水葬の中、二人
※この作品には自殺未遂が内容に含まれています。
風に揺れる木々のざわめく音と、水が流れる川のせせらぎの音。
毎日通学路で奏でられるその音は、この季節にはどこか甘く耳をくすぐる。
それはきっと、流れる桜色の花びらが連想させる甘さだろう。
風に攫われた花びらと水面を滑っていく花びら。桜色を内包したこの二つの流れにまるで責められているかのような気持ちになって、たまらずに目を瞑った。
立ち止まったまま動けずにいると、丁度横を通り過ぎて行った女子生徒達が、プールが見ごろだと弾んだ声で話していたのが耳に入った。
俺の通っている学校のプールの脇には桜並木が広がっていて、満開の時期が少し過ぎると水面を埋めるように花びらがプールを覆い尽くす。
その光景が一種の風物詩となっており、春休み中に一回プールの水が入れ替えられる。藻の蔓延る真緑の水面に桃色の花びらが浮かんだ所で、美しさなんてものが存在しないという理屈はわかるし、恐らくだがそこに関して全校生徒が校長と同意見だと自分は思っている。
だが水の入れ替えに伴う強制行事。まだ水の冷たい時期に全校生徒がプール掃除を押し付けられることには、皆が辟易しているのだ。
もっとも、掃除が終わって綺麗になったプールに桜が散り始めるとすぐに不平不満なんてものは息を潜めてしまう。
美しい景色なんてものに興味を抱かない連中や、自分のようにその美しさに恐怖を覚えてしまう人種を覗いての話であるが。
でかかった欠伸をかみ砕く。
寝起きの頭では碌なことを考えないなと、思考を放棄しようとしたところで、後ろから肩を叩かれた。
「忘れものだぞ、お兄ちゃん」
「…………」
「おお、いい顔。男前度上がったな、眉間の皺で」
からからと笑う腐れ縁に舌打ちを返す。
小学校からの腐れ縁で、義理の兄弟で。
そして同じ痛みを抱えながらも、俺たちはこんなにも違う。
それは嬉しくも寂しいような。そんな言い様のない感情だった。
俺と透が初めて会ったのは、小学校に上がったとき。当時の透はどこか近寄り難いやつだった。
例えば朝、透が教室に入るとほんの一瞬だけ会話が止まる。
例えば昼、透の周りにだけ不自然な空白ができる。
特に虐めがあったというわけではなく、ただ皆、どのように接すればいいのか戸惑っていたのだと今なら解る。
それは父親がいないという家庭環境だけではなく、透の持つ独特の雰囲気も大きな要因だった。
俺はそんな透の雰囲気を、まるで水のようだと感じていた。
他の人から見たらどのように映っていたのかは知らなかったし、興味もなかった。
ただ俺の感じた感情とは別のものを皆は透に感じている。それだけのことで胸が弾んでいた。
その胸が弾んだ日から俺は透に声をかけ、素っ気ない態度にもめげずに何度も何度も声をかけ。
一緒にいるのがもう当たり前になった頃、俺達の関係に大きく関わってくる最初の出来事が起こった。
両親が離婚した。
妹がまだ物心つく前の話だ。
原因は確か母親の浮気だったと思う。詳しい話は聞かされていないので確証はないが、父親に泣いて土下座する母親の姿を見たことがある。
「一緒になったな、俺達」
二人だけの秘密基地の中、狭い中で額を突き合わせて寂しそうに呟いた透の手を握った。その冷たさを溶かすように、自分の熱を分け与えながらそのとき感じていたものは。
眠っている妹を抱きながら見送った母親の後ろ姿に感じたはずの喪失感ではなく、透が今まで自分の中だけに閉じ込めていた痛みを分け合うことができるようになったという充足感で。
それだけが確かに胸を占めていた。
しばらくして、俺の父親と透の母親が再婚した。
当然のことのような、突然のことのような。あっさりとゆっくりと決まったその話を受けて、俺と透はまた二人だけの秘密基地の中で額を突き合わせた。
透のお嫁さんになると言っていた妹が、結婚できなくなると不貞腐れるだろうなと思いながら、それでも新しい家族を喜ぶだろうと考えながら。
俺は透が妹と結婚しなくても家族になることができるのかと、ただそう思っていて。
そのときの俺はずっと笑っていたと思う。
嬉しくて嬉しくて。
「本当に一緒になったな、俺達」
そういった俺に、透が曖昧な笑みだけを返していたのをそのときの俺は気づくことはなくて。
ただずっと一緒にいられる約束ができたことに舞い上がっていて、透がずっと隣にいる未来に思いを馳せていた。
放課後の教室は、いい具合に夕陽が射して燃えるような色合いになる。窓から見える桜並木も松明のような不思議な揺らめきを見せて、それがどこか郷愁的な気持ちをかき立てる。
校庭から野球部の声が聞こえ始めた頃、椅子に逆向きに座りながら後ろの席の透に声をかけた。
「透、帰ろうぜ」
「俺は部活」
「突き指してんのに?」
「突き指程度で休んでられっかよ。バスケなめんな」
笑いながら言われて、少しだけむっとする。一人で帰るかと項垂れていた所に、立ち上がった透に上から声をかけられた。
「そうそう早瀬。さっき母さんからメール来たんだけどさ、駅前のスーパーで特売の卵と醤油と、あと切れたからカレー粉買って来てくれってさ」
「なあ、お前いつまで」
思わず口をついた言葉を遮るように、透はふてくされたように言い放った。
「母さんはおじさんと籍入れたけどさ、俺はおじさんの養子に入ってないんだから、別にいいだろ」
こいつは、同じ屋根の下に居てもなお、未だ俺のことを名字で呼び続けている。
夢を見ていた。
悲しくて忌々しい思い出だ。
あれは桜の見事な春の頃だった。
まだ妹が小学校低学年の頃の話だった。
俺と透は中学に上がったばかりでまだ部活動に入っていなくて。
お互いに何の部活に入るのかと熱く語っていた日の出来事だった。
まだ俺も、気恥ずかしさが抜けなくて透のことを名字で呼んでいたときだったと記憶している。
学校から帰って来た俺達を、血相を変えた義母さんが迎えて開口一番に妹を知らないかと震えながら、かろうじて聞き取れる声で聞いてきた。
そのとき俺は、何が起こっているのか全く解らなくて。
隣で透が半狂乱な義母さんに警察と親父に連絡を入れることを落ち着いて伝え、二人で家を飛び出した。
このときになって俺は、ようやく妹が行方不明になったことに気が付いた。
取り乱す義母さんの姿が、泣き崩れながら不貞に対する許しを乞うていた母親の姿に重なったのか。無意識だったが、この時自分は初めて目の前の彼女を名前ではなく「義母さん」と呼んでいたらしい。
これは後から、透に聞いた話だ。
二人で妹の名を呼びながら、すれ違う人に妹を見ていないかと尋ねながら捜索をして。
探しても探しても見つからなくて。日も完全に落ちそうになったとき、何度も転んだのか所々擦り傷を作って血を滲ませながら走ってきた凪子さんに聞いた言葉が俄かには信じることができなくて。
妹が桜の花びらと一緒に川から流れてきたという知らせを、どこか遠くで聞いていた。
それからはよく覚えていない。
事故だったのか事件だったのか、それさえも俺の中では定かではなくって。
今思い出してみると、ただ茫然と聞いていた大人達の会話の中に、この家から出ていった母親の名前があったような気がする。
気がするだけかもしれない。俺は深く考えることを止めていた。
透は、俺よりも冷静に話を聞いていた。少なくとも表面上はだ。
あいつが内側で何を考えているのか、今でも俺は解ることが多くはなくて。当時の俺はほとんど解らなくて。
だから俺は、透が何を思っていたのかを知らない。
同じ痛みを抱えているのだと思っていても、信じていても。本当にそうなのかが自信を持てない。
その後のことに関してもだ。
体調を壊して入院した義母さん。
何かに取り憑かれたように、悪夢を振り払うように仕事に打ち込む親父。
そして俺と透は毎日毎日二人だけの家で、コンビニ弁当を無言で食べていた。
それ以来、俺はコンビニ弁当が苦手で。
透もそうだと思っていたが、あいつが俺に合わせてくれているのかもしれなくて。
そう考えるときりがなくて、自分がどこにいるのかが解らなくなってくる。
目が覚めると、辺りはもう既に暗くなっていた。
一瞬自分がどこにいるのかが解らなくて、春の夜風に晒されて冷え切った自分の身体に首をかしげる。
どうやら、公園のベンチで座ったまま眠っていたらしい。
川のせせらぎは聞こえてこないが。風に揺れる桜の木のざわめきが不規則に耳に届いている。
通りで夢見が悪いはずだと舌打ちをして、帰るかと顔を上げた瞬間。
大きな月と、それに向かって伸びている桜の木が目に入った。
月明かりに照らされた桜の花びらに、何かに呼ばれている気がして。立ち上がって家とは逆方向へ向かって歩き出す。
現在時刻は、午後二十二時。
誰にも気づかれることなく侵入を果たせた夜の学校。そこのプールは、昼間とはまた違った顔を見せていた。
四隅に設置された橙色の防犯灯は水面を埋め尽くす桜の花びらを染め上げ、滲むような影がどこか艶やかな印象を与える。
美しい光景だ。
だけどそれよりも、恐ろしさが際立つ。この恐ろしさは俺の感じる恐怖ではない。この光景は現実感が薄くて、暗がりが怖いという根源的な恐怖を駆り立てる。
それでも。
それでも、その理由のない根源的な恐怖の中にあってもなお消えずに恐ろしく思う俺の恐怖は。
水と、桜。
透と、妹。
全てがこの手から零れ落ちて行ってしまう。俺にはそれが耐えられない。どうしようもなく恐ろしい。
突き動かされるように、プールサイドにしゃがみ込み、水面を見下ろす。その向こうの景色へと思いを寄せて。
「そこはどんな景色なんだろうな。兄ちゃんにも教えてくれよ」
からみつく花びらを潜り抜け、塞がれた場所へとそっと落ちていく。
抵抗は、最初に軽くだけ。
あとは身を任せて沈む、底まで。
ここはなんて暗いのだろう。
ああ、光がないんだ。
水底から見える光景は闇しかなくて。水面を覆う無数のカーテンが、月明りも防犯灯の明かりも全てを塞いでしまう。
月が見えないのは、いただけない。
それに酷く、寒い。
凍えてしまうような寒さではない。ゆっくりと、じんわりと。服を、肌を、肉を通して内側に浸食して蝕んでいくような冷たさ。
ここに一人じゃ、寂しいな。と開いた唇は、大きな泡を一つ浮かべたきりになって、誰に届くこともなく。
ただ水面へと向かっていく気泡に揺られて微かに隙間の出来た向こう、月を思わせる白い光が差し込んだ気がして、綺麗だなとそっと瞳を閉じた。
とんとん、と胸を叩く音がする。
とんとん、と心を叩く音がする。
命が吹き込まれる感覚に浮上する。
水底から水面へと、意識が。
「ごふっ」
水が逆流して喉を圧迫する感覚にむせて咳き込む。口の中に溢れた水を吐きだし、目を開けた瞬間に見えたのが水面に浮かぶ桜の影ではなく、夜空に浮かぶ星の輝きだったことに首をかしげた。
どうして俺は水の中ではなく、横たわって空を見上げているのか解らなかった。
「あれ……」
おかしいな。と続けようとした言葉は、すぐ傍から聞こえてきた声に遮られた。
「お前な」
視線を向けると、そこにはずぶ濡れであちこちに桜の花びらをつけた透が、力なく座り込んでいた。
「お前、ふざけるなよ。もし先週心肺蘇生の授業をやってなかったら、お前のこと助けられていたかどうかも怪しいんだぞ」
力なく何度も何度も俺の胸を叩くその手が、寒さからか小刻みに震えているのが目に入った。
どうか、震えないでくれ。
お前が震えていると、止めたくなって。それができないのなら、せめて一緒に震えていたくて。
幼い頃、秘密基地の中で握りしめたように。ただ俺は、手を伸ばして。
「……寂しいんだ」
寒いのかと問いかけようと透の震える拳を握ったら、自分の手の方が冷たいことに気付いて。これじゃあ温められないなと思った途端、何だかどうしようもなくなって。濡れた身体を春の夜風が凪いだその寒さからか、唇は震えて別の音を出した。
その震えは、どうしても止まってはくれなくて。
告げるつもりのなかった言葉が、滅茶苦茶に口をついていた。
「胸のここに、ぽっかりと穴が開いているようで、堪らなくなるんだ。淋しくて、寂しくて。あの時、ああすれば良かったんじゃないか、ああしとけば何か違ったんじゃないかとかそう思うと堪らなくて。家族が、お前が。どうしてだかどうしようもなく憎くて、でもだけどっ」
お前が欲しくて。
お前と一緒にいたくて。
埋められない穴をお前が埋めてくれるんじゃないかと勝手に期待して、だけどそう思う自分が許せなくて。
どれだけ一緒にいても、変わらぬ名字と呼び名に焦がれて。もっと近づきたくて。
それが叶わないことが、こんなにも苦しくて。
「十八になったらっ」
叫ぶような、どこか絞り出すかのような透の泣声が胸を穿つ。
「十八になったら、ちゃんと養子に入るから」
だから、と縋るように預けられた体重に、濡れた服に、下がった体温に、貼りついた花びらに、その頬を濡らす新しい雫に、たまらない程の温もりを感じて。
握っていた手を背中に回して、少しだけ力を込めた。
「十八になったら、結婚してくれるんだな」
「馬鹿かお前」
吐き捨てるような言葉と同時に、自分に縋りつく腕の力が強くなった。
無性に切ないような遣る瀬無いような、だけどどこか暖かな気持ちが込み上げてきて。このまま二人で溶けてしまえたらいいのにと、ずぶ濡れのままそっと目を閉じた。