38 モッタイナイ
環境分野で初めてノーベル平和賞を受賞した環境保護活動家、ワンガリ・マータイといえば「MOTTAINAI もったいない」の言葉で有名です。
勿体無いの由来は仏教語で書いて字の如く「物体ではなくなる」という意味です。
つまり、本来あるべき姿で使用価値があるものがそうでなくなることを惜しみ嘆くといったことを表している、のだそうです。
つまり、皿のように落として割ってしまうと、それはもう本来の意味を成さない物質に回帰してしまう、その瞬間の感情が「もったいない」ということです。
もったいないの歴史は古く江戸は元禄時代、ある屋敷の井戸から夜な夜な女の声で、主人のコレクションであるイヤープレートの皿を数える声が聞こえる。
「いちまい、にまい・・・きゅうまい・・・いちまいたりなぁい、いちねんぬけてる、もったいなぁああい」というのがいわゆるもったいないオバケという奴です。
このように、すべて揃っていないとコレクションとして不完全な場合も「もったいない」と嘆くのです。
うそです。
今回はリサイクルの話であります。
ペットボトルの再生利用というのが叫ばれてもはや久しいのですが、まず、使用済みのペットボトルを100として、そのうち資源回収されるのが80。残りの20パーセントはゴミとして焼却されています。(石油系の廃棄物をリサイクルに回さないで焼却するのはもったいないと考えるべきかというと、あながちそうではなく、生ゴミだけでは焼却炉の燃焼能力を上げなければいけないため、かえって燃費がかさむ)
では回収された内訳ですが、実に工業資源に飢えている中国へと、残りが国内でのリサイクル資源対象、さらにそのうちペットボトル素材を加工した商品や純粋にペットボトルとして再生されているようです。
ただここには様々な問題があり、消費者が廃棄したペットボトルを回収業者が回収、それを再生事業者が買い取る、という構造をとっている限り、原材料の安定化が望めず、なおかつ再生には多大なエネルギーが必要となるため、再生利用商品は割高とならざるを得ないのです。
事実、ペットボトルを資源化してサイドペットボトルを作るよりも、新たに石油からペットボトルを作る方がコストがかかりません。
ペットボトルは再生資源と謳われつつも、さほどペットボトル再生品によるの商品を目にした事はないことにお気づきかとは思います、事実数は少ない。それはなぜか?
同じグレードのものと比べると価格がどうしても1割ほど高くなるからだそうです。
消費者心理からして売れるわけがない。
無論ながらこのような状態では再生資源事業も立ち行かなくなり、数年前ならば華々しい未来を見据えたリサイクル事業そのものが破綻してしまったケースもあります。
再生業者は廃ペットボトルを回収業者から買い取るのですが、値は中国のほうが大きく、なにも国内業者に義理立てするようなことでもないため回収業は高く買い取ってくれるほうに売る。
ならばと、業を煮やして国内業者が取る手段は、買取価格の引き上げである。当然利益率は低くなり、それは経営悪化へと繋がる。
しかも日本から中国に運ぶだけのエネルギーは、本来の地球資源、という観点からすると本末転倒に陥ります。
とある番組で、リサイクル現場からのリポーターがしきりに「これってリサイクルされてないですよね?私たちに戻ってきていませんよね?」と、言っていました。
無理して資源化させようとした結果じゃないのか? と私は思います。
そもそも、元々は使い終わったペットボトルはゴミとしての認識しかなく、ビンよりも輸送コストが安く付き、流通の効率化が望めることが最大のメリットだったはずです。
私が小学生くらいの時にビンでジュースを売るという風景は絶滅しました。それは一瞬ともいえるほどの早さで入れ替わりました。
これは飲料メーカーが輸送コストと容器回収の不要性というメリットを強く認識したからで、無論その時代に環境保護やリサイクルなどという概念は一般庶民には皆無でした。
昔のコカコーラなどまだ記憶に新しい方もいるとおもいますが、1リットルのビンで販売されていました。当時200円もしたかどうかというところ、空き瓶を販売店にもってゆくと30円返してくれました。
だから我々のようなクソガキはこぞってジュースの空き瓶を探しては販売店に持って行って小遣い稼ぎをしたものです。
悪質なのになると販売店の裏に積み上げている空き瓶をくすねて、それを再び換金するという奴もいたのですが、アホなのでそれを同じ店でするのですぐに店のオバハンにばれて怒られていました。
昔はこの制度のため、かなりの確率でリユース(再利用)されていました。
今でも酒瓶はリユースされている。(リターナルビンというのだが)ビールや酒のビンは他のビンとは違うつくりになっていて、紫外線などで中身が変質しないように遮光する機能を持っています。
アルミ缶の普及でビールなどの多くは缶になりましたが、日本酒などのデリケートな風味や味わいを旨とする飲料はいまだに多くが瓶詰めのままであります。
「資源化」する必要がなかったのですね。
ヨーロッパでは随分前からペットボトルの再利用が行われています。再資源化ではなく単純な洗浄再利用、つまりリターナルであります。これらは一昔前の日本と同じく空いたペットボトルをもってゆけば、その回収したスーパーで買い物の際に換金してくれるという実に合理的な方法が行われています。
無論日本のペットボトルよりも随分と丈夫に作られており、ビンとペットの両方の利点を兼ね備えた理想的な容器として消費者に大切に使用されている。
ペットボトルというのはそもそも商品ではなく、包装容器であり、商品は中身の飲料である。そういった考え方がペットボトルをゴミにした。だからゴミを再生、再利用するという考え方が現在ではまかり通っているのです。
どうしてもゴミになりがちな包装紙、買い物袋も、その昔は使用率が低かったものです。
馬鹿みたいに何でもかんでも包装するのは百貨店くらいのものでした。
豆腐に代表されるようにラッパの音と共に豆腐屋が町に売りに来たら、みんな家からボールを持って出て豆腐屋にぶつけたものであります。いや、ボウルをもってそこに入れてもらったものであります。(私の住んでいた地域ではあった、かすかな記憶ではあるが)
今やマイバッグなどといわれ特別な扱いを受けるいわゆる自前の買い物袋もこの当時では当たり前でした。肉屋も基本的には量り売りで紙に包んで客に渡していた、スチロールのトレイなどなかった。お菓子なんかも底の深いスコップみたいなもので紙袋かビニール袋にザザーって入れて渡されたものです。
つまり、最初から包装状態になっている商品が非常に少なかったのです。
衛生的ではなかった安全ではなかった、そういう言い方も出来るでしょう、たしかに。
しかしそのとき「もったいないから袋を使わないようにしよう」という考えがあったわけでも「ゴミを減らすために」という考えがあったわけでもありません。ただ極自然にそうしていただけであり、当たり前の風景だったのです。
だが商店街が消え、スーパーマーケットが乱立したころからこの風景は吹き飛ぶように消えていきました。消費者は安くて手に取りやすい、店主といらぬ世間話をしないで済む、自分で選んだものをレジで一括精算できる高効率のスーパーマーケット方式を選択しました。
ここまで言わずとも誰がこのような高消費社会を生み出したのかは明白でありましょう。我々自身が無駄を省いて、面倒ごとを回避しようとして、時間を効率よく使うために、どんどんと合理的でないものを排他していったのです。
だから、いまさら急ぎすぎた社会を揶揄するかのごとく「ゆとり」なんて言葉が生まれ、こぞってそれを求めるために大枚をはたき、贅沢な時間を満喫する。
今まではそんな何もしない無駄な時間を過ごすことを「時間がもったいない」といっていたのです。
所詮日本人はなにをもっていても「もったいない」と言い続けます。
要するに「MOTTAINAI」のもつ、「自然環境へのリスペクト」なる崇高なまでに昇華された理念は日本人以外の民族が感銘を受けただけであり、日本人のそれとは少し違うように思えます。
古くよりリサイクルを自然に行ってきた歴史と民族性と文化と社会を持ちながら、その価値を生かしきれていない日本は本当に「もったいない国」だなと、私は思います。




