22 眠れない夜
マルテにとって、その日の夜は不思議な感覚との戦いだった。
眠れない。
眠れない理由がわからない。
それは初めての経験だった。
夜、眠れずに悶々と過ごした事は何度もある。
既に痛覚が麻痺した筈の、左腕の欠損部の疼き。
将来への悲観から来る失望感と絶望感の共闘。
言いようのない虚無感。
元暗殺者の女の子への溢れ出る想い。
理由があれば、眠れない夜も恐くはない。
最初は困惑しても、押し潰されそうになっても、いつの間にか薄まっている。
しかしこの日、マルテを襲っていたのは漠然とした浮遊感だった。
特定の何かに対し、不安を抱いている訳ではない。
不安そのものは数多あるが、今に始まった話ではないのだから眠れない理由とはならない。
ただ、余りにも曖昧模糊とした感覚が不気味なほどに膨らんで、違和感を形成している。
そんな感覚に翻弄され、マルテは結局眠るのを諦めた。
そうなると、夜明けまでの時間をどう過ごすか――――それを考える楽しさが芽生えてくる。
人間は現金なもので、ふとした事で心の色をガラリと変える。
マルテは己の浮き沈みが激しい人生経験から、それを学び取っていた。
時間は有限。
無駄にする手はない。
きっとあの人なら――――アウロス=エルガーデンならそう言うだろうなと、テントの天井を見上げながら笑う。
魔術発動におけるルーリング作業の短縮化・高速化・自動化を実現させた研究者。
年齢はマルテよりも5つほど上だが、精神年齢は遥か彼方。
少なくともマルテは、最初に出会った時の彼にさえ追いつける自信が未だになかった。
現在、その研究者はデ・ラ・ペーニャにおける最高峰の称号『賢聖』を冠し、国内を飛び回っている。
目的は不明。
教皇の指示なのか、自身の意思なのか、それさえもマルテには知らされていない。
一緒に働きたい、という気持ちはずっと持っていた。
ただその為には自分が一人前にならなくてはならない、でなければ賢聖と並び立つなどあり得ないとも思っていた。
そもそも、並び立つという事自体が不可能とも。
ならせめて、恩着せがましくとも何か役に立てれば――――そんな思いで考古学の道を選んだ。
オートルーリングという発明のもたらした弊害を取り除き、『僕だってアウロスのお兄さんのフォローくらい出来るんだよ』と言ってのける。
それを実現させれば、少なくとも彼をとりまく輪の中にくらいは入れるんじゃないかという、切なる願いもあった。
半人前という自覚は常にある。
もう半人分を足して一にするには、成し遂げたと自分を納得させるような形あるものが要る。
マルテにとってはそれが、先程のアウロス=エルガーデンへの渾身の一言であり、それに対する彼の返答だった。
もし実現したら、アウロスは何を言ってくれるだろうか。
それを知ったフレアがどんな顔をするだろうか。
――――そんな想像ばかりをして、この二年を生きてきた。
心の中には常にその未来がある。
当然、単なる空想の産物に過ぎない風景であって、過去に記憶した人々の顔や姿を元にして創り出した、自分勝手で都合の良い幻。
勝手に意思を持ち肥大した、自律する心象風景だ。
「……バカだよ、僕は」
敢えて声に出し、自身を戒める。
いつもの締め括り。
そうすれば、身の丈に合わない空想でもなんとなく水に流せる気がしていた。
同時に身を起こし、着の身着のままテントを出る。
夜空が映し出す輝きに感動はない。
もう何度も何度も、見飽きたその上に幾つもの倦怠感を重ねた景色だ。
夜に特別なものなど何もない。
子供の頃から、マルテにとってはそうだった。
だからという訳ではないが、月明かりを頼りに城の方に向かったのも、好奇心や衝動が動機ではなかった。
フェーダの発言を信じれば、邪術の噂を信じたギルド員の急襲がいつあってもおかしくない時間帯。
だからこそ、足が自然と動いていた。
「……」
夜の闇をまとった城を見上げ、その城主を自称する人物の顔を思い浮かべる。
一つの身体に二つの人格を宿す、奇妙極まりない女性。
同じ容姿にも拘わらず、受ける印象は大きく異なる。
この城に来て五日が経つものの、未だに彼女――――エデンの実像を掴めずにいた。
総大司教の娘という肩書きは、アウロスの恋人ルイン=リッジウェアと同じ。
彼女もまた、第二聖地ウェンブリーの総大司教である親との関係には散々苦慮していたようだが、今は無事和解している。
ここアンフィールドの総大司教は、娘を使い捨ての道具程度にしか考えていないらしい。
もしルインとその母のように、やむを得ない事情や誤解があっての事なら何か解決策があるかもしれないが、マルテはその可能性を殆ど期待していなかった。
仮にエデンの両親が、娘に愛情を抱きながらも周囲の安全保持や総大司教としての立場から仕方なく追放し、あの城に住まわせているのなら、手紙の一つくらい寄越しても罰は当たらないだろう。
しかし、エデンの部屋に手紙のような物は一切なかった。
リリルラを通してメッセージを送っているような様子もない。
マルテ自身、父親との関係には大いに悩んだし、今も悩み続けている。
魔術国家デ・ラ・ペーニャ史上最高の才能と言われ、多くの魔術士に慕われるその姿は、自分とは似ても似つかないもの。
幼少期に愛情を注いで貰えなかった欠落感は、お互い歩み寄った今も尚、完全には補えていない。
それでも、実の父から命を取り上げられそうになる気持ちなど、全く想像も出来ない。
自分が生み出した命なのだから捨てるも残すも親の勝手とでも言いたいのか――――そんな憤りが心を蝕む。
マルテは城の前で立ち止まり、憐憫の眼差しを向けた。
けれどすぐに目を瞑る。
そのような同情、エデンは望んでいないと思い直し。
では――――姫君は?
エデンの実像を掴めていない理由の一つ。
姫君という存在を未だに呑み込めていない。
彼女が実際に幽霊や亡霊といった存在だとは、マルテは考えていない。
なら当然、姫君はエデンの別人格という事になる。
エデンが意識的に姫君を演じている可能性は低い。
とてもそんな器用なタイプには見えないし、そもそも演じる意味が全くない。
となると、無意識下の人格交代という線が妥当。
マルテ自身は経験も目撃もした事はないが、人間は耐え難い苦痛を受け続けると、別人になりきってその苦痛から逃れるという防衛本能を持っている――――そんな話を聞いた事があった。
耐えられない痛みを受けると、人は苦痛から己を守るため気絶する。
心が壊れそうな過去の辛い経験は、記憶から抹消される。
それと同じ理屈で、『その苦痛は自分のものではない』という一種の逃避として別人格となり、心を守る。
「人格か……」
そこでふと、マルテはもう一つの可能性に思い至った。
この城の中では、もう一つの『人格形成』が行われていた。
勿論、フワボー達の事だ。
言語を用いている訳ではないし、知性も殆ど感じられず、人格と言えるほどの明確な心理的特性があるとまでは言えない。
けれど、自分の意志で動いているのは確か。
ならそれは人格と呼べなくもない。
だとしたら、姫君は――――
「……?」
不意に、微かな物音がマルテの鼓膜を擽る。
地響きのような、それでいて少々野暮ったさもある音。
以前テント内で聞いた音と酷似していたが、外で聞いた事でより鮮明にその正体に近付いた。
――――馬車。
かなり遠くから聞こえて来るその音は、通常の速度で馬車が駆ける時の音ではなかった。
車輪の音には軽快さに欠けるし、馬の足音はかなり弱い。
意図的に速度を緩めた馬車の走行音だとマルテは判断し、全身を駆け巡る極度の緊張を制御する為に左肩を右手で鷲掴みにした。
昨日の今日。
しかしそれでもギルド員の急襲が最も可能性が高い。
教会を敵に回している彼等には、一旦引いて戦略を練るような余裕はないのかもしれない――――マルテはそう判断した。
フェーダは腕を負傷している為、夜冷えるテントではなく城内で眠っている。
尤も、エデンも彼も油断はしていないだろうが――――真夜中まで集中力を切らさずにいるのはそう簡単ではない。
ここに来てから水と保存食しか食べていない為、体力面での不安もある。
なら、今すべき事は?
迷いはなかった。
マルテの足は自然に、何の躊躇もなく――――城内への出入り口を素通りし、そのまま城に背を向け駆け続けた。
目的がある。
目標がある。
夢と呼んでも良い。
目指すべき自分がいる。
ここで、志半ばで死ぬ訳にはいかない。
絶対に、そうなってはいけない。
マルテは――――
音のした方へと走り続けていた。
今はもう聞こえないが、馬車の走行音がしたのは城壁の裏側。
城内ではなく、城門へと向かう必要があった。
間抜けだという自覚はあった。
戦闘能力皆無の自分が一人で魔術士ギルドの手練と相対して、何が出来ると言うのか。
何も出来ないのは目に見えているのだから、逃げ出してしまえばいい。
非効率的。
非論理的。
やはり、賢聖のようには生きられない。
あの人のようにはなれない――――
心中でぼやきながらも、マルテの足は止まらなかった。
息も絶え絶えに、寒中の闇を切り裂いて走る。
出会ってたった数日の、それも正体不明の二人を、危険から遠ざける為に。
こんなのは綺麗事だ。
英雄を気取って自己満足に浸って凄い事を成し遂げた気になりたいだけの愚行だ。
何度も何度も、何度も何度も警鐘を鳴らしてはみるものの、効果は得られない。
偽善でさえあると、マルテは自嘲気味に笑った。
どうしようもないくらい、一人前になりたい――――
そんな利己的な理由で命を投げ出しかねない行為に及んでいる自分に、泣きそうになる。
けれども尚、マルテは――――足掻くように、しがみつくかのように前進を止めなかった。
気付けば、物音の正体は直ぐ目の前にあった。
「……」
絶句、するしかなかった。
他に表現する術を、マルテは持ち合わせていなかった。
馬車がある。
マルテの物よりも遥かに高級で頑丈そうな荷馬車がある。
移動だけでなく、邪術の原盤を持ち運ぶ為の用意も出来ている証拠だ。
邪術の利用価値は、単に教会への対抗手段だけではない。
その原盤は教会との取引に使える。
教会は邪術の存在を公に認めていない為、『条件を呑めないなら邪術の存在を他国に知らしめる』という脅しも可能。
もし大した破壊力のない邪術であっても、そういう使い方が出来る。
だから魔術士ギルド所属の人間が邪術の原盤を求め馬車を用意し、襲撃に赴いたのは間違いない。
それ自体は驚愕に値しない。
マルテが絶句したのは――――
「お、お願いだから止めてくれ! もう認めたじゃないか! 魔術士ギルドの人間だって! だから見逃してくれ……見逃して下さい!」
地に這いつくばり、そう命乞いする人物がいたからだ。
無論、マルテに対して言っている訳ではない。
「それは出来ない」
無慈悲な言葉の直後――――ギルド員である事を自供した人物を、一瞬で物言わぬ身体にした彼女に対しての言葉だった。
沈黙の肉体は一つだけではない。
合計で四つ、全てが二度と起き上がる事のない姿で地面に横たわっている。
馬車の音が消えて、まだ大した時間も経っていないというのに。
「……リリルラ」
銀色の円月輪を深紅に染め、エデンの侍女はゆっくりと振り向いた。




