23 オタク道
そういや今まで何台かパソコンを新調してきましたが全て中古でまかなっていたのです。それゆえに最初はWindows95に始まり途中でアイマックが参入しつつ、2000、ME、XP、VISTAと変遷し、いつも最新機種より一つ前のOSを搭載しているマシンがメインとなっていました。
別に古い方が味があるといって旧式のパソコンを使っていたわけではないのですが、前回は一念発起して「新品を買おう!Windows7だ!」と意気込んだのですが、あるところにはある、どこからか中古が出てくるもので、結局ロハというその誘惑に負け、再びXPとなりました。
それでも世代的には10年前のマシン、ITインフラの寄せる波に抗うことはかなわず、仕方なく今回Win10の導入に踏み切ることになり、マシンも中古だけど金出して買ったのです。
もうね、その操作感の違いにキレそうになるんですよ。
巷ではなぜか私はパソコンに強いということになっていますが、実は全然駄目です。
どちらかというと動かなくなると筐体をバンバン叩くようなタイプの人間です。
ですからパソコンが出来る人というのは私にとっては外国語が話せる人と同義くらい次元の違う方で、いつもながらHTMLをサクサク操作している姿に惚れ惚れするんです。
そもそも大昔、まだインターネットもなく記録メディアもカセットテープやらフロッピーのみで記録していたような時代あたりまで遡ると、いっぱしのマシン(というかそこまで市場が熟成していないため)なら数百万といった時代があったのでした。
こういうものを実際買える人というのは、お金持ちというよりも今で言うマニアな人々で、話の端々に聞くところによると、ゲームやらプログラミングやらパソコン通信やら、そういった楽しみ方がメインだったようです。
まあ、私の世界からすれば、ちょうどラジコンカーのキットを自分で組んで走らせるといった感じに似ているかと思います。当然ながら私はゲームやパソコンのような二次元の世界にはとんと興味がなく、かろうじてコンピューターといわれるものに触れていたとすれば、ファミリーコンピューターくらいでした。
おマニアな方々はいわゆる電気屋街を根城としており、その当時から大阪なら日本橋、東京なら秋葉原ですが、現在しか知らない方はアニメとコスプレの街のような印象を受けますが、本来はそういったおマニアな方々が鼻息を荒くするちょいとアングラな街並みで、かなーり怪しい場所も少なくはありませんでした。
特に、現在のように家電の量販店が地方のそこここに乱立するまでは、「値切ってナンボ」が常識の値交渉が出来る電気屋が立ち並び、品揃えも豊富で、電車賃を払って行って買うくらいの価値はありました。
ちなみに、この前「来た見た買った」で有名な日本橋で老舗のキタ商店のCMを見たのですが、昔は「来た見た、こうたー!」だったんですが、いつからかリニューアルされて「来た見た、買った!」になっており、大阪弁では通じないと考えたのか、グローバリズムの波が押し寄せていることを感じたものです。
ま、おマニアな人々は、そのあたりでは手に入らないパソコンの部品や、電気工作部品などを手に入れるためにそういった電気屋街に足繁く通っておったので、いつしかああいった街がインドア系オタクの街として隆盛していったのでした。
そして、それに付随して、パーツを組んだりプログラムを走らせることには一定の知識が必要なため、自然とパソコンという機械との付き合い方と社会ができてきたのですな。
むろんWindowsなんかまだない時代でしたから、彼らは本当の意味でコンピューターの髄の部分まで理解しているともいえるわけで「Windowsが扱える」というのとはまた違った知識と技術で、当時はそんなこと知っていたとしてもほとんど世間で役に立たなかった時代から、20数年経て過去の投資に見合うだけの需要が成立し、いまや大企業で一つの部署を任されるという大躍進を遂げたおマニアさんも多くおられると思われます。
もちろん彼らに先見の明があったわけではなく、自身の楽しみのために続けていたものをたまたま時代が迎合したということなのでしょうけども、ま、なにがどうなるやら人生はよくわかりませんなぁ。
で、時を経てアキバ、ポン橋は電気屋街という側面をぐっと押しのけて、漫画やアニメの顔を持つようになり久しいのですが、電気屋街時代からこの分野も細々とありまして、その一角がいわゆる現在ではフィギュアにはじまる造形分野のオタクの巣窟でもあったのです。
そんな業界では『ガレージキット』なるものがありまして、最近ではいかにもなガレキはあまり見かけなくなりましたが、これは販路が膨れ上がりいっぱしの商品として流通できるほど(アニメ業界とともに)業界が潤ったためです。
かの有名な『海洋堂』ももともとはガレージキットメーカーでありまして、チョコエッグでブレークしましたし、能力の高い造形作家も次々と業界進出し、この業界を揺るがぬものに仕立て上げました。
そもそもガレージキットとは大手の模型メーカーが一般の需要を見込めないため生産がなされない、マイナーな作品のキャラクターやロボット類、あるいは大手メーカーが手がけていてもデティールの甘さやプロポーションのダサさを造形作家のセンスでアレンジやモディファイし原型を作ることに意義があった模型業界のカテゴリーの一つで、ガレージというだけあって地下産業的な背景がありました。
そのため、原型からシリコンで型をおこし、レジンキャストなどで複製物を手作業で一体一体作るという、非常に地味なことが行われておりました。つまり原型が壊れた時点、あるいは型が壊れた時点で生産はストップするわけで、基本的には大量生産が出来ない、常に限定生産的な位置付けをされていたわけです。
そのためマニアは(この当時はオタクは相当に世間から白い目で見られていました)こぞってン万円のガレージキットを買いあさっていたのでありました。
無論当時の私にはそれほどの経済力はないため見るだけで終わっていましたが、自分の欲しいものを作りたいという欲求から、生産も販売もされていない被造物を欲するあまり、しばしばスクラッチビルドといった、一点もの製作に心血を注いで自己満足に浸っていたわけです。
レベルの差はあれ、その一人が私だった、とまあ思っていただいても構いません。
今となってはドラゴンボール関係のフィギアなんぞ腐るほど巷にあふれておるのですが、この当時では皆無でした。(ほんとうになかったんだよ)
ドラゴンボールといえば、知らない人はいないと思いますが、丁度私が小学校の高学年くらいから連載が始まって、その数年後からアニメ放映となったと思いますが、「Drスランプ」で一斉を風靡した鳥山明氏の第二弾大ヒットとなり、二十数年経った今でもその人気が衰えることがないという事実はまさに驚愕であります。
さてさて、そんな折、なんどか再放映されているシーンでも人気の高いフリーザ編というのがありまして、元来敵役であったサイヤ人のベジータが大活躍する見せ場が盛りだくさんの、魅力的なエピソードが盛り込まれているのですが、この当時私が中学生くらいだったか?
ワンフェス(を知っている時点でオタク)が大阪でビルの一室を借りて細々やっていた時ですから、相当昔です。
そのワンフェス(ワンダーフェスティバル ガレージキットの展示即売会 多分当時はゼネプロ主催、現海洋堂主催に移行し、現在ではコミケに並ぶオタクやコスプレイヤーたちにはなくてはならない年間一大行事になっている)に、普段は見られないガレージキットなどを足しげく見物に行っていたのが私の過去でございました。
そこでささやかながらコンテストなどもあったのですね。
それで自作のベジータフィギュアを制作して出品したのがモデラーとしての最後ともいえる思い出です。
なんか賞をもらったような気もしますが忘れました。
今ではどこへ行ってもそこそこの知名度のキャラクターフィギアなら(あるいは多少マイナーでも作家やメーカーが増えた分)、手ごろな値段で手に入るようになってしまい、求める側からすればよい時代になったなという感想ですが、逆にもはや一から素材をこねくり回してスクラッチするのが馬鹿らしくなり、模型業界に背を向けた方々も少なくはないでしょう。私も十代のうちにすっぱりとモデラー人生から足を洗っています。
こういうお話をするといつも思うことですが、どの業界にもこの家内製ガレージキット全盛期のような黎明期というものはあります。
すでに恩恵を受けてしまっている人々にしてその過去の遺物のような時代的価値は一生かかってもわからないものでして、古い世代が口を開けば単なる苦労自慢話となり、現代の若い世代から見ればそれらが良くはわからないけども朝焼けのかなたのように光り輝いて聞こえるのもそれなりに仕方のないことかもしれません。
けど実際は眩い光の中にいたどころか、欲しいものを手に入れるために、馬鹿みたいに追いつけない太陽を追いかけて地球を一周してきたような人たちで、「そんなことをしてなんになる?」と笑い蔑まれてきたという歴史があります。
ふとそんな自分を思い返してみるも、結局今も形は変われど同じようなことしてるじゃねーかと、変わらない自分に安堵したりもしています。




