49 煙草にも三分の利あり
とは、語源 「盗人にも三分の理あり」ですな。どんなに悪いやつでも犯罪に至った経緯にそれなりに理由をつけようと思えばつけられるという意味です。けして「利」ではないので、盗人の取り分が三分であるといった意味ではありません、念のため。
今回はもはやマイノリティの代名詞とも言える、タバコの話をします。
さて、私は5年前、喫煙に別れを告げるべく「絶煙」を決めました。「禁煙」というのは中止的な意味を感じるからあまり好きではありません。
別に健康被害を考えたわけではありません、つまりタバコのパッケージ表示が気に入らなかったのが最高の理由です。健康被害に関する注意書きがパッケージの大部分を占領して美意識のかけらもなく、以前は入っていた「疫学的な推計によると・・・」という一文もないとはもう、すでに感情的というか、予想というか、これ書いたのはどこぞのバカな嫌煙団体のやつかと思わされる。
要するに腹が立ったのです。こういうことまで書かれて堂々としていられないタバコという商品のプライドのなさに。
もともと私が喫煙を始めたのは、やむを得ずというか、好きではじめたわけではありませんでした。
いまから25年位前だとまだまだ「花粉症」というものへの認知度も原因もはっきりしない、というか知らなかったのもあるが、周囲にそれほど多くいたわけでもなく、まだ社会に出ていない私にとっては自分だけが花粉症患者であると思い込んでいたぐらい少なかったのだ。
そんな少年のわたしが考えたのは喫煙だった。タバコを吸ったら何かが変わるかもしれないと思ったのだ。酷くなるようであればやめるだろうし、改善するならタバコの害のほうがマシだと思った。ここで間違っていたのは「何も変わらない」という選択肢が抜けていたのだ。哀れである。
それから常習、ニコチン中毒になり、タバコのない生活はこれまで考えもしなかった。
もともと長生きする気はないので早死にも仕方ないと思っていたし、好きなことして死ぬのは当たり前のことだと思っていたから何の抵抗もなかった。
たまに節煙していたのは、車が汚れるのがいやで車内禁煙にしたり、家がタバコ臭くなるのを嫌い自宅禁煙にしたり、食事の際一人のときは禁煙席を選んだりして不用意に吸うのを避けていた。なによりライターを持ち歩かないことを決めていた。
金で買える、そこにあるといった状態では、人の我慢はすぐに萎えてしまいます。
タバコの値段が今の10倍になれば経済的に吸えなくなる人がでるでしょう。
しかし、我慢には変わりがないので、新たに闇タバコが出現することも、タバコ強盗が横行することも考えねばなりません。ニコチンに依存した状態というのは麻薬患者とさして変わらない状態であり、車がほしいけど買えないから我慢するという類のものではないのです。
さてここからが本題、わたしが文頭に三分の利を唱えたのはなぜかと申しますと、タバコというものが発明されてすでに何世紀にもわたっているわけです。それらに麻薬の類も入っていたにせよ人の求めるところは同じであるということです。酒も同じくであります、気体か液体の違いです。
今の現代の嫌煙キャンペーンの勢いでこのまま行きますと「タバコが絶滅する」のではないかと、もう少し突っ込んで考えてみると、文明もクソもないように思える喫煙活動にも何かメリットがあるはずだと思ったわけです。
この世に存在する限りメリットだけがあるものもないし、デメリットだけしかないものもあり得ない、万物には陰と陽があると考えるのが普通であり、その見地からするとタバコの良いところを世の中は見過ごしてきているのではないでしょうか?
喫煙者がいくらタバコの良いところを口にしても嫌煙者は「健康被害だ」と自らの健康を第一にして聞く耳を持たない。また嫌煙者は喫煙者を中毒患者としてみなし、理解を深めようともしない。実際喫煙したものしかタバコのよさはわからないであろうし、その味の感覚もわかるまい、理解しろというのは不可能でしょう。
わたしは喫煙したことを後悔はしないし、むしろ感謝している。
タバコにも3分の利とは、喫煙者ならば一度は経験している「ちょっと火を貸してくれませんか?」や「吸いますか?」と言われる事や、「一本分けてください」とか「それ、新しい銘柄ですね、どうですか?」とか他愛もないことであるが、喫煙者という枠組みだけでその見知らぬもの同士がタバコを吸い終える3分を共有することもあるのです。
無論、3分といわずとも3時間に及ぶこともあるし、それがきっかけとなって生涯の友や、ビジネスパートナーになることもあるだろう、喫煙者というのはそのようなきっかけを嫌煙者よりも多く持つ可能性があるというのは今までの経験で確実に利があったといえる。
私はタバコを吸う一連のしぐさというものは好きです。文化を感じる。何より良質のタバコの味や、香りは何物にも変えがたいものであります。これは嗜好品全般に言えることではないかと思います。
火をつける道具もやはり喫煙具として、様々な形のライターが生み出されたのは煙草文化のおかげですし、巧妙な灰皿の文化も面白い。
演劇の小道具にもなるし、演出にもなってきた。
そしてパッケージのデザインはほぼ定形に決められた直方体の可能性を引き出す、すばらしいデザインが考えられていた。それはいつも、すべての銘柄に言えることでした。
同じく下火になってしまったF1でも、スポンサーはたばこメーカーが多く、やっぱりデザインはかっこよかった。
大衆文化の重要な一翼を担ってきたのは確かなのに、それを一辺倒に失ってしまうもったいなさを感じています。
昨今ではすっかり煙草のCMはなくなりましたが、あれらのほとんどはイメージ広告というもので、要するに効能や効果を説明するものではないCMなんですが、それがとてもドラマティックでかっこよかったんです。映像的な演出も、音楽もとてもよかった。もう目にすることは難しいかもしれませんが。
まあ、嫌煙というものが今に始まったことではないというのは解ります。
健康被害という側面から否定的になるのもよくわかります。
臭いで料理が台無しになるというのも、わかります。私だって食事中に煙草の匂いはかぎたくありません。
服にも匂いつきますし、カラオケ屋とか最悪な匂いしてますしね。
御説ごもっとも。
煙草を吸う人が嫌われるのもよくわかります。嫌煙、愛煙者の人間関係ではその限りではないでしょう。
しかし私は、吸えない、嫌い――よりも、吸えるけど積極的には吸わないか、吸えないが吸う人を理解できる、という心づもりで喫煙者と嫌煙者を二元論で分けるのは避けたいと思う。
わたしは今もまだタバコを愛する一人であり、喫煙者と席を共にすることも、勧められて「ではいただきます」と吸うことも、おそらくいとわないでしょう。
タダ、映画の中の渋い主人公が、「ニコチン依存症になります」って書いてる煙草の箱を持っているのを見たら興ざめすることは間違いない。
で、今はタバコ吸ってないのかって?
今は紙巻きたばこをやめて、葉タバコをキセルで吸ってます。
タバコとは絶縁しましたよ、ちゃんと。(ちなみに外では一切すいません)




