表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/56

1 ヴァン・アレン帯ンデー

なんとなーくバレンタインって聞くとヴァン・アレン帯を思い出してしまいまして。


別に全然関係ないんですが、一応説明しておきますと。


ヴァン・アレン帯とは、地球の磁場にとらえられた、陽子、電子からなる放射線帯でして。


地球を360度ドーナツ状にとりまいており、内帯と外帯との二層構造になっております。赤道付近が最も層が厚く、極軸付近は層が極めて薄く、内帯は陽子が多く2000から5000キロ上空にあり、外帯は10000から20000キロに位置する大きな帯で、電子が多いそうな。


太陽風などからの粒子が地球の磁場に捕らわれて形成されるという、ちょっとした電子レンジのような空間で、強い放射能帯ということでも知られております。ですから過去には、宇宙船でヴァン・アレン帯を通過すると人体に悪影響があり、危険だとされており、それ故人類は地球圏外に出られないだとか、月まで行ったのは嘘だとか言われておりました。無論今では通過時間がわずかであり、宇宙船、宇宙服による遮蔽や防護が可能なことから、ほとんど問題はないと言われております。


ただまあ、私も過去はアメリカの月面着陸否定派だったんですが、最近は「月まではいけるよなー」と考えを改めました。けど「着陸はできんよなー」というあたりのスタンスです。


一応その根拠というか、直感的に思うところ。


科学を前に直感でモノを言うなと言われそうですが、実際うまくいきすぎなところがどうも、と思うわけでして。


月軌道上まで宇宙船が到達できるところまではまあ、頷ける話なんですが、実際そこから着陸船を切り離して、操作して降下する、その後に着陸船単体で浮上し、再び月軌道上空で母船とドッキングするということが可能なのかとどうしても疑ってしまうのです。


と、いうのも、月の重力が地球の六分の一で浮上に際しさほどの推力が必要がないからというのもまだ納得はいきますし、ろくなコンピューターを搭載していない当時のアポロ号でも、乗組員の技術習熟度や管制室のサポート力が高かったためうまくいったと言われればそれまでなんですが、月軌道上で待機していた母船の乗組員はたった一人で、着陸船には二人、この二つの乗り物を無重力空間で正確にタイミングを逃さずドッキングさせることが本当に可能なのかという部分は、非常に疑問で、ランデブーまで運よくできたとしてもスラスターで姿勢制御を(おそらく手動で)繰り返してドッキングできるような気がしません。


もちろん「した」から「できた」ということは言えますが、私からすれば当時の技術的にはリスクが高すぎるドッキングだと思いますし、なんなら着陸船に乗ってるもう一人が「もやいロープ」でも投げて母船と着陸船を引き寄せる方法のほうがよほど確実なドッキングが望めるのではないかというレベルでして。


無論宇宙空間でロープは投げられませんが。


まあランデブーに失敗してたら確実に着陸船は宇宙のかなたにほおり出される運命だったのですから、アームストロングとオルドリンは根性あるよなぁ、としみじみ思うわけです。


と、いう話はさておき。


バレンタインデーの話でした。


某小学校などでは「バレンタインデーにチョコをもらえる子ともらえない子があからさまに出てしまうのは教育上よろしくない」として、学校でチョコを渡すのを禁止したという話があります。


もちろん学校にお菓子の類を持ちこむことが元来タブーであることは言うまでもありませんが、まあ、ただ、不公平や差別観をその理由にしようとは思いもしませんでした。


だいたいもらえる子ともらえない子というと、少なくとも私などの時代は一パーセントがもらえる子で、あとの九九パーセントの子はもらえない子という分布図であったので、そんな不公平を感じるなどありませんでしたし、なによりもらった子に対し嫉妬ややっかむようなことはしませんでしたし、そもそもそういう気持ちすら起きないくらい『チョコを渡される』というのは伝説のような事件だったわけです。


それが現在ではどのように様変わりしたのかは判りませんが、何より言えるのは、それを親がでかい顔して『もらえない子がかわいそうだ』などとしたり顔で学校に提議してくることの恥ずかしさで、それって将来も結婚できないうちの子がかわいそうだから結婚式には呼ばないで、とか言っているのと同じだと思うのですが?


幼児教育において「と競争で順位をつけない」という本末転倒な慣習が現れてから、ついにバレンタインデーにまで及んだということでして、あるべき差を認めず子供の個性や価値や立場を平滑化しようと躍起になる保護者というのは一体何なんでしょうか?


その割には受験でいい学校に行けるように勉強しろ、塾へ行け、習い事をがんばれとケツをたたいている姿はどうもいびつな人格形成の温床になっているのではないかと思われるんです。


たまーに若い人と会話をすると、私も大人なりに意見を言うこともあるわけですよ。そういう時限って若い十代の子は私に「えーなにその上から目線?」とかいうわけです。


上から目線?


そりゃ、わたしは偉そうだとか同年代からも言われますが、十代の人間から上から目線って。へたすりゃお前らの親より年上だって。上から目線なの当たり前だろうが!と言ってやりたくなる。(いいましたけど)


どうも自分の立場を判っていないのか、あらゆる人々は自分と平等で、同様の権利を有していると勘違いしているような気がする。別にそこだけ切り取ってどうこう言うつもりじゃないんですが、少なくとも私が生きて社会を見ている今のところの結果として言えるのは、人類は平等ではないし、同様の権利を有してもいない。こと未成年に関しては基本的な人権すら保障されてはいない、もしくは義務や業務を履行しないで福祉だけを甘受しているわけです。

ヒトはそれぞれの環境や立場や役割において、不平等だとか不公平だとかいうものを飲みながら生きているのが現実で、結果として頑張った人はその道のプロフェッショナルになれたり、渡世術にたけている人はうまく生きてきたり、資本が潤沢にあったり、親族が強大な利権を有していたりでそのおこぼれで悠々と暮らす人もいるわけです。


そこでどれもこれも、だれもかれも、みんな頑張っているのだから同じように褒めたたえようというのは単なる欺瞞でしかないと思うのですが。

それは甘やかしというより、能力のある人材が能力のない人間に足を引っ張られて伸びないのと、能力のない人間が大きな顔をして能力以上のものを欲するという、とんでもない社会の形成に一躍買っていることになるのではないかと思うわけです。


別にダメなやつは死んでもよし、とかいうつもりはありません。


もしそうなら私も首をくくってるはずです。


ですが、ダメなやつはだめなやつなりに一生懸命生きて、自分のできることで自分を生かすという術を模索し獲得しているものなんです。それが過去の成功だったり喜びだったり失敗だったり挫折だったりと、幼少期の記憶が現在まで続く自分の人生の起点になっている人は少なくないと思います。


まあ、バレンタインデーにチョコを貰えたもらえないで人生がさほど変わる人は稀でしょうけど、なんか不穏な空気だなと、古い世代の私なんかは思うわけです。


今まで私の元にはバレンタインデーのバの字すらこなかかったわ。

なにより私がチョコを貰っていないのだから、おそらく『もらえない子はかわいそうだから誰にもあげないキャンペーン』は日本全国に波及しているに違いないのです。


きっとそうだ


そうにきまってる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ