「お仲間、キタ――――――!!」
床から一メートルほど上の空間に放り出された有紗は、超強力な掃除機並の吸引力で吸い込まれた勢いのまま、床に叩きつけられた。
痛みはない。
一瞬息が詰まったものの、柔らかな空気の層に受け止められるような感覚に、ほっとする。
(ふ……っ、偉いぞわたし)
有紗は、一秒前の自分の反射神経に拍手を送った。
同時に覚えた虚脱感と眩暈に、ぐっと顔をしかめる。
その拍子に唇の内側を噛み切ってしまい、鉄の味が口の中に広がった。
〈絶対防御〉は、有紗が使える中で最高レベルの防御式だ。
高度なだけに、言霊の詠唱をせずに使うとリバウンドでとんでもない負荷が体にかかり、しばらくの間ろくな術式が使えなくなる。
だが今は、そんなことを言っている場合ではない。
あの青年は、どうしただろうか。
どうにか体を起こすと、すぐ隣にぐったりと横たわっている姿が目に入った。
慌てて呼吸と首筋の脈を確認してみれば、どちらも感じられないことに青ざめる。
治癒系の上位術式など、今の有紗には使えない。
術力がほとんど底をついていて、ぐらぐらと眩暈をするのを気合いでどうにかねじ伏せる。
(こんなとこで死ぬんじゃないわよ!)
彼に死なれてしまっては、骨折り損のくたびれもうけだ。
人工呼吸と心臓マッサージを繰り返し施しているうちに、かは、と咳き込むようにして青年の呼吸が戻る。
「……っは……!」
「大丈夫……大丈夫だから。落ち着いて……ゆっくり、息して」
ゆっくりと、子どもに言い聞かせるように声をかける。
何度も大丈夫と繰り返して、苦しげに浅く速い呼吸を継ぐ青年の額に張りつく前髪を払う。
さらりとクセのない漆黒の髪は、有紗のそれよりも少し硬い。
(……美形?)
今までは必死だったからよくわからなかったけれど、改めて見てみると青年は野性味の強い、非常に整った顔立ちをしていた。
朦朧とした眼差しで、ぼんやりとこちらを見ている。
意思の強そうな切れ長の瞳は、大人の色香のようなものまで漂わせているものの、どうやらそれは疲労困憊した気怠さゆえだったようだ。
何度か瞬いて訝しげな表情が浮かぶと、やはり年相応の若者らしい雰囲気がある。
と、少し離れたところから声が聞こえて、ようやく有紗は周囲の様子に目を向けた。
「落ちる」ときには、大抵人気のない場所に紛れ込む。
それは自然のエネルギーが満ちているせいなのか、森や草原であることが多い。……一度バカでかい湖の真ん中に「落ちた」ときには、死ぬかと思ったものだが。
ぐるりと視線を巡らせると、石造りの教会のような建物の中だとわかる。
足元には、効果限定陣の名残。
それを組んだらしい人物と、視線が合った。
こちらは金髪、碧眼。ノーブルな美形。着ているものも、いかにも上等そうだ。
とりあえず、アレは王子と呼ぶことにしよう。
知らない言語で話しかけてくるのをきっちり無視して、呼吸を整える。
「――〈意思疎通〉」
これくらいの基礎術式なら、今の有紗でも組み立てられる。
ついでにこの青年にもこの術をかけておこうと、まだ少し荒い呼吸を継いでいる彼に深く口づける。
「……っ!?」
どうやら一気に正気づいたらしく、じたばたと暴れ出すのを問答無用で抑え込む。
混じり合った唾液を嚥下するのを確認して離れると、青年の顔が真っ赤に染まっていた。無事に蘇生したようで、めでたい。
制御を上手くできない初心者が自分にかけた術式の効果を他者と共有する場合、体の一部を媒介として相手に与えなければならない。
しかし、髪や爪など食べたくないだろうし、血を与えるのは痛いから嫌だ。
消去法で唾液が一番手っ取り早いとはいえ、実際に行うのははじめてだ。
ちゃんと効果があったのかなと首を傾げながら、あんぐりと口を開いてマヌケ面を晒している王子に視線を向ける。
「あんた、誰?」
一拍置いて、答えがあった。
「アウノ王国国王が第四子、ヴァンフレッド・ディノ・エウザリエ・アルノ。闇の子らよ。我に名を与え、契約の成就とせよ」
――召喚。
有紗は、思わず半目になった。
(はい、そーゆーコトでしたか)
見た目の印象通りにホントに王子さまだったんですね、と感心している場合ではない。
隣で頭痛でも覚えたかのように額を抑えた青年が、低く呻く。
「……なんだコイツ。なんのどっきり?」
「あの。このひとがなんて言ってたか、わかりました?」
「わかってたまるか、あんな電波語。日本語上手いのは認めるけどな」
どうやら、〈意思疎通〉の術式はきちんと共有できているらしい。良かった。
「あなた、ちょっとだけど心臓と呼吸止まってたんですよ。無理しない方がいいです」
「へ?」
「心マと人工呼吸で戻しましたけど。頭痛とか、吐き気とかあります?」
顔を覗き込むと、途端に頬に朱を昇らせて、ばっと顔を背ける。
……有紗は、ちょっぴり困ってしまった。
でかい図体をした青少年が、その純情可憐な反応はどうかと思う。こっちまで照れてしまうではないか。
「ひょっとして、ファーストキスだったりしました?」
「……っ」
(図星か)
その点については、有紗もひとのことは言えないのだが。
ファーストキスなんてものに夢を見ていたわけではないけれど、実際にクリアしてしまうとなんだか妙に感慨深い。
だがしかし、人工呼吸というのは単なる救命措置であるのだからして、有紗は年頃の乙女として前向きに対処することにした。
すちゃっと片手を挙げて提案してみる。
「ここはひとつ、救命活動ということで、お互いノーカンということにしませんか」
至極真面目に言ったのに、青年はぎしぎしと軋むような動きでこちらを見ると、両手で頭を抱えてしまった。
「ちょ……ちょっと、待て。なんだこりゃ。どんな夢だよ」
その気持ちは、とてもとてもよくわかる。
有紗もまさに地球時間で三年前、同じことを思ったものだ。
いきなりこんなファンタジックでトリッキーなイベントに強制参加させられて、パニックに陥らない方がおかしい。
だがしかし。
(すみません、お兄さん)
気分は正直言って、「お仲間、キタ――――――!!」である。
この気持ちを共有できるひとが現れてくれて、そんな場合ではないとわかっていても、とってもとっても嬉しくて仕方がない。
にやけそうになる頬を引き締めながら、有紗は改めて青年に声をかけた。
「あの、藤沢学園高校一年の、七瀬有紗です。あなたは?」
今更ながらの自己紹介に、青年が虚を突かれたように顔を上げる。
「――藤沢三年の、志波和馬」
その答えに、思わず瞬く。
「同じ学校でしたか」
有紗はうなずきながら、胸の内ではまだ高校生だったのか、と驚いていた。
いい体格をしているから、てっきり大学生かと思っていたのだ。
言われてみれば、確かに肩幅は広いが、その厚みはそれほどでもない。実に将来が楽しみだ。
「みてえだな」
「……おい」
おい、などという名の人間は、この場にはいない。
よって有紗は、その呼びかけをきっちりと無視した。
「藤沢って校舎がキレイでいいですよね。去年、改築したばっかりでしたっけ」
「ああ。旧校舎の方には行くなよ。ろくでもねえ連中の溜まり場んなってるからな」
「……おまえたち」
ヴァンフレッドが再びぼそっと口を開いたが、有紗にとって現在の最優先事項は、お仲間との情報交換である。
「そうなんですか? 気をつけます。えぇと、志波先輩? あの――」
「和馬」
「わかりやすく無視をするな」
無視ではない。後回しにしているだけだ。
「和馬でいい」
「じゃあ、和馬先輩で――」
「おい! おまえたちは魔族のくせに、召喚者の僕をいつまでそうやって無視しているつもりなんだ!?」
いきなりキレた堪え性のないヴァンフレッドに、和馬がげんなりと肩を落とす。
「誰が魔族だ、オラ」
「ええ!?」
「オレは人間やめた覚えなんて、一度もねえぞ」
がーん! と背景に文字が浮かびそうなほどショックを受けたらしいヴァンフレッドに、和馬は心底嫌そうに溜息をついた。
「つうか、オレ的には夢オチ希望なんだけど」
「和馬先輩。気持ちは物凄くわかりますけど、わたしはこんなアホっぽい王子さまの夢を見る趣味はありません」
和馬が疲れ切った顔でうなずく。
「奇遇だな、オレもだ」
「でも、とりあえず現状説明できるのってこの王子さまだけみたいですし。一応、お話でも聞いてみます?」
そうだな、と和馬がどんよりと目を向けた先で、ヴァンフレッドはがっくりと床に手を着いてへたり込んでいた。落ち込んでいる様子が、非常にわかりやすい。
「そんな……。僕はまた、失敗してしまったというのか? 私財をはたいて高価な魔石を買い漁り、試行錯誤を繰り返し、寝る間も惜しんで研鑽を積んできたというのに……!」
和馬が、半歩後ろに下がった。
どうやら、どん引きしたらしい。
「……何言ってんだ、コイツ」
「ナルシストみたいですね」
「誰がナルシストか! 大体、おまえたちは何者だっ!? 僕の感動を返せ!!」
くわっと目を剥いたヴァンフレッドに、和馬が冷ややかな視線を向ける。
「知るかボケ。どうでもいいから、さっさとオレらを元の場所に戻せ」
「それは無理だ!」
「威張って言うな!」
「そこはふんぞり返るところじゃないと思うんですけど」
ふたりのツッコミもどこ吹く風だった。
ヴァンフレッドは、実に偉そうに腕を組んだ。
「おまえたちを召喚するのに使った魔石は、どれも古代遺跡から発掘された、秘宝といっていいほどに貴重なものばかりだったのだ。この国広しといえども、こんな無茶なことをできる勇者は僕くらいのものだ!」
――アホがいる。
ここまでアホだと、いっそ清々しいかもしれない。
呆れるのを通り越し、有紗は思わず感心してしまった。
隣で唖然としていた和馬がふるふると肩を震わせると、がっしと手近なところにあった拳大の石を掴む。
「ふざっけん、なーっ!!」
次の瞬間響いたのは、凄まじい轟音と鈍い振動。
もうもうと立ちこめる煙に咳き込みながら、咄嗟に上げた腕で目を庇う。
ようやく煙がおさまったとき、有紗は自分が投じた石があっさりと分厚い石壁を破砕したことに硬直する和馬と、同じく石像のように凍りついているヴァンフレッドの姿を見て、いっそ本当に夢オチだったらいいのに、と思った。