表情の変化に気付く事はなかっただろう。
紛れもなく幸運であり、偶然の結果。
しかしこれを活かさない手はない。
「逃げる必要はありませんよ」
声は微かに震えていた。
それでも、まだこういった場数を余り踏んでいないマルテにとっては上出来とも言える介入のタイミングだった。
「ほう……? 少年、その理由をこの場で言えるかね?」
「別に大した話じゃありません。教会に知り合いがいるから、いざって時にはその人を頼るってだけです」
「その知り合いとは何者かね?」
「教える訳ないよね。こっちはとっくに交渉決裂って言ってるんだから。今のこいつの発言も、わざわざお越し頂いた事へのあたし達なりの敬意だと思って欲しいね」
マルテの意図を、姫君は完璧に汲み取った――――かというと、そうではない。
マルテの発言がこの対談を終わらせる為のブラフだと考え、話を合わせたに過ぎない。
結果として、以心伝心のような雰囲気が生まれ、マルテの話に信憑性が生まれた。
「ならば……話し合いはこれまでですか」
「長居させちゃったかな?」
「いえ、有意義な時間でした。何より幽霊騒動の城に直接来た事に意義がありました」
「幽霊なんて信じてるんだ。意外とロマンチストなんだね。正体がわかってガッカリしたんじゃないの?」
「ほう。正体をご存じで」
「何惚けてるのさ。あたしに決まってるだろ? あたしがここにいるのを知らない奴等が勝手にあたしを幽霊扱いしてるだけ」
「であれば、火の玉の目撃情報とは矛盾しますね」
「あたしは魔術士だよ? 炎くらい簡単に出せる。特訓もしてるしね」
軽口の応酬のようなやり取りが続いた後、ガルフェロイは鼻で笑うような息を吐き、まるで年齢を感じさせない若々しい所作で席を立った。
護衛の二人も慌てる様子など微塵もなく、入り口の両側に立ち退室しようとするガルフェロイの為に道を空ける。
「この国でなければ通る理屈だがね。生憎、この魔術国家の住民は魔術を見慣れている。火の玉を見れば、誰もが炎の球体をイメージするであろうな。ふふふ……」
応えを待たず、ガルフェロイは応接室を後にした。
敬意の必要なしと判断した言葉遣いを残して。
人気がなくなったその空間に、暫しの沈黙が流れ――――
「はぁ……死ぬかと思った」
馬車が立ち去る音が遠くなり、やがて聞こえなくなった頃合い、マルテがその場にへたり込んだ。
「リリルラ。もういいよ」
「もう終わったか。意外と早かったな」
応接室の天井から――――リリルラが降ってくる。
彼女はずっと天井裏に隠れていた。
万が一ギルド員が姫君に攻撃しようとしてくるなら、ガルフェロイに不意打ちを仕掛け人質に取る為に。
そしてそれは偶然にも大正解だった。
ガルフェロイが教会と繋がっているのなら、リリルラの顔を知っている可能性はあった。
もし彼女を視認される場所に配置していたら、ガルフェロイはより警戒色を強めていただろう。
姫君の過誤に対してさえも隙を見せなかったかもしれない。
もしそうなっていたら、マルテが彼等と教会の関係に気付く事は決して出来なかっただろう。
「で、どうなった? 声は聞こえてたけどイマイチ何がどうなったのかわからん」
「あたし達の勝ちだよ。ね? マルテ」
「うん、凄い収穫があったよ。まさかギルド長が教会と組みたがってるなんてね」
「……え? 何それ、どういう事?」
姫君がガルフェロイと教会の癒着に気付く筈もなく、突然しれっと告げられた真実に慌てふためいている。
マルテはそんな彼女の狼狽がおかしくて、苦笑しながら説明を行った。
最終的に、姫君は満面の笑顔を浮かべていた。
「今、ちょっとだけ未来が見えた気がする」
不思議な事に、その言葉は姫君のものでありながら、エデンの言葉のようにマルテは感じていた。
時間稼ぎが可能になったからといって物事が前に進んだ訳ではない。
フワボー達をこの城から出す為の方法が見つからなければ、進展したとは言えないのだから。
「マルテ」
それでも、姫君が笑顔になったのは――――
「交渉に割って入って来てくれて、ありがと。助かった」
マルテが自分の危険を顧みず共闘してくれたからに他ならない。
「え? あ……うん。事前の打ち合わせが全く出来なかった割に、上手くいったよね」
「息ピッタリだったよ。案外あたし達、相性良いのかも知れないね」
「いや、それはどうかな……」
「ふふ」
今の姫君には妖艶さはない。
寧ろ子供のような無邪気さが、彼女の表情の大部分を占めている。
ずっと彼女を見てきたリリルラが目を見開き後退るほど――――
「……フェアウェル様が狂った」
「やだな、何言ってるのリリルラってば。あたしはいつも通りだよ」
「こんなフェアウェル様見た事ない。浮かれてる。浮かれ過ぎてなんか気持ち悪」
「酷い言われようだね全く」
完全に引いているリリルラを目の当たりにしても、姫君の態度は変わらない。
その様子に、マルテさえも若干引いていた。
「でも高揚してるのは認めるよ。こういう経験今までなかったからさ。いつもずっと、押さえ付けられるだけの人生だったから」
「姫君……」
「だからスカッとしたし、助けられて嬉しかった。こういう経験をもっとしたいね」
「……出来るよ、きっと。ここを出て普通の暮らしをすれば。嫌でも人と関わるし、嫌でも助け合わなくちゃ生きていけないから」
マルテもまた、そうだった。
だから彼には今の姫君の高揚感も、感謝の気持ちも余りに理解できてしまい、くすぐったい心情を抱いていた。
「でも、少し懸念材料もあるよ。あの老人、何処まで真相に迫ってるのか……」
「相当なところまで把握していると断言してもいい」
「……フェーダ」
リリルラと同じ理由で、彼もまた応接室からは離れていた。
負傷を抱えているため戦闘要員としては数えられず、リリルラとは役目が違っていたが。
「半信半疑の段階でギルド長がここを訪れるほどの余裕は、今のキャルディナにはない。情報解析班に人員を集中させているだろうな」
「さっきここで話した限りだと、ガルフェロイは教会にすり寄ってると思うんだ。フェーダはそういう話聞いた事ない?」
「そのような情報は入ってないな。それは確実な話なのか?」
「裏は取れてないけど、心証的には間違いないよ。姫君を亡命させるって提案されたけど、どう考えても姫君を手中に収める為の謀略だと思う。ギルド長が直接来たのは信じ込ませる為と……邪術が本当にないって事を確認したかったのかも」
姫君との対話で、邪術の存在を確認。
もしありそうなら、交渉して入手し、教会に対抗するか――――若しくは『上納』する。
ガルフェロイの目的が何であれ、邪術を入手しておいて損はない。
そして邪術がないと判断した場合は、姫君に亡命を持ちかける。
実際、ガルフェロイはそちらを選択した。
これらの判断を行うには、洞察や交渉に長けているだけでなく、細かな状況判断が必要となる。
最も信頼できる人物に任せるべき大仕事だ。
故に、自らが担当した。
発言の端々に自信と矜恃を漲らせていたガルフェロイならば、そういう判断を下すだろうとマルテは結論付けた。
「理屈はわかった。だが、決めつけは良くないんじゃないか?」
「……うん。わかってる」
実際、確信を得ている訳ではない。
フェーダの言うように、慎重になるに越した事はない段階だ。
まして、当初マルテが立てた『邪術で騙す』という計画は早々に瓦解してしまったのだから。
「ギルドとの戦い方を練り直さないといけないね。フェーダ、協力して貰える?」
マルテの瞳に、今までにない光が宿る。
その様子を暫し眺めたフェーダは、ゆっくりと口元を手で覆った。
「……わかった。やろう」
その口がどんな形を作っていたのか、マルテには知る由もない。
彼がどんな思いで、この依頼を受けたのかも。
ただ、彼の言う言葉には一理あった。
決めつけは良くない。
その通りだ。
「マルテ」
それ故に――――
「あまり……自分を信用するな」
踵を返したフェーダのその言葉にも、動揺する事はなかった。




