6 金次郎ながら伝説
時代が変われば、とは申しますが。
先日、「二宮金次郎が座った」という話題がニューストピックで流れていましたが、なんだその小学校の怪談みたいな話は? と耳を疑ったものです。
これ、どういうことかと申しますと、ご存知の方も多いとは思いますが、二宮尊徳(二宮金次郎)終焉の地としてゆかりのある、日光市の小学校に新しく建立された二宮金次郎の像が“座っていた”ことが話題になって取り上げられた。
これは報徳思想の普及・啓発団体「報徳道研修 いまいち一円会」が寄贈したもので、同会は『歩きスマホ』の危険性なども指摘される中、本を読み歩きしている立像ではなく座像にした」のだそうです。
さて、二宮金次郎といえば “明かりを灯すための油や時間を節約するため、働きながら学問をしていた”という逸話があまりにも有名です。
歩きながらでも勉学に励む姿が「勤勉」の象徴ということで、彼を模した銅像が小学校に建立されることが多いのですが、スタンダードは薪を背負い本を読みながら歩くという、もはや見たことがない人はいないというほど有名な立像です。
で、前述のとおり、『歩きスマホ』が問題視される中で「歩きながら本を読むなどけしからんのではないか」という声が上がった結果、座らせてみてはどうだろうか? と試みがなされた。それが座像の金次郎。
この「座像の金次郎」今回が初めてなのかと私調べましたところ、どうも以前からあるようでして、腰を下ろして読書をする、あるいは背負った薪を下ろして読書をする、というスタイルは昭和の終わり頃から登場していた模様で何も目新しいことではないそうです。
更にはジェットパックを背中に積んで、飛びながら読書をする金次郎もあります。(こちらはアート作品ですけどね)
ま、それはともかくとして、この手の話で実際に像そのものが撤去されたという事例も事欠かないそうで、寂しさの一方、子供が真似をして危ない、という声にも一定量(ごく少量ですが)の理解は働きます。
が、歩きスマホとくっつけてきたか、と。
歩きスマホは実際危ないのですが、まあこれをやったことがない人はまずいないでしょう。
通勤ラッシュの駅構内なんか、それでほとんど人がぶつからないで交錯しているのがミラクルでありまして、先日私が見た学生くんなど、左手で自転車を手押し、両耳にはイヤホン、右手に本というスタイルで、人間の持つ知覚の大半を塞いだ状態で歩いていました。
現代日本人はこの情報過多社会において、情報処理能力が格段に上がり、マルチタスクがこなせるような進化を遂げた新人類なので、対人対物センサーも優れており、瞬時の危機も回避できるようにはなっています(たぶん)。
ですが、そういう意味ではあの江戸の昔に「ながら」をやってのけた金次郎は大変優れた現代人的な頭脳の持ち主だったとも考えられるわけです。
(もっとも金次郎は歩き慣れた道の往復で本を読んでいただけですからおそらくは目を瞑っていても歩けただろうとは思われますが。)
そんな二宮金次郎という御仁がどういう方なのかをご存知ではない方もおられるかと思いますので、ここは礼儀として紹介しておかなくてはなりますまいと、例により薀蓄を晒しますが、正直彼の人生は波乱万丈で、ドラマとしても面白いです。NHKの大河でやってもいいくらいです。
二宮尊徳というのが本名で通称金次郎だそうです。江戸の末期に百姓家の長男として生まれ、わりに裕福だったせいもあってか父は割に浪費家で、そこへ大洪水に見舞われ家も田畑も流失し困窮する。
その後立て直しを図るも、暮らしは良くならず、金次郎は早朝から薪を取り、昼は夫役(いわば土方ですな)夜はわらじを編むという生活で生計を立てていたのですが、立て続けに両親が死去、さらには再び洪水に襲われすべてを失う。
彼の銅像のエピソードとなったのは、この後くらいの話で、実際は十五歳から十六歳くらいだったそうですから銅像はかなり若く作られていると考えてもいいようです。というのは金次郎は身長六尺(182センチ)、体重二十五貫(94キロ)と貧しいながらもすくすく育ったようで、本来ならかなりの巨像になりますし、かなりいかつい(当時からすればかなりでかい)風貌で、威圧感もハンパなかっただろうなと。
彼はこの後身を寄せた祖父家で、燃料代がもったいないと夜に読書をするのを咎められ、これをきっかけとして自身で菜を植え、菜種油を得て、それでいて収入を得るようになる。その後もこれを大きくし、生家の再興を目指して努力をします。
その後武家奉公人として働きながら、二宮家はもとより貧窮してゆく各家々の財務を管理し、財政改革を断行し、債務を消してゆくことで名が知られるようになる。つまりは会計士か税理士か売れっ子コンサルタントのような立ち位置にいたそうです。
これより後、災害後の村や地域、荒廃した村、財政困難な家政などの復興や改革を執り仕切り、次々と立て直してゆき、貧窮する民衆を救ったと言われております。
まあ、要するに、大変人の役に立った偉い人なのであります。
その薪を背負って読書をする二宮金次郎像の由来は、明治時代に発刊された伝記「報徳記」の中で「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず」という記述からだと言われております。ですから決して「読みながら歩いていた」ということが記されているわけではありません。
あるいは仕事の休憩の合間に、それこそ「座像の金次郎」のような姿で勉強をしていたかもしれないということであり、銅像から読み取る真意というものに鑑みたとき、いかに現代人がアホな事を言っているのかがよくおわかりでしょう。
「歩きながら本を読む」が「歩きスマホという不道徳を助長する」と繋げることで、どれほど二宮金次郎という人物の偉業をないがしろにしているのかを勘案できないことが、まさに不道徳と言えますし、アホ丸出しおよび失礼極まりない。
こういったことの真意を教えるのが学校であるというのに、何を漫才ネタギリギリの解釈を「わざわざ」するのかが私にはよくわかりません。
そして、それを言っているのが当の金次郎の思想を伝え広めようとする団体なのですから(自分たちで歩きスマホが云々と言っていた)いまいち呆れたものだと言わざるを得ません。
そんなに歩きスマホをさせたくないなら、「座ってスマホをいじっている石像」を建てればよろしかろう。それを見てお子達が座ってスマホをいじるようになるほどお利口さんだとは私は思いませんが。