11 馴れ初め
バルコニーに吹きつける風は時に凶暴で、威嚇するような音をあげて手すりを絡め取ろうとする。
そこで外の景色を眺めているエデンの後ろ姿に、マルテはある種の寂寞感を見出さずにはいられず、声を掛けるのを躊躇っていた。
それは以前、彼女が一人でジャムを食してる時にも抱いた感覚だった。
理由はわからない。
ただ、確かな事が一つある。
自分を俯瞰で眺めているような、不思議な同調――――共鳴だ。
人間が生活する上で必要なものを『衣食住』と位置付ける者は多い。
しかし実際には、衣と住がなくても人間なんとか生きて行けるもの。
衣食住はあくまで、最低限の地位を持つ社会人として生きていく上で必須要素だ。
かつて"住"を持たず、隻腕というハンデを背負っていたマルテは、周囲から社会人と見なされない辛さを良く知っていた。
そんな環境で生きていると、社会不適合者としての自分を嫌でも自覚せざるを得ない。
お前は落第者だと、何らかの大きな塊が毎日のように念を押してくる感覚が常にあった。
「おはよう……」
エデンを見ていると何故かその頃の自分を思い出さずにはいられず、マルテは小動物に近寄る心境で怖々と挨拶する。
振り向いたエデンは、風に晒され揺れる銀色の髪を抑えながら、爽やかな微笑を浮かべていた。
「おはようございます。今日も早起きなのですね。立派な心掛けだと思います。マルテ君はとても立派ですね。将来は立派な大人に従属する小立派な大人になれますよ」
ただし完全に作り笑顔だった。
役者にでもなればいいとマルテは本気で思いつつ、先程の感傷的な自分を気の迷いだったと内心で恥じる。
それでも、然程悪い気分ではなかったが。
「昨日の件のお詫びで褒めてるつもりだったら、もうちょっと徹底して欲しいんだけど」
「私としては、余りにも現実味を帯びていない褒め方は却って失礼だという配慮の行き届いた絶妙なラインだと思うんですが」
「……そこまで気を使ってくれたのならもう何も言わないよ」
エデンから少し距離を置き、右手で手すりを擦る。
マルテには多少の僻みがあった。
小さいとは言え、城という余りに立派な建物を住居としていて、しかも衣と食まで持ち合わせているエデンに対して。
相変わらず自律する魔術達も付き従っているが、電鞭のヴァールだけは遠くにいる。
言動は兎も角、昨日の事を反省しているのは確からしい。
そう判断し、マルテはテントの損傷に関してはもう水に流す事にした。
「そもそも、"今日も"っていうならそっちもだよね。今日もジャムが朝食だったみたいだし」
今朝方見かけた朝食の風景。
食堂の上座に座るエデンの手前には、10種類のジャムの瓶が並んでいた。
本当に厳選してその日食べる種類を決めているらしく、明らかに昨日の彩りとは異なっていた。
「栄養価も保存性も高く、何よりも至福の味。一体何が問題なのか私にはわかりません」
「いや、食材として否定してる訳じゃなくてさ……まあいいけど」
城に一人で住んでいるエデンは、食事と着類を得る為に何かをしている訳ではない。
城内の厨房に保管されているジャムを食べ、クローゼットに仕舞われている服を着て生活している。
服は毎日着替えていて、この日もマルテにとって初見の、青を基調としたドレス。
昨日着た服の行方など知る由もない。
マルテがこの城へ来て三日が経とうとしていたが、エデンの私生活は常に謎に満ちていた。
「あのジャムって誰が用意してるの? まさか自分で作ってる訳じゃないよね?」
「黙秘します」
「じゃあ服は? 模様懲り過ぎてて、とても手作りには見えないけど」
「黙秘します」
「ちゃんと洗ってるんだよね? 僕等の知らない所で、洗って干して畳んで収納してるんですよね?」
「黙秘します」
「僕の馬、この先の草原に放して食事させてるんだけど、あの馬って普通の倍くらい食べるんだ。草原禿げ散らかしても大丈夫?」
「黙秘」
――――と、このように全く質問に答えようとしない為だ。
今日で三日目を迎える城内探索は、今のところ何ら進展はない。
そしてそれはエデンとの関係性についても同様だった。
「……今日も答えてくれないかー」
「乙女の秘密を知ろうなんて、マルテ君は紳士の嗜みを知りませんね。もう子供だからと許される年齢でもないでしょう?」
「いやいやいや、こんな辺鄙な所で一人城で暮らす人に常識を諭されても」
それでも下らない雑談には必要以上に応じてくる為、上辺の距離は直ぐに縮まった。
話し相手に飢えていたのかもしれない、とはフェーダの弁。
言い得て妙だと納得する一方、その割に会話慣れしているという印象も持っていた。
それだけではない。
決して聖女ではないものの、仕草や態度には常に一定の品が備わっていて、育ちの良さを感じさせる。
衣服も、まるで高貴な人物が着するような凝ったデザインの物ばかり。
もしこの城に少数でも召使いや兵士がいればお姫様だとしても何ら違和感はない――――この二日間でマルテはそんな感想をエデンに抱いていた。
「それで、あの諦めの悪い男はまだ諦めが悪いまま探し続けているのですか?」
「妙に詩的だね……フェーダなら昨日も徹夜で城内をくまなく探してたよ。生真面目に。今は力尽きて寝てる」
「なんだか少々含みのある言い方ですね」
「少しだけね」
隠す理由もない為、マルテは敢えて肯定した。
自分が今、フェーダに向けている灰色の眼差しを。
「そういえば貴方達は、仲間という訳ではないのでしたね。どういう経緯で知り合ったんですか?」
「ここに向かっていた途中に盗賊に襲われそうになったんだけど、彼が助けてくれて。その御礼に馬に乗せて来たんだ。だから恩人ではあるよ」
「そうですか。なら、あの人の正体もご存じではないですよね」
「うん、素性までは知らない。フェーダの事信用してないの?」
「当然です。私がちょっとでも隙を見せたら、まるで発情した獣みたいな目でギラリと睨んで来ますし」
言葉こそ冗談交じりだったが、エデンの醸し出す雰囲気は必ずしもそうではなかった。
普段は艶麗な顔立ちの中にも何処か青空を感じさせる表情だが、同時に薄い雲も広がっている。
態度こそ常に強気だが、突然他人が二人も押し掛け、更には所有権の有無を追求されているという現状にはやはり不安がっている――――そう感じさせるには十分な変化だった。
「……僕が知る限りでは、彼は当初から『この城に幽霊がいるという噂の真偽を調査する為に来た』って言ってた。だからエデンさんにした説明に矛盾はなかったよ」
「それだけで信用する気にはなれません。人間、誰もが矛盾を抱えている生き物ですから」
「名言風だけど、この流れだと安っぽく聞こえる……」
そう呆れつつ、マルテもまたフェーダに対して全面的に信用している訳ではない為、気持ちは理解できた。
昨日感じた親近感の正体はこれかもしれない――――そんな事を思いつつ、欠伸を噛み殺す。
フェーダほどではないにしろ、マルテも寝不足気味だった。
「ところで貴方は考古学者見習いでしたよね? このお城を鑑定しに来たんですか? 言っておきますけど、幾ら積まれても売りませんよ」
「いや、そういう訳じゃ……でも、確かに鑑定したくなるお城ではあるよね。機能的価値は正直殆どないけど、資料的価値は相当なものだろうし」
「お家としての価値はイマイチです。もう少し温かみが欲しいですよね。出来れば壁は薄めのピンクがいいんですが」
その塗装を施した城内を想像し、マルテは眉間の当たりに鈍痛を覚えた。
「と、兎に角……もう少し調べさせて貰えると助かるんだけど、良いかな?」
「ならばお城の何処かに財宝が眠っている可能性濃厚と思ってしまってもいいんですね?」
「な、なんでそうなるの! いや、言わんとしてる意味はわかるけども!」
「違うんですか? 正直それを期待しての滞在許可なんですが……世界中のジャムというジャムを買い集める夢もありますし」
「おなじみの、みたいな顔されても知らないよ……」
エデンの吐息が荒くなるのを若干引き気味に眺めつつも、マルテは若干の後ろめたさを抱いていた。
考古学者見習いの肩書きに嘘はない。
だが、言葉足らずではある。
ここへ調査しに来たのも、その足らない部分が主軸を担っている。
「え、ええと……金貨や宝石みたいなわかりやすいお宝を期待されると困る。でも、財産って意味ではあながち間違いじゃないかも」
「お金になる何かが眠っているんですか!? それとも既に見つけたとか!?」
「へ!? い、いや……そういう訳じゃ」
見つけたのは君が持ち出した物と同じ日記だった――――そう答える事も出来たが、マルテは真実を告げるのを躊躇していた。
あの隠された日記に書かれていた内容は、少々常軌を逸した不気味で断片的な言葉の羅列。
例えば長らく眠っていた呪いの書物だったらまだいいが、仮に目の前の女性があれを書いていたとして、それを見られたと知ったら、この場で本性を剥き出しにしてくるかもしれない。
マルテには戦闘能力はない。
魔術士であるエデンに発狂でもされたら、勝ち目はない。
沈黙以外の選択肢しかないのが実情だった。
「何か歯切れが悪いというか、隠し事をしているような」
「いやいやいや、いやいや。何も隠してなんていないよ、いませんって。あはは……」
「じーっ……」
エデンは謎の擬音を口に出し、ジト目で睨み付けてくる。
ある種の奇行だが、マルテへの圧力という意味では有効だった。
「……まさかマルテ君」
「は、はい。なんでしょうか」
「私への恋心を隠してるんですか?」
時が止まった。
「え……? もしかして図星なんですか? 目的はエロじゃなくて純愛だったんですか!? 私の身体じゃなく心を考古学の観点から隅々まで調査するつもりですか!?」
「全然違う! 勝手に考古学を汚さないで! それに僕にはちゃんと……」
一瞬我を忘れ、言わなくて良い事まで言ってしまいそうになったマルテは慌てて口を噤むも――――時既に遅し。
「あっれー? マルテ君あっれーーー? もしかして他に好きな人がいるんですか? いるんですねそうでなんですね! もう……それならそうと言って下さい。で、誰なんですか? 幼なじみ? それとも最初はいがみ合ってたけど何かの拍子にお互い意識するようになる系?」
この手の話に飢えていたと言わんばかりに、矢継ぎ早に質問を投げつけるエデンの顔は晴れやかな充実感に満ちていた。
浮き世離れした存在感とは裏腹に、中身は年齢相応の乙女という事らしい。
「いや違う! 本当に違うから!」
「誤魔化さないでください! マルテ君の好きな人、私凄く興味があります! 出来れば出会いとか馴れ初めとか好きになった瞬間の出来事とか、そういうの詳しく!」
「そんな目をキラッキラさせてもさ……大体、そっちは何聞いても黙秘一辺倒なのに僕にだけ一方的に聞くのおかしくない?」
「わかりました。ならさっき黙秘した質問と交換です!」
「そこまで知りたいその欲求の意味がわからないけど……わかった、その条件なら呑むよ」
自分の恥と引き替えに情報が得られるのなら、悪い取引ではない。
グイグイと笑顔で迫り来るエデンに、マルテは困惑を覚えつつも覚悟を決め頷いた。
「……僕は、彼女と出会ったその日に――――」
「うんうん」
「蹴り殺されそうになったんだ」
「……うん?」
「とても濁った目をして、僕の首が切断するくらいの鋭利な蹴りを放ってきたんだ。本当に……恐かった」
遠い目をするマルテに、エデンは引きつった笑みと共に一歩二歩と後退る。
目は泳ぎ、額には大量の冷や汗が滲んでいた。
「そ、そうですか。変わった恋の始まりもあるんですね。私、勉強しました。男女の馴れ初めって思ったよりカオスなんですね」
完全に誤解だったが、変に本心を曝け出すよりはマシだったのでマルテは補足説明を放棄した。
「それじゃ、今度はそっちの番だよ。ジャムの補給とか掃除とか、どうしてるの?」
「……お手伝いさんを雇ってるんですよ」
何処か言い辛そうに、エデンはそう明らかにした。
拍子抜けするほど妥当な答えではあったが、だからこそ不自然でもあった。
「それだけ? だったら隠す必要なくない?」
「まあ、その……アレですよ。あまり人の目に触れさせるような者ではないので」
「……?」
これまでの明朗さとは裏腹に、やたら歯切れの悪い返答。
ますますマルテの疑念は募るが――――
「……随分と仲良くなったものだ」
目の下にクマを作ったフェーダが虚ろな表情で眺めながらバルコニーへ近付いて来た為、そこで話は一旦強制終了となった。




