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50 ゆとりはゆとり続けるのか

ゆとり世代、という呼び名。それは蔑称とも言われるのだが、当該世代以外の者は得てしてこれを使いたがる。バカとは言っていないが、間抜けだとは言っていないが、ゆるさ全開な字面といい、若輩者の不甲斐なさをこき下ろすには、格好の言葉なのかもしれません。


そんなわけで今回はゆとり世代について。

ゆとり世代をこき下ろして、自身の自虐感を和らげるためではなく、改めて世代を考えてみようではないかという試みです。


ご存知のように、私はゆとり世代ではありません。


世代区分には諸説あるようですが、おなじみのwikによると。(長いので割愛編集しますが)今一度ゆとり世代とは何なのかを見てみたい。


引用ココから↓


1987年度生まれ - 1989年度生まれ


幼少期に1990年代前半のバブルの余韻を目にしたものの、小学生のころに山一證券や北海道拓殖銀行の破綻をニュースで知り、平成不況の影響を受け、リストラやデフレを知りながら育っている。


中学校在学中の2002年度から学校完全週5日制に変更され、それによって、2006年から大学入試の基準が変更となった。


この世代は世界的な金融危機などの影響により厳しい就職状況で就職活動を行った。2010年卒(大卒)(1987年度生まれ)の就職率は60.8%であった。


1990年度生まれ - 1995年度生まれ


バブル景気の後半からバブル崩壊後に生まれており、好景気を全く知らない世代である。2000年頃にIT分野が急成長(ITバブルが発生)し、小学生の頃からインターネットや携帯電話に触れる機会が増え始めてきた時代でもあった。


1995年度生まれが小学校に入学した2002年度から学校完全週5日制が開始され、1990年度生まれ - 1994年度生まれは小学生時代の途中からそれらが開始された。その後、脱ゆとり教育へと路線を変えることとなるのだが、本格的に施行される前に卒業している。


しかし、保護者(1971年 - 1979年に実施された現代化カリキュラムによる詰め込み教育を受けた世代が多い)が公立学校でのゆとり教育に対し不安や不信を抱いて、早くから学力への危機感を持ったことから、学習塾への通塾者が増えたり、ゆとり教育や学校週5日制を実施しない私立の中高一貫校を中学受験した者が増えたほか、学力改善のための教育を学校や自治体独自で取り組むといったもことも行われたため、学力が回復傾向を示した世代でもある。


就職率は2010年卒以降増加しており2013年卒(大卒)(1990年度生まれ)は67.3%と、売り手市場の時とほぼ近い値まで回復している、逆に人手不足が問題となっている。


1996年度生まれ - 2003年度生まれ[編集]


幼少期から思春期である2000年代、2010年代では、IT事業が高度化してきた時代であり、2003年頃からの新三種の神器(デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビ)の登場やゲーム、パソコン、テレビ(アナログから地デジへ移行)、携帯電話(フィーチャー・フォンからスマートフォンに移行)などの分野で次々と新しいものが生まれる時代であった。


また、2015年に選挙権の年齢が20歳から18歳に引き下げられたため、少しだけ早く選挙が行えるようになった世代でもある。


2011年度から小学校で、2012年度からは中学校で脱ゆとり教育が始まった。


学校週5日制については「生きる力」を育むため必要だとされ、2011年以降も維持されている。しかし土曜日の扱いは学校や自治体の権限に委ねられるようになっている。


引用ココまで↑



もうこのくらい年代が分派すると何が何だかわからないのだが、およそ15年間の間に生まれた世代をひとくくりにしていると言ってもいいでしょう。広すぎるんですが。


で、ゆとり世代の文化や特徴としてまとめると、情報化社会の急速な発展の中で成長した世代で、ソーシャルネットワークがコミュニケーションツールとして完全に定着するなど、通信端末の所持が不可欠な世代で、インターネットやパソコンがある環境の中で育ったため、デジタルメディアとの親和性が高く、前世代とは隔世の感があります。


デジタルというとデジタルウォッチに始まりファミコンくらいしか触れなかった70年代からバブル前くらいに生まれた世代は、これに追随するように、デジタル文化を取り込んでいった形となるかと思います。明らかに「ゆとり」と呼ばれる人々が現社会構造をけん引したことは確かでしょう。


そのため、前世代は遅れた人類とみなす方があり、非効率と見えることも少なくはないようで、その意識が過去世代の人々との軋轢を生む一方、バブル崩壊のあとに続く経済不況を受け、堅実で安定した生活を求める傾向があり、流行に左右されず、無駄がなく自分にここちいいもの、プライドよりも実質性のあるものを選ぶという消費スタイルをもっています。


これが戦後高度経済成長期を生きてきた世代、あるいはそれらの親世代を見てきた団塊ジュニア世代からすると、無欲ともみえ、意識が低いともみえるのですな。

私が思うに、現況偉そうに言っている前世代の人間の成功と失敗を、つぶさに記録としてみせられた世代ともいえ、過去のモデルケースを持つが故、慎重にならざるを得ないというのは実に『まともな思考』かとも思われます。

ちなみに、結果を悟り高望みをしないがために、この世代は「さとり世代」とも呼ばれているようです。


そういう意味ではリアルに戦争を経験した戦中時代と、直接戦争に触れなかった戦後生まれ(ポスト団塊世代、三無世代、新人類)に思想的差が大きく出たのも一つの世代格差と言えるかもしれません。


そうも考えると、社会とは我々が作っているものだ、と人類は自負したがりますが、意外というか、もうこれ以上ないと言っていいほど、社会に翻弄されていることが分かります。

つまり社会性が人を作るのであり、人はその領分で「思考」して「指向」して「嗜好」しているに過ぎないともいえます。


最初からその箱庭に居たか、後から箱庭として囲われたか、でその庭の印象に違いが生じるのは仕方がないことです。人類誕生の黎明期が何もないだだっ広い荒野だったならば、そこから集団を形成し、国を作り、集落郡、街、家という単位で囲いをどんどん増やして、ユニット化していった。


その流れが社会構造にも表れてきているのではないでしょうか。


そういった概念からすると、われわれの世界は時代を経るごとに縮小していっていると言ってもいいでしょう。無論これは先進社会の日本のような国において適用される概念です。


実は個人の世界観は縮小傾向にある。世界と自分を対峙させない、というのが賢いやり方だと気づいてきたともいえます。グローバリズムという言葉とは相反するようにおもえますが、そもそも「全地球的」という発想そのものが、自分を世界の中心に据えている思考です(ほかにも世界の中心があることは理解している)


これを、皆がそれぞれの箱庭を作り、保持できるようになった世界、と言い換えてもよいでしょう。

したがって、既存の『社会性』を逸脱することも可能であったと。


それを強く自身で意識して運用できるようになった世代というのが、今現在いわれている「ゆとり、さとり世代」ともいえるのではないでしょうか。






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