美形はお得です
目を醒ましたときの体の感覚で、大体眠っていたのは三時間くらいだろうかと思いながら、有紗はまだ少し眠気の残っている頭をふるりと振った。
石造りの壁、小さな机と椅子だけがある小さな部屋。
家具の大きさからして、この部屋の主はきっと女性だったのだろうな、とぼんやり思う。
のそのそと起きだして、少し軋むドアを開いた有紗は、その途端勢いよく跳ね起きた和馬の様子に、きょとんと目を見開いた。
「……何やってんですか?」
番犬よろしく部屋の入り口に座り込んでいたらしい和馬が、何やらひどく焦った様子で詰め寄ってくる。
「言葉!」
「はい?」
なんのこっちゃ、と目を丸くした有紗に、和馬は一層焦りを滲ませた様子で言い募る。
「だから! おまえがいなくなって少ししてから、いきなりあのアホと言葉が通じなくなっちまったんだよ! どうにか身振り手振りの手旗信号で、あいつがオレらの服を買いにいったらしいのはわかったけど!」
「――あー……。すみません。言うのを忘れてました」
「何を!」
ぎゃあ、と掴みかからんばかりの勢いの和馬を、落ち着いてくれるように両手を上げてどうどうと宥める。
「わたしが寝たので、言葉が通じるようにしてた術式が解除されちゃったんですね。今、かけ直しますから。――〈意思疎通〉」
今まではいつもひとりだったから、自分が眠ることでこの術式が解除されることなど意識したことがなかったのだ。
これからは、和馬が起きている間は眠らないようにしなければならないな、と思いながら、心許なそうにこちらを見ている和馬を見上げる。
(……まずいです、可愛いですよ? その捨てられた仔犬のような瞳は反則だと思います! 図体は大型犬ってとこですけど、それでもとっても可愛いです!)
じっと見つめてくる漆黒の瞳に、うっかりきゅんきゅんときめいてしまったのは、今後も内緒にしておくべきだろう。年頃の男の子は、繊細だ。
「もう、いいのか?」
「え? あ、今のはわたし自身にかけただけです。他人の意識に干渉するような術式は、滅茶苦茶複雑なんです。今のわたしには使えません」
普段ならどうということもないのだが、制御力が著しく落ちまくっている今の状態で他人に干渉するなど、恐ろしくてとてもできない。
「けどおまえ、さっきは」
「だから、術式が掛かっている状態のわたしの一部を和馬先輩に移すことで、術式の効果を共有していたんです。ということで、いいですか?」
「……は?」
意味がわからない、というように目を瞠った和馬に、はっきり言わなければ通じないか、と肩を竦めて続ける。
「血は痛いから、いやなんです。人工呼吸だと思って我慢してください。これもお互いノーカンということで」
「……っ!」
途端にぶわっと真っ赤になった和馬に、つくづく純情なのだなと、なんだか申し訳ない気分になる。
有紗とて、他人と唇を重ねるなど好きでしたいわけではない。
だが、研究室時代に加え、これまであちこち「落ち」まくった世界で過ごした時間を考慮すれば、精神的には実際よりも十年ばかり年を重ねているだろう。
肉体年齢の方は、元の世界に戻ったときにその時間軸に合った姿に戻っているものの、中身の方はいかんともしがたい。
つまりは、ファーストキスだなんだと騒ぐような精神年齢ではないのである。
むしろ、和馬の反応が可愛いなどと呑気に思っている。
元々そういった方面に淡泊な性質であることも自覚しているし、何より和馬のような美形相手なら生理的嫌悪感もない。
つくづく、美形というのは得である。
これがもし生理的に受けつけないタイプだったなら、言葉くらい気合いでどうにかしろと放って置いたかもしれないな――と考えたところで、ふと和馬にとってはどうなのだろうと思い至る。
「……ええと、いやなのでしたら無理にとは」
もし和馬に恋人がいるのなら、その相手に対する義理立てもあるだろう。
考えてみたら、最初にしたことも余計なお世話だったかもしれない。
だが、済んだことをぐだぐだ言っても仕方ないし、そこは勘弁してもらおう。
嘆息していると、ふいに伸ばされた和馬の腕が有紗の肩に触れる寸前で止まり、逡巡するようにそこで彷徨う。
「おまえこそ……いやじゃ、ねえのかよ」
押し殺したような声に、首を傾げる。
「いやだったら、最初から言ってませんよ。というか、物凄く今更です。わたしが和馬先輩を蘇生させるのに、何回人工呼吸したかなんてカウントしてませんけど、余裕で二桁は行ってます」
「……そ、れとこれとは、別のような気が」
「正直に言うなら、いちいち通訳するのはちょっと面倒なので、術式を受けてくれた方が助かるのですけど」
ずばんと本音をぶっちゃけると、額を抑えて低く唸る。
どうしたものかと思っている間に、規則正しい馬蹄の音が近づいてきた。ヴァンフレッドが戻ってきたようだ。
大きな荷物を抱えた彼は有紗と目が合うと、おや、という顔をして荷物をテーブルに置いた。
「目が覚めたのだな――と、僕の言っていることがわかるか?」
「はい。わたしの説明が足りなくて、驚かせてしまったみたいですね。すみませんでした」
「はは、いや参ったぞ。それまで普通に会話できていたものが、突然互いに何を言っているのかわからなくなってしまったのだからな。あれは、面白い経験だった。言葉が通じていたのはアリサの魔法のお陰だったようだな」
楽しげにそんなことを言うヴァンフレッドも、これでなかなか肝が据わっているらしい。
和馬ほど非常識な馬鹿力を持つ相手と言葉が通じなくなったら、多少は狼狽するものなのではないだろうか。
……ただ単に、鈍いというだけのことなのかもしれないが。
おい、と声をかけられて振り向くと、ひどく複雑そうな顔をした和馬が、有紗とヴァンフレッドを交互に見る。
「オレには、おまえが日本語喋ってて、あいつが宇宙語喋ってるようにしか聞こえねえんだけど」
ヴァンフレッドが、ひょいと首を傾げる。
「む? カズマの言葉はもう通じんのか?」
「あ、えぇと、ちょっと待ってくださいね」
やっぱり、これは面倒だ。
よいせと背伸びして和馬の顔を両手で挟み、問答無用で唇を重ねる。
硬直した口の中に舌を伸ばし、相手のそれを軽く舐めて離れる。
和馬が耳まで真っ赤になっていたけれど、男の子なのだからこれくらいは我慢してもらおう。
「王子さま? 何か、喋ってもらえます?」
「う、うむ? その……それでカズマとも会話ができるようになったのか?」
ぎこちなく口を開いたヴァンフレッドから、いまだに固まっている和馬に視線を移す。
「どうですか? 和馬先輩」
「……な、なった」
こくこくと子どものようにうなずく和馬を、ほっとしながら見上げる。
「いやかもしれませんけど、慣れてくださいね。元の世界に戻るまでは、毎朝しなきゃなんですから」
「……っ」
そう言うと、和馬が赤いままの顔を背ける。
有紗は、両手がわきわきと動きそうになるのを辛うじて抑えた。
(ああ……っ、可愛い男の子が恥ずかしがっているのを見て、ちょっといいかもなんて思ってしまうなんて、まるで変態のようではないですか。――自重しなければ)
有紗が己を戒めていると、ヴァンフレッドが感心したように口を開く。
「なるほど、口づけで魔法の効果を共有するわけか」
「そんなようなものです」
有紗はうなずいた。
「異国の言葉も、すべて理解できるようになるのか?」
「そうですね。固有名詞以外は、大抵自分が普段遣っている言語のように認識されます」
ヴァンフレッドは、ふむ、と考える顔になって腕を組む。
「それは、便利だな……。その術は、僕にも使えるようになるだろうか」
有紗は少し考え、答えた。
「一日睡眠四時間で、起きている時間のほとんどを術式の勉強につぎ込めば、一年くらいでできるようになると思いますよ」
「そ、そうか……」
軽く口元を引きつらせたヴァンフレッドが、若干わざとらしい仕草でテーブルに置いた荷物をぽんと叩く。
「おまえたちの着るものを用意したのだ。その格好では、髪の色がどうこういう以前に目立ちすぎるからな」
「そうですね。ありがとうございます」
素直に礼を言って手渡された包みを受け取り、部屋の中に戻って手早く着換える。
(あ、ちょっといいかも)
常識の飛んでいるヴァンフレッドがチョイスしたわりに、出てきた衣装は随分と可愛らしいデザインだった。
柔らかな白い生地の中着は、胸元に蜘蛛の巣のように繊細なレースがあしらわれている。
前を紐で編み上げて調整するつくりの、ふんわりと裾の広がるワンピースの淡い青色は、恐らく有紗の瞳に合わせたのだろう。
残念な頭の持ち主でも、服のセンスはいいらしい。
足元だけは元のスニーカーだが、色が真新しい白なのでさほど違和感もない。
ヴァンフレッドから軍資金をふんだくったら、まずは下着を購入しなければと考えながら部屋から出る。
ふたりがいる居間へ向かうと、和馬も与えられた衣服に着替えていた。
(おお! 美形は何を着てもサマになる!)
こちらを見て驚いたように目を瞠った和馬は、ヴァンフレッドと似たような素材の黒のズボンにVネックの生成のシャツ、それにいくつもの小さなベルトで前を留めるごついイメージのジャケットを羽織っていた。
和馬の精悍な容貌に、とても良く似合っている。
黙ってさえいれば上品な美形であるヴァンフレッドと並ぶと、とんでもない目の保養である。
「ありがとうございます、王子さま」
内心、グッジョブ! と親指を立てながら礼を述べると、ヴァンフレッドも満足げにうなずく。
「うむ。我ながら、よく似合う物を選んだと思う。アリサ、実に可愛らしいぞ」
(おおう)
有紗は、ちょっと引いた。
「……さすがは、王子さまですね。さらっとそんな褒め言葉が出てくるなんて、凄いです」
「む? 女性を褒めるのは当然だろう」
不思議そうな顔をする相手に、有紗は小さく苦笑を浮かべる。
「いえ。わたしたちの世界では、そうでもないんですよ。若い男の子が女の子を褒めると、まず口説いているものと判断されちゃうんですね。そういった誤解はお互い不幸の元ですし、大抵決まった相手のことしか褒めたりしません。社交辞令は、枯れた大人の専売特許です」
「なるほど、文化の差だな。我々はまず、女性に会った場合は、相手を褒めなければ無礼とされる。容姿自慢の女性を怒らせるのは、非常に恐ろしいぞ」
しみじみと実感の籠もった言葉に、それはわかる、とうなずく。
「王宮に行ったら、やっぱりそうしないと問題ですか?」
「おまえたちは、僕の客人だ。好きに振る舞って構わないが――アリサは、ひとりでは行動しない方がいいだろうな」
「え? どうしてですか?」
首を傾げると、ヴァンフレッドがやけに厳かに口を開く。
「おまえのような愛らしい娘がひとりで歩いていたら、男たちに襲ってくれと言っているようなものだ。それは、王宮でも街中でも同じことだぞ」
「なんですか、それは。仮にも一応王子さまなら、もうちょっと治安を向上させてください。若い女の子が安心して外を出歩けないなんて、景気が悪い証拠ですよ」
むっと眉を寄せて言ってやると、ヴァンフレッドは仕方がないとでも言いたげに肩を竦めた。仕事をしろ。