nonverbalーとあるエス氏の愛と嘘。
初出の短編です。
長編の方は完結した作品をUPしてるだけなので、文章書くの久しぶりです(´Д`)
ジャンル選びようがないwので異世界恋愛になってますが、異世界、恋愛、年の差で思い浮かぶステキな恋物語とはほど遠いです。
石投げられるレベルで斜め上です。
エス氏は若い頃に離婚歴がある。
兵役を終え、喜びを噛み締めながら帰った自宅のベッドで、妻の裏切りを目の当たりにした。
エス氏は静かに微笑んで、鹿撃ち用の銃を手にとって、人間の家に紛れ込んだ獣たちを始末した。
幸いに子どももおらず、調べると盛り場で遊んでばかりいた妻には近所付き合いもなかったので、後の片付けは簡単だった。
資産家の父親のツテを借りて、有能な法律屋を紹介してもらい、いくつかの書類を書いたエス氏は、晴れて独身に舞い戻った。
トマトピューレをぶちまけたみたいに汚れた寝室は壁を張り替えて、ベッドは裏の庭で燃やした。
獣の死骸はしばらく考えてから、工場の知り合いから酸を買ってきて、すっかり溶かした。
治療済みの歯や体の中の石ころが残ったのは、鼻歌を歌いながら、海辺に撒いた。
途中でそこが妻との思い出の場所と気づいたけれど、エス氏は爽快なだけだった。
それから長い間、エス氏は一人でいた。
妻はよく、エス氏に愛を囁いた。
目が覚めたときも眠りに落ちる前も、愛の言葉を欠かさなかった。
戦場でエス氏はそれを何度も思い出したものだった。
偽りだと知れてしまうと、それらはすべて滑稽で、頭を抱えたくなるような思い出になった。
愛の言葉は信用できない。
上辺を飾り、人を騙す、卑怯な道具にすぎない。
そんな風に考えるようになっていたから、エス氏はもうまともな恋愛などできなかった。
父親が亡くなり、莫大な遺産を相続したことも、エス氏の孤独に拍車をかけた。
近づいてくる女たちは、みな金目当てで言辞を弄するの亡者に見えるようになっていた。
しかし、年月が経ち、初老にさしかかる頃になると、さすがにエス氏も寂しさを感じ始めた。
「このまま独り年老いて生涯を終えるのか……」
とはいえ結婚はこりごりだった。
若い頃につけられた生傷は、痛みこそ消えてもエス氏の心に引きつれを残し続けていた。
「大体、女は嘘をつく。偽りの愛を囁く後ろ手で他の男を慰めることができる、とんでもない連中だ。とてもそばに置く気にならない」
ある時、エス氏は行きつけの酒場でバーテンに愚痴を言った。
「エス氏はもう、口をきける女性とはお付き合いできないというわけですね」
グラスを磨きながら、バーテンは苦笑した。
これはつまり、あなたの相手なんてこの世のどこにもいないよ、という皮肉だったわけだが、エス氏ははっと閃いた。
「そうか……!つまり、口のきけない女を見つければいいんだ!」
この発見は、エス氏の心を軽やかにした。
けれど、実現はなかなか容易ではなかった。
生まれつきや事故で口がきけない女性は、探せばいるだろう。
けれど彼女たちだって、発声が出来ないだけで言葉を知らないわけではない。
単純に、口がきけない、というだけではだめだ。
口がきけない、というより、言葉を知らない、というのでなければ、エス氏の要求を正しく満たすことはできない。
なにせエス氏が求めているのは、言葉を用いない、真実の愛なのだから。
とはいってもーーこれは非常に難題だった。
言葉を知らないなんて、生まれたばかりの赤ん坊か、獣に育てられた野生児でもなければありえない。
どうしたものか。
しかし、エス氏の苦悩は思わぬ奇跡によって解決した。
馴染みの酒場の噂話で、エス氏は望まぬ子どもを設けて、こっそり殺してしまおうとしているティーンエイジャーのカップルがいることを知った。
エス氏はすぐさま彼らと連絡を取って、大金と引き換えに、赤ん坊を引き取った。
赤ん坊は女児だった。
理想が見つからないのなら、作ればいい。
エス氏は赤ん坊を、みずからの理想通りに育て上げることにしたのだった。
この犯罪的な目論見のために、エス氏は赤ん坊の戸籍を取ることもせず、のどかな田舎町の外れに塀の高い屋敷を買った。
そこで、赤ん坊を育て始めた。
前の妻との間には子どもがいなかったから、エス氏の子育てはおおいに難航した。
泣いてばかりの子どもに手を焼いて、そのうちに世話係を雇うことにした。
屋敷周りの力仕事も任せたかったので、身寄りのない若い男を拾ってきて、住み込みで働かせることにした。
かくして年齢も出自もてんでばらばらの三人の、奇妙な暮らしが始まった。
世話係の男は寡黙で忠実だったので、エス氏は安心してすべてを任せていた。
赤ん坊の世話は、真綿でくるむように丁寧に、なにひとつ不自由ないように。
ただし、言葉だけは絶対教えてはならない、と言いつけていた。
「それは、何故でしょうか?」
「真実の愛には、言葉などいらんのだ」
「あの子はそれで幸せでしょうか?」
最初の頃だけ、エス氏と世話係の男の間に問答があったが、エス氏が決まって答えを言わないので、世話係もそのうち、なにも言わないようになった。
やがて年月が経ち、赤ん坊は四肢の伸びやな少女に育った。
絹のような金髪はいつも櫛で整えられ、白いレースや、ピンクのフリルのドレスで綺麗に着飾らされていた。
少女は屋敷の中庭を薔薇園にしたところに住んでおり、色とりどりの薔薇が咲く空間の真ん中で、大きな白いクッションにしなだれて一日を過ごしていた。
エス氏はもう、ずいぶん年を取っていた。
余生の全てを、彼女との甘美な時間に捧げること。
それが至福になっていた。
エス氏が杖をついて近づいていくと、少女は起き上がり、恭しく主人をエスコートした。
薔薇園の東屋で、優雅な食事会を楽しむ。
言葉は教えなかったが、マナーはきちんと躾けたので、少女は背筋を正して美しい所作でナイフとフォークを操ることができた。
そのそばには、いつも世話係の男が控えていた。
あたりはしんと静まり返り、食器が触れ合う音しかしない。
エス氏が微笑みかけると、少女も微笑みを返す。
言葉のいらない、無欠の世界。
これこそが真実の愛と、エス氏は感極まっていた。
エス氏の幸せはしかし、唐突に終わりを迎えた。
体調を崩して行った先の病院で、深く病に冒されていることがわかったのだ。
僅かな余命を告げられ、エス氏はいよいよ余生の清算をせねばならなくなった。
入院して延命を受けるより、エス氏は自然のまま、屋敷で死ぬことを選んだ。
白い壁に囲まれて消毒液の臭いを嗅ぐよりも、薔薇の香気と少女の微笑みに満たされていたかったのだ。
ほどなく、最期の時が来た。
薔薇園の大きな白いクッションに横たわり、エス氏は絶え絶えの息を吐き出していた。
少女はエス氏の傍らに膝を崩して、にこにこと微笑んでいた。
教えたとおりに、屈託もなく。
エス氏はその笑顔に癒やされ、体中の痛みが引いていくような心地でいたが、ふと、言い知れない不安がこみ上げてきた。
今にも死にそうな主人を眼下に、少女は笑っている。
にこにこにこにこ。屈託がない。
何か、酷く場違いで、狂気じみている。
そのことに気がついた時、エス氏は全身の痛みがぶり返していくのを感じた。
途方もない焦燥に駆られて、エス氏は口にした。
「娘よ」
少女は驚いた顔をした。
言葉を教えないと決めていたから、エス氏は少女の前で喋ったことがなかった。
「お前は、私を……愛していたのか……?」
言葉が、欲しかった。
この底なしの闇のような不安を拭う、光のような言葉が。
少女は答えなかった。
ただただ、無垢に笑っているだけだった。
「ご主人、あなたが望んだことじゃないですか」
代わりに、後ろに控える世話係の男が答えた。
「真実の愛には、言葉なんていらないんでしょう?」
エス氏の死に顔は、なんとも直視できないものだった。
長く仕えた主人の瞼を閉じてやる世話係の男の隣で、少女は微笑みを止めて覗き込んでいた。
「死んじゃったね」
鈴の鳴るような声だった。
「そうですね」
驚きもせず、世話係の男は頷いた。
「最後の最後で、あなた意地悪だわ。わざわざあんな風にいうなんて」
「それを言うなら、お嬢様こそ。答えて差し上げればよかったのに」
「仕方ないじゃない」
少女は可憐な口元に微笑み浮かべて言った。
「私は、嘘をつかない主義なのよ」