37 かくして鯨は咆える
さて、テロというものはそもそも人々に「恐怖や脅威を与える」という名目で無差別に行われる殺害、破壊、傷害、障害行為で国際通念上的にも人道的にも大変卑劣な行為とされています。しかし、この行為に一定の理解もし得ることは事実です。
力なきものが巨大な権力に抗う一つの手段として暗殺や狙撃、爆破を含むテロ行為があります。たんに見る側を変えれば、かつてファシズムに対抗するレジスタンスは正義と見做されることが往々にしてありますが、あれも転じればテロです。
テロは卑劣ではあるが戦術のひとつと考えれば大変効率がいい。
ではどこからどこまでが戦術行為なのか? というと正規軍か非正規戦闘集団か、というあたりになるかと思われます。
テロという言葉をお茶の間の主婦までもが知るメジャーの域まで大きく引き上げたアメリカの9.11以降、アメリカ政府はアフガンからイラクにいたるまでを国家間の戦争ではなく、「今回の敵は見えない敵、テロリズムだ」と、断言した時点で、世界中のあらゆる人間が敵であるとしました。
ゲリラ、テロが戦闘不法行為であるからそれに抗するに正規の軍隊であるアメリカ軍までもテロ的戦略を組まねばならなくなる。(と、いうか自身の不法行為を隠すために「テロが相手」だなんて言ったに過ぎないのだが)
しかし、これでアメリカは半永久的に戦争状態を維持し世界に脅威を与え続け軍需産業を伸ばし続ける土壌作りに成功しました。
乱暴な言い方になりますが、平和とはあらゆる不安がない状態をいい、不安がないということは不安に対する無駄な消費もしないという事で、平和は資本経済に不景気を生み出すという理屈は普通にまかりとおります。
「大儀ある戦争」は世界が騙されたお題目で、本当はアメリカの「大利ある戦争」であって、貿易センタービルを二本くらいぶっ倒しても儲かる話だったのだろうと邪推しています。
戦闘行為あるところにアメリカ軍ありといった、まさに利権あるところには所かまわず出張ってくる、自称世界の警察官ですが、利益追求するところは世界の警備会社というほうが正しいかもしれません。
つまり、警備会社が売り上げを伸ばそうとする場合、どういった方法が一番手っ取り早いかわかるだろうか?(警備業に従事されてる皆様には大変失礼な言い方になるが)、自身の社内である部署を作り、そこの人員である一定の地域を荒らす。無論本当に犯罪にまでは至る必要はないが地域住民になかった、平和への危機感を芽生えさせる程のきっかけ作りをする。その後ころあいを見て警備会社の営業マンが飛び込みセールスといった具合で契約率は飛躍的に向上します。
この構造が事実ではないことははっきり明記しておきますが、ホームセキュリティという商品の需要が警備会社の故意でないにせよ、社会不安をマスコミなどが煽るせいで、思いもしなかった恐怖感に駆られるのは一般市民の我々で、軍隊の存続理論も同じことであります。
備えるに越したことはないし古今東西軍隊を持たなかった国は滅ぼされ、泥棒も人斬りも太古の昔からいた。備えあれば憂いなしであります。
では今よりも物騒な昔にホームセキュリティという概念はなかったのか?
日本で言うならば、障子のような紙と木で出来た開口から脅威が侵入する事はたやすいため雨戸といった堅牢(?)な建具を夜間は閉めるという知恵が生まれました。これだって相応の防犯防災機能を果たしている。しかし対人セキュリティとして最もすぐれた各種センサー能力を持ち、脅威を凌駕する運動性能で撃退を可能とする生体ホームセキュリティはやはり、番犬だっただろうなと思います。
だがこちらの番犬は少し歓迎できません。
海の番犬と自ら称する、シーシェパードという反捕鯨団体が、日本の調査捕鯨船に向かって度重なる挑発行動と妨害行動を繰り返し、傷害事件にまでなったことは記憶に新しいかと。
しかし、いかにも狡猾な「悪の大権化」みたいな顔をしたシーシェパード代表ポール・ワトソンのおっさんはまさに「自分たちは人には危害を加えていない、何も悪いことはしていない」と豪語する。
いきなりだが、本気で鯨を守ろう、人間よりも動物や自然が大切だ、などと考えている人間がいるわけがない、と私は断言したい。もしそのように考えているとすればちょっと(中略)なのではないだろうかと思います。
もともとグリンピースをはじめとする環境保護団体がどの程度の財源と資金を持っているのかは判らないが、明らかに活動が営利目的ではないため、資金は自腹か寄付に頼っているのが現状で、おおよそグリンピースで年間数百億円の寄付金があるそうです。
この事実からも活動には「金がかかる」ということと、活動をすれば「お金が儲かる」ということがよくわかるはなしです。
ちなみにシーシェパードの代表ポール・ワトソンはICPO(銭形のとっつあんの居る所)から国際指名手配されてるそうで、シーシェパード自身もテロ団体、あるいは海賊の認定を受けたという経緯があります。
日本は古来から捕鯨の習慣がありました。世界でも指折りの捕鯨国です。
牛肉が手に入らない時代、鯨肉というのは動物性たんぱく質を摂取するのにうってつけだった。無論肉など食わずとも人間は生きてはいけるのですが、それを言い出すとベジタリアンまで範疇に入れた議論になるのでここではさておき。
現在暫定的に「調査捕鯨」という名目で捕鯨を許されてはいますが、原則的にはIWCに禁止とされているとしても過言ではありません。
人類の捕鯨の歴史は古く、何も日本や北欧、アラスカの一部原住民だけが特別ではありません。
鯨を絶滅寸前に追いやったのは、世界規模の商業捕鯨という各国が外貨を稼ぐための経済観念であり、鯨を「資源」として捕らえていたことによります。
事実中世の時代では、鯨肉は食料として(遠洋で取れたものはこの当時冷凍の技術がなかったため現地で油と髭などを取ると肉は捨てていた)、鯨油は燃料として、皮膚や体毛や髭に関しては工芸品や鎧兜などの工業原料になった。世界的に産業が急激に発達した時代鯨なくして存在し得ないモノも多くあるのです。有名なところではバイオリンの弓などは鯨の髭であることは御存知でしょう。
近代に入ると、石油資源が世界の中心となり鯨油は不要、化学合成樹脂などの発達により鯨の部位を工業原料として扱う意味が失せ、旨い牛肉や豚肉や鶏肉が安定して流通し、なにもあんな鯨肉のような臭い肉を食べなくてもよくなりました。
そういった世界経済の発展の下、欧米諸国は乱獲で頭数が激減し獲れなくなった鯨を延々と追い求めることに採算が合わずに手を引いていったのです。けして鯨がかわいそうだといった意味で捕鯨をやめたのではありません。商業捕鯨が下火になってから半世紀を経ているわけですが、当然ながらその間に鯨の頭数は復元し、現在では商業捕鯨が始まる前までの頭数に戻っているという話もあります。
しかし、今ではまるで先進国の中で、日本だけが意固地になって古来からの捕鯨にこだわっているような印象を受けますし、そのように報道されることも少なくありませんが、全然違います。
鎖国時代のチョンマゲ日本に外貨を稼ぐという観念はない上、遠洋への捕鯨も行っていない(遠洋へ出ることは幕府から禁止されていた)、そのため近海で取れた鯨しか狩猟していないため、食肉の文化が現在まで継続されているのです。
要するに乱獲の中心になったのは当時の欧米諸国であり、現在の捕鯨国はその負の遺産を押し付けられているとしか言えない状況なのです。
商業捕鯨は明治以降近代になってからであり、戦後IWCに加盟してからはそのガイドラインに沿って捕鯨を行っています。科学調査を建前とした調査捕鯨というものが今のところギリギリ許されている範疇であり、もちろん商業に加担しないのだから毎年の捕獲数は定められているが、それでも捕獲頭数に至らないというのが現状だそうです。
では、科学調査は建前と書いたが、それ科学調査に殺して捕らえ、解体する必要があるのかという疑問が起こることは極自然でしょう。
そう、その必要はない。
ではなぜ、日本はそんな奇怪な理屈を持ち出してまで捕鯨にこだわるのか、です。
反捕鯨が叫ばれて四半世紀、日本人が海洋資源を漁っているという現実は否めませんが、現在世界で数国が商業捕鯨をしたところで種が絶滅する事がないくらい鯨資源の需要の低さから見て簡単にわかりましょう。
反面、揚子江カワイルカは中国の汚染工業排水で簡単に絶滅しました。
一部のエセネイチャリストが言う様に、鯨やイルカは頭のいい動物だから殺してはいけないと、あの愛らしい姿を見ればそうも思いたくはなるが、そういう理屈ならば一番殺してはいけないのは人間ということになるはずですが、もちろん誰もそんな風には言わないし、戦争もなくならない。
資源のない国が資源を獲得しにゆくのは当然です。日本が諸外国から資源封鎖されたらたちまち困窮してしまうことは目に見えています。だからこそ日本は資源獲得できる術を外圧によりやすやすと手放すわけにはいかないのです。
鯨はもはや資源とは言わないであろう、無論そうであります、しかし捕鯨を封鎖することを容認すれば次に何を封鎖されるかわかったモノではありません。
それに日本国内には少なくとも(和歌山県の太子町のように)捕鯨関連商業で生計を立てている人間もいます。
もし捕鯨を本当に禁止させたいのであれば捕鯨関連業者を救うことからはじめなければならない。それが筋というものです。
話が脱線しまくったように感じるお方もおられるかもしれませんが、ここで改めてアメリカの大利ある戦争を思い起こして欲しい。
テロの標的にされた戦う国家、弱者に向けられた矛と向き合う正義の味方、しかし一方的な正当性を盾に、手段を問わず矛を向けるならばそれはテロというものです。
そして、鯨であろうが自然環境であろうが、人権問題であろうが、声を大にするパフォーマンス豊かな非営利団体というのもまた、弱者を装って一方的な理屈と高尚な理念を説き向かう矛先を問わないというなら、それもまたテロです。
さて、人が戦い殺し合うという行為に本当に大義などありますでしょうか。
という話を、ぜひとも頭のいい鯨たちと話をしてみたいものです。




