毒の涙
本土から離れた島。正午過ぎ。
電気の消えた交差点の中で、車と車がぶつかったまま何週間も経過している。映画でこそありきたりの光景かもしれないが、だからこそなお、非現実的な光景だった。再開発によって数年前から急激に新たな道路や建物が並び始めていたこの中心街も、今ではすっかり廃墟のようになっている。中には崩れ落ちたビルもあり、ガレキが周囲に飛び散っていた。
蝉の声、
蝉の声、
夏の日差し、
蝉の声。
人間の姿は見当たらない。生きている人間も、そして死んでいる人間も。ただコンクリートが熱を集め、蜃気楼を形作っているだけだ。
交差点の大きな道路の地平線から、何かが近づいてきた。
ガレキを踏みしめながらやってきたそれは恐らく人間であったし、もし人間でないとしても元々は人間だったのだろうと分かるような姿だった。口から唾液と声を漏らしながら褐色の皮膚を剥き出しにして2つの足で歩くその姿はまるで子鬼のようにも見える。ふらふらと、あばら骨が浮かぶ身体で道路を歩いていく。何かを探しているようで、ただただ彷徨っているようで、そこに人間としての理性を垣間見る事はできなかった。
そしてその子鬼が交差点のガレキに足を近づけた瞬間に、その"怪物"はゆらりと音もなくガレキの中から姿を現した。
"怪物"はその両手で持っていたチェーンソーの紐を引きながら飛びかかるようにガレキからジャンプし、その落下と重みを子鬼の首筋に叩きつけるように、その回転する刃を細い腕で振り下ろした。
回転するチェーンに肉が絡まり裂かれ、無理やり断ち切られていく湿った音が機械音と共に辺りを埋め尽くす。子鬼は声も出せずにコンクリートに倒れ、その"怪物"は子鬼の首が落ちるまで、その手を緩める事はしない。チェーンに纏わり付いた血が煙となって辺りに舞い散り、"怪物"の被るガスマスクやぼろぼろの服にも降りかかる。しかし怪物は血煙とは違う何かによって、ガスマスクの内で視界を滲ませていた。
首を切り落とした"怪物"はチェーンソーを止めた。
蝉の声、
蝉の声、
夏の日差し、
蝉の声。
血が付いたチェーンソーを背中に斜めに傾けて担ぐ"怪物"は、汚れただぼだぼのパジャマのような洋服と、ぼろぼろになったサンダルを身に付け、青紫がかった髪の毛はぼさぼさと背中に垂らし、小柄な体躯でゆっくり、町を歩いていく。
すこー、すこー。
真っ黒いガスマスクから漏れる呼吸音は乱れる事なく、ゆっくりと定期的に音を立てる。誰もいない町、既に崩れ落ちた町で、それが当然かのように、ゆらゆらと。そしてそのゆらゆらとした足取りが地面のガレキにすくわれ、"怪物"は固く黒い足元に顔から倒れてしまった。元々少々不恰好なほどに大きなガスマスクが、その衝撃で顔から外れる。
"怪物"は慌てて、倒れたまま大きな袖から細く華奢な腕を伸ばして転がるガスマスクを必死に捕まえようとした。
「あっ、だめ……」
少女の声だった。
汚れた手足とは違って病的なほど白い肌と、手に取ったガスマスクを愛おしそうに見つめる紫色の瞳。頬には乾きかけた涙の筋が伸びている。
「こんな怪物の顔、誰にも見られたくない」
すっぽりとガスマスクを被りなおし、後頭部に伸びるゴムを締め、無理やり密着させる。
すこー、すこー。
「帰って、ご飯。掃除してお昼寝……」
"怪物"はごにょごにょとマスクの下で呟きながら立ち上がり、ゆらゆらと再び歩き出す。自らがこの島を破壊したと思い込んだまま、子鬼達を島民だと思い込んだまま、自らを怪物だと思い込んだまま。
チェーンソーを振るうたびに、毒の涙を流しながら。