出発の前に
「高い所が苦手なんじゃないわ。ちょっと不慣れなだけよ」
「不慣れなんてレベルじゃなかったような……」
「ふん!」
ゴガッ!
「痛ぇっ!」
「細かいことをいちいち気にするのって嫌いよ」
「悪かった」
どうやら、フィリーにとって高い所は鬼門らしく、迂闊に言及したら殴られた。これからは気を付けよう。
……からかうのにはいい材料だ。今後はもっと気を付けてからかうことにしよう。
今は、フィリーと一緒にコルト町にいる。
明日にはジェルドレア道場を発つから、必要な道具を揃える必要がある。
前回同様、風魔法で飛翔してコルト町まで来たのだが、フィリーは飛んでる間ずっと騒ぎっぱなしだった。
どう考えても、フィリーは高所恐怖症だ。
「いい? 私が住んでいたところは王都に近かったから、ずっと平地で、山なんてなかったの。分かる? 高い所から地上を見下ろす経験なんて、初めてなのよ。今はちょっと驚いて声を上げちゃったけど、慣れれば
なんてことないわ」
「じゃあ、フィリーが早く慣れるために、旅路はずっと飛行するか?」
「酔って、あなたに向かって吐いちゃいそうね」
「……またまた~~」
「これでも元貴族ですからね。他の人に遠慮なんてしないわよ」
「……」
「……」
「そんなことになったら、お詫びとして、エッチなことを要求するかもな」
「吐いた直後なら、いくらでもキスしてあげるわよ」
「……」
「……」
「……わかったよ。ボクの負けだ。高い所は避けよう」
両手を上げて、降参の意を示す。
「当然よ。言葉の応酬は大の得意のフィリーさんに、交渉で勝てるわけないでしょう?」
「……ときどきは手加減してくれよ」
「手加減する必要なんてないでしょ」
「どうして?」
「口達者な女は可愛げがないけど、こんな私を好きになってくれた人がいるもの」
フィリーは白く細長い人さし指を伸ばして、ボクの鼻先に触れた。
「だから、歯に衣を衣を着せるつもりはないわ。あなたのせいね」
「……」
呆気に取られて、フィリーを見た。
「ふふ、そんなおかしな顔しちゃ嫌よ。吹き出しちゃうじゃない。うぷぷ……」
「いやいや、もう笑ってるじゃん」
からかわれたか。
本当、口では勝てないな。まぁ、フィリーがご機嫌だからいいけどさ。
前回コルト町に来たときは酔って動けなくなったフィリーも、今回は調子が良いようだ。風魔法で飛んでコルト町まで来たのは前回と同じだが、前回の反省を踏まえて、今回は速度をゆっくりにしたのが奏功したんだろ
う。
ここはコルト町の西の端で、ちょうとジェルドレア道場がある山との境付近。
この辺りは畑や民家があるばかりで、店は港のある東側にしかない。そういうわけで、風魔法で飛んできたフィリーとボクはコルト町の西側に下り立ち、港に向かって歩いている。
「へー、やっぱり王都とは雰囲気が違うわね」
民家に挟まれた小径を歩きながら、フィリーはきょろきょろと辺りを見渡している。
「王都はどんな感じなんだ?」
「うーん……。もっと雑多な感じよ。ここはとても静かだし、家の見た目はどれも似てるでしょ。王都だと、もっとうるさいし、人は多いし、奇天烈なのが沢山あるわ。それに悲鳴も」
「悲鳴?」
「王都を歩いていると、ときどき聞こえてくるのよ」
「なんで?」
「そりゃ色々よ。ひったくりに遭ったり、いきなり喧嘩になったり」
「そんな物騒な所なのか、王都は」
ノルモン島では、悲鳴なんて滅多に聞こえなかったが。
いや、そうでもないか。訓練の厳しさに耐えきれなくなった子供が悲痛な呻きを上げることは日常茶飯事だった。
「人が多いせいでしょうね。ストナードがいた島では、盗みなんて珍しかったんじゃないかしら?」
「そうだけど、なんで分かるんだ?」
「島で盗みなんかしても、簡単に逃げられないじゃない。四方を海で囲まれているのだから。でも、王都でなら多少盗みを犯しても簡単に逃げられるし、人の数が多いから逃走経路も紛れちゃって犯人とは気付かれ
にくいもの。
ここも、盗みは珍しいでしょうね。コルト町の外は、海か、魔物のいる山でしょう? 逃げるのは難しいし、もし罪が明らかになって捕まったら私刑。リスクが高すぎるわ」
「いや、魔法を使えば逃げれるだろ」
「……ん?」
何言ってんのコイツ?――みたいな顔をするフィリー。
「ん? なんかおかしな事言ったか?」
「あなたの言う通り、魔法が使えれば逃げれるけど、使えなければ逃げられないじゃない」
「使えない奴なんて滅多にいないだろ」
フィリーの顔が、いよいよ呆れかえった。
「…………あなたのいたノルモン島ではそうなのかもしれないけど、この国の半数の人は使えないわよ?」
「え?」
「大雑把に言うと、全人口の4割に魔法の素質があって、魔法を使って何かができるのは、その半分の2割程度よ」
「……それって常識?」
コクリと頷くフィリー。
嘘だろ……。
「この情報格差が辺境出身というステータスの弊害か。
ん? いや、待てよ。なら、人口の2割に当たる奴らは、魔法を使って悪さし放題ってことか?」
「田舎だったら、そうかもしれないわね。王都だと、悪辣すぎるのは騎士が成敗するけど」
「なるほど、騎士ね……」
王直属の騎士は、王族の身辺警護だけじゃなく、治安維持にも一役買っているのか。
「でも、私が知ってるのはあくまで3年前の王都だから、今も騎士がいるかどうかは知らないわよ?」
「ああ、そうだな」
王都か……。
いずれは行かないといけない場所だろう。実際に行くのがいつになるかは分からないが。
「あ! 今、磯の香りがしたわ!!」
「本当だ!」
そろそろ港に着く頃だろうか。
「あ、やっと港かしら? 道が舗装されてるわ!」
今まで歩いてきた小径は土がそのまま露出していたが、ある地点から石畳で舗装されている。ということは――
「あの曲がり角の先が、港町だ」
たった2週間前に、アクアコルト亭のワグドさんに案内されたばかりの小径だ。記憶違いはないだろう。
ボクは、前方50メートルほど先の所にある曲がり角を指さした。
「うみっ!」
隣で歩いていたフィリーが走り出した。
「おい! 走るなよ!」
ボクも慌てて追いかけるが、フィリーの姿はもう曲がり角の先へと消えてしまった。
数秒差でボクも曲がり角を抜けると、フィリーは「おー」とか「うー」とか感嘆の声を漏らしていた。
曲がり角の向こうは、解放的な円形の広場になっている。
目の前には、港に停泊中の木造の船と、その背後に広がる青と白の海。潮の匂いに、波の音。
左手には、海に沿うようにレンガ敷きのストリートが伸びており、同じくレンガ造りの店が並んでいる。
「広いわね~~」
フィリーは恍惚とした表情で、海を眺めていた。
「海、初めて見たのか?」
「ここに来るまでの飛行中にちらっと見えただけで、目の前にしたのは初めてね」
「じゃあ、砂浜で遊んだこともないの?」
「ええ。砂浜で遊んでいる子供たちの絵は見たことあるけど」
絵でしか海を知らないとは……。
王都で生まれた人間からすれば、別段珍しいことでもないのだろう。だけど、島生まれのボクとしては、信じられないことだ。
「まだ昼前だし、砂浜に寄っていくか?」
「でも、どこにあるの? 船ばっかりで、砂浜なんて見当たらないわよ」
「右手の方を少し行くと、あるんだ。…ちょ、おい、走らなくてもいいだろっ!」
止まる気はさらさらないようで、フィリーは駆け出していく。
今朝はリン・メイガさんの目の前で雷法を披露したというのに、元気な奴だ。
そして追いかけることになるボク。
「あったわ砂浜! わぁ、綺麗ね!! 早く来なさいよストナード!」
感激の声を上げながら、フィリーは恐るべきスピードで砂浜へと駆けていき、あっという間に到着した。
有頂天になって、砂浜の上で宙返りしている。
まばらに人がいたのだが、誰もが驚いてフィリーに目が釘付けになっていた。ま、美少女がいきなり砂浜に現れて、あろうことか宙返りなんてし始めたら、そりゃ目を見張るよな。
「うわ~、砂さらさらね」
本人は他人の視線なんてどこ吹く風で、砂をすくっては落として、すくっては落として、と繰り返した。
「海には入らないのか?」
「え、う~ん、そうね……」
「なんで悩む?」
「服が邪魔でしょ?」
「脱げばいいだろ?」
ボクの言葉に、じとっとした目を向けてくるフィリー。あ、言葉を間違えたか。
「い、いやいや、誤解するな。全裸になれって言ってるんじゃない。上着だけ脱げばいいだろ?」
「……」
フィリーはしばらく迷っていたが、「そうね……折角の機会だし……」と呟いて、着ている黒一色の服を脱ぎだした。
こうもあっさり脱ぎだしたところを見ると、下にシャツでも着ているのだろう。ちぃぃっ。
そうだ、明日からの旅に向けて、新たに服も買った方がいいだろうな。
フィリーの持っている服は1着しかない。黒ずくめの恰好は修行者としては問題ないが、街中を歩いていたら目立つだろう。ボクもフィリーも追われる身ではないが、目立ちすぎるのも考え物だ。
出来るだけ自然な、可愛い町娘に見えるような、そんな服も買っておいた方がいいはずだ。
うーん、どういうのが似合うかなぁ。
「ストナードは海に入らないの?」
「あ、ああ」
フィリーに着せる服はどういうのがいいか、深淵なる思索に没入していたところにフィリーの声がしたので、顔を上げる。
フィリーの下着姿があった。
絶句した。
「え? え!? えええ!!??」
「じゃあ、私は海に入ってるから」
「あ、ああ……」
フィリーは海に駆けていき、「ヒャッホー」と声を上げながら海に飛び込んだ。
「……」
対するボクは、フィリーの姿が網膜に焼き付いて離れない。黒い上着を脱ぎ捨てたフィリーは、白い薄手のシャツとパンツ1枚という、極めて扇情的かつけしからん恰好だった。
当のフィリーは、自分の外見にあまり関心がないのか、恥ずかしそうにする素振りもなくさっさと海に向かったが、ボクは棒立ちになったままだ。
キラリと陽光を反射する白い肩にぱさりとかかる栗色の髪に、深緑を湛えた大きな瞳は無邪気な幼気そのもの。一方、すっと通った鼻筋に、血よりも濃厚な紅い唇、そして豊かな胸にスラリと伸びた脚は、ある種、悪
魔的ですらある。快活な少女そのまま、白い飛沫をまき散らしながら海ではしゃいでいても、ボクにとっては、お日さまの下だというのに淫靡ですらある。
あんなものを見せられて、これからもボクは理性を保ったまま旅をしなければならないのか? 無理だ。
ボクが苦悩に悶え苦しむ中、フィリーは一人気ままに海を堪能している。
ちょっと恨めし気な顔で、海で遊ぶ華麗な美少女を眺めた。
この光景を絵にしたら、さぞや高値が付くに違いない。
「ごふっ! うえっ! 海水飲んじゃった。おえっ!」
美しい少女とはいえ、あまり需要のなさそうな図柄だった。
「…………うん、堪能してるようだ」
顔がぐしゃぐしゃに濡れているのは海水か鼻水が唾液か不明だが、解き明かさない方がいいことだ。
「ストナードも来なさいよ! 気持ちいいわよっ!」
フィリーが大声でボクを呼んでいる。
「今行くよ!」
愛する少女にお呼ばれされたなら、応えない訳にはいくまい。
素早く上着を脱いで、下着姿でフィリーのいる海に飛び込んだ。
「泳ぐのって初めてだけど、やればできるものね」
フィリーは初めての海で泳ぎをマスターしたらしい。さすがの運動神経だ。
「ストナードは泳げる?」
「そりゃもちろん」
「じゃあ、いいわね」
「え? 何が?」
ボクの問いに対する答えはなく、ボクはフィリーに腰の辺りを掴まれて持ち上げられた。
「お姉さんが楽しいことをしてあげるわよー」
「え? え!?」
「さあ、行ってこーいっ!!」
フィリーは体を捻って、ボクをハンマー投げの如く遠海へと投げ飛ばした。
「うわああああああああああっっっ!!!」
自分の体がブーメランのようにグルグルと回転しながら宙を舞っているのが分かる。しかも、空を切る速度は尋常じゃない。
やばい、そろそろ海に落ちる!!
海に没入したのは、脊髄反射的に白魔法の防御壁を体に纏わせた直後のことだった。飛沫を上げながら、体は海深くに沈み込む。
手足を必死に動かし、必死に海上まで浮き上がった。
「ぷはっ! はー、はー……。間一髪だったな」
あのまま生身で海面と接触していたら、全身骨折も免れなかったはずだ。
濡れて重くなった前髪をかきあげる。
「魔法なんて卑怯じゃない。折角海で遊んでいるのに」
声がしたので振り返ると、やはりフィリーがいた。
ボクは50メートルを優に超える距離を投げ飛ばされたはずだが、その距離を数秒足らずでフィリーは泳ぎきったというわけか。相変わらず桁違いの身体能力を見せつけてくれる。
「今は娯楽の時間なんだから、魔法とかは使わずにいきましょうよ」
「いやいやいや、魔法使わなかったら死んでたし」
というかねフィリーさん、あなたはボクを投げ飛ばすときに闘気を使ってたじゃないですか。なら、ボクは魔力を使うよ。
「でも、気持ちよかったでしょ?」
「ただひたすら怖かった」
「うんうん、分かるわ。そのスリルが堪らないわよね」
「……」
あれ、言葉が通じてない?
「さて、今後は私の番よ。私があなたにやってあげたことを、今後はあなたが私に」
「無理無理無理! ボクは闘気が扱えないんだぞ!? できるわけがない」
「……むぅ」
プウッと頬を膨らますフィリー。精神年齢がロリレベルに若返ってませんか?
しばらく思案に耽っていたフィリーだが、いきなり何かをひらめいたかのようにパンと柏手を打った。
「いいことを思いついたわ! 私があなたを投げ飛ばした瞬間に、私もあなたの手を掴めばいいのよ! そうすれば、あなたも私も水上滑空……一緒にスリルを味わえるわ」
「それって、うまくいくのか? というか、ボクはもうスリルとか十分すぎるほど味わったし、もう遠慮したいんだが……」
「うまくいくかどうかは試してみないと分からないわ」
肉食獣も顔負けの獰猛な色が、フィリーの瞳に光る。
大好きな少女と海で遊んでいるこのシチュエーション、本来なら天にも昇る心地のはずなのに、何故か恐怖しかない。
「おいやめろボクを持ち上げるなもう嫌だうわああああああああああっっっ!!!」
気を抜けば骨折に至るバイオレンスなお遊戯は、1時間以上続いた。
今は砂浜を離れ、ショッピングストリートに向かっている。
水魔法で体に付着した塩やら砂やら貝がらの破片やらを流し、服も水魔法で洗って火魔法と風魔法で乾かした後で身に着けたから、肌がベタベタするような不快感はない。
しかし、精神的には疲れ果てて、海からあがってボディーラインが露わになったフィリーを見ても紳士的な感想しか抱けなかった。あの胸と腰を見ても不動なること岩のごとし。ふっ、今のボクは間違いなく賢者だ。
「はー、楽しかったわね~~」
「ボクはヘトヘトだよ」
「そんな軟弱な体力で、本当にストナードは旅なんかできるのかしら?」
「これでも人並み以上にはあるから。フィリーの体力が異常なだけだから」
「とことん鍛えてあげるわね、これから」
「迫りくる期待に胸が破裂しそうだよ」
「旅に必要なものを買うって言ってたけど、何を買うの?」
「塩とかを買っときたいんだが、買い物の前にお昼ご飯を食べたいな。腹が減った」
「そうね。お店で食べる? それともつくる?」
「店で食べよう。折角町に来たんだしな」
「じゃあ、パエリア食べない? ここは港町だし、食べるなら魚介類のお料理よね」
「いいね」
フィリーが望んだパエリアの店はすぐに見つかった。
レストランが立ち並ぶストリートは、廃業した店が散見されたが、昼時であるのも手伝って人だかりができていた。引き締まった肉体とゴム製の服を身に着けていることからして、ストリートを歩く人の多くは漁師のようだ
。
中には豪奢な装飾品で全身を包んでいる壮齢の集団もいた。貴族か大商人がお忍びの観光に来ているのだろう。コルト町は、住民の気質は穏やかだし、海辺だから昼夜の寒暖の差も小さい。王都のゴタゴタに疲
れ切った有閑階級にとっては、絶好の場所なのだろう。
以前来たときよりも、今日のコルト町は賑わっているようだ。稼ぎ時の季節がやってきたのだろうか?
お目当てのパエリアを出すレストランは、店の隣に簡易式の屋台を設置しており、そこではテイクアウトの品を売っていた。
「あの屋台で買えば、店の外で食べれるけど、どうする?」
「それいいわね。今日はいいお天気だし」
「じゃあ、屋台で買って、海でも見ながら食べるか?」
「そうしましょう」
そういうわけで、2人分のパエリアとドリンクを購入し、岬へと赴いた。フィリーが岬で食べたいと言ったのだ。
コルト町にはショッピングストリートから数百メートル離れた所に岬があり、その先端には灯台がそびえ立っている。
「ほら、私の言った通り、いい眺め!」
岬の先端にある灯台の足元で、眺望に溶け込むように深呼吸するフィリー。
確かにここからの景色は絶景で、フィリーに言われるがまま足を運んだ甲斐はあったと思う。それくらい綺麗な景色だ。
左手に広がる海原と水平線は真っ直ぐに差し込む陽光をキラキラと反射し、右手にある錨を下ろした船とコルト町の家並みは否応なく歴史の伊吹を陸風と共に岬に立つフィリーとボクに送り込んでくる。
「いい場所だな」
見晴しの良さは文句なし。他に人はいないし、岩礁にぶつかる波の音が優しく心をさすってくれる。
「ちょっと歩く羽目にはなったけど、来ただけの価値はあったんじゃないかしら?」
「ああ、フィリーの言う通りだな。ここまで来てよかった。さて、食べるか、冷めないうちに」
「そうね!」
灯台に背を預けるように腰かけ、両手に持って運んできた2つのパエリアの包みのうち、片方をフィリーに渡した。そして、フィリーが運んできたドリンクを受け取る。
早速、紙の上に載ったパエリアを口に入れた。
口に広がる魚介の旨味と香辛料の刺激。
「ん~~~っっ!」
隣でフィリーが歓喜のあまり唸っている。
「おいしいな」
「さすが港町ね! 王都で食べるよりもずっとおいしいわ!」
「そうなのか? 王都の方が腕のいい料理人がいるイメージだけど」
「どうかしら。王都は確かに有名な老舗とか沢山あったけれど、今の方がウキウキしてるわよ? この景色のおかげかしらね」
「エスコートの上手な紳士が隣にいるおかげもあるだろ?」
「そうね、その通りだわ」
「……肯定してくるとは思わなかった」
冗談のつもりで言ったのに。
それにしても美味しいな、このパエリア。香辛料はふんだんに入っているがドリンクのアイスティーでときどき口を潤しているから、いくらでも食べられる気がする。
「あら? エスコートが上手かどうかはともかく、あなたと一緒にいると楽しいのは本当よ?
ステキな友人と、ステキな場所で、美味しいご飯。これで楽しくないなんて言ったら嘘でしょう」
「まあ、楽しいけどさ…………」
そこまで言って、言葉を切る。
「ん? 楽しいけど……どうしたの?」
「いや、フィリーにとってボクは『友人』なんだろうけど、いつになったら『恋人』にレベルアップするんだろう?」
フィリーがフフッと笑う。
「いつかしらねー?」
「なんで疑問形!?」
「そんな焦った顔しないでよ。私って安い女だし、簡単に籠絡できると思うわよ?」
「いや、まだボクは籠絡できてないんですが……」
「そうね……。たぶん、あなたが本気なのかどうか、私はまだ疑ってるんでしょうね」
「あれ? ボク、結構自分の気持ちをアピールしてきたつもりだけど」
「王都のプレイボーイの口説き文句に比べたら、まだまだよ」
「それって、田舎者に勝ち目あるんですか?」
「厳しいかもしれないわね」
「ですよねー。泣いちゃいそうだ」
「ふふ。可能性がないこともないんだから、諦めないでね」
茶目っ気を滲ませた笑顔を向けるフィリー。
どうしても惹かれてしまう、何故こんなに惹かれてしまうのか分からない、ただ顔が可愛いだけじゃない、透明な蜘蛛の糸に絡め取られたみたいに、心の方位磁針は揺らぐことなくフィリーを指してしまう。
改めて、虜になっているんだと自覚する。
「……頑張るよ」
「……生意気なセリフに、殊勝な返事をよこさないでよ。まるで私が、あなたを手玉に取っていいように転がしてる悪女みたいじゃない」
「ここでボクの気持ちを受け取ってくれたら、悪女という風評は消えうせるぞ? 悪女ならず彼女ってな」
「それとこれとは話が別ね」
「フィリーさんはなかなか話に乗せられませんね」
「元貴族のお嬢さんを騙そうなんて、あなたという男は修行不足もいいところよ」
「違いない」
こんなとめどない話をしながら昼食を終えて、今度は服屋に向かった。
旅の途中、村や町を通過するときに悪目立ちしないよう、町娘に見える服を揃えるためだ。あ、もちろん、ボクの服も買う。
岬からショッピングストリートに引き返し、服屋を探した。
「服屋ないなー」
「そうね……」
もう昼時を過ぎているためか、先ほどと比べてずっと人が少なくなっていた。
しかし、ストリートを眺めても、飲食店や食料雑貨店ばかりで、肝心の服屋がない。何故だろう?
すると、フィリーが道行く人を呼びとめていた。服屋の場所を尋ねているのだろう。呼び止められた中年の男性は、大層笑顔でフィリーに説明している。あの男性が親切なのか、フィリーの美貌が成せる技か。
説明はすぐに終わり、フィリーは男性に礼を言ってボクの方に駆け寄ってくる。当の男性はボクの方を見て、なにやら悔しそうな表情を浮かべていた。ふ、いいだろう、フィリーの隣にいるのはボクだ。……友達として、
だけどね。
「向こうにもストリートがあって、服屋さんはそっちにあるって」
「そうだったのか」
どうりで、どれだけ探しても見つからないはずだ。
「レストランの近くにあったら、売り物の服に食べ物の臭いが付いちゃうものね」
「ごもっとも」
言われてみれば当たり前のことだった。
ノルモン島では、隣人が服を干している近くであっても、平気で魚を焼いたりしていたがね。
フィリーと一緒に、レストランが立ち並ぶストリートを抜ける。
海岸線に突き刺さるように垂直に伸びるストリートのうち、最も南にあるのがレストランや食料雑貨店が立ち並ぶストリートで、これより南には先ほどフィリーと遊んだ砂浜がある。
その1つ北にあるのは、本や遊び道具などを売る店が立ち並ぶストリートである。更にもう1つ北のストリートで、服を売る店がズラリと列をなしている。とは言え、シャッターを下ろしている店も多いが。
布だけを売っている店があることには驚いたが、よく考えてみれば、服を全部店で購入するのは貴族か大商人くらいだ。平民であれば、普段着くらいは布を買って自分で仕立ててしまうだろう。あ、貴族には、オートク
チュールという手もありましたね。辺境の島出身で生粋の田舎者たるボクは、クチュリエなんて1つも知らないけど。
「ストナードはどんな服を買うつもりなのかしら?」
「目立たない服だったら何でもいいよ」
「今着ている服も、目立ちそうにはないわね」
「まぁ、そうだな」
ボクの恰好は、藍染のリネンに、茶色の革ブーツとリュックサック。野暮ったさはあるが、目立ちはしない。
一方のフィリーは、全身を黒の、なんと言うか、戦闘服で覆っている。加えて剣も携えているため、ボクよりも目立つだろう。奇抜とまではいかないが、もっと目立たない服の方が望ましい。
「ボクの場合、買うとしたら、もうちょっと都会的なのがいいな」
「あら? 今でも十分ステキよ」
「じゃあ、そのステキな男性と手をつないで歩くってのはどうでしょう?」
「あら、あの店なんか良さそうじゃないかしら?」
フィリーは颯爽と手近な服屋の扉を開け、入ってゆく。
「……」
フィリーはいつも通りのクールっぷり。……まだ戦いは始まったばかりだ。いつか、フィリーがボクに夢中になる日が……来る、はず。来るといいな。
ボクも慌ててフィリーの後をついて店に入った。
「いらっしゃい。服屋ミランへようこそ」
店に入ると、白髪のおじいさんとおばあさんが、店の奥にあるカウンターから挨拶をしてきた。「服屋ミラン」とか言ってたけど、「ミラン」ってのはこの店の名前かな。夫婦でこの服屋を経営しているんだろうか?
店内に飾られた服は半分は貴族向けのものだった。もう半分は平民向けか。その品揃えを見たところ、目当てのもの(フィリーが町娘に見えそうな服)もありそうだ。フィリーがテキトーに押し入った店だが、良い選択だ
ったみたいだ。お、あの麦わら帽子とか、いいんじゃないか?
しかし、コルト町で貴族用の服に需要はあるんだろうか? 避暑に着た貴族が買うのか?
「どういったものをお探しですかな?」
おじいさんが尋ねてくる。
「ここは貴族向けの服が多いみたいですが、軽めの服がほしいのです」
フィリーは店内をぐるりと眺めながら、希望を伝える。
「軽めの服、と申しますと?」
「こんな私でも着れそうな服とか」
「ここにある服ではご不満かな? かさばらず、体に負担のかからないのも沢山ありますよ」
そう言って、おじいさんは貴族向けの服を勧めてきた。
「いえ、その、私たちは貴族ではないので……」
「ほっほっ。隠さなくてもよろしいよ。お嬢さんは貴族様でいらっしゃるでしょう? 今日はお忍びの観光ですかな?」
その言葉に、フィリーの顔が凍りつく。
「おや、間違えたかな? すまん、ご無礼を申し上げた」
「そうだよあんた。すみませんねえお客様。礼儀なんてすっかり忘れてしまって、余計な詮索を致しました」
それまで奥にいたおばあさんがやってきて、頭を下げた。
フィリーの顔を見て、おじいさんが地雷を踏んだと察したのだろう。フォローの上手なことだ。
「い、いえ……いいのです」
かろうじてフィリーが返答するが、うまく言葉になっていない。
「えと……残念ながら、私は貴族ではありませんが……どうして私を貴族だと思われたのでしょう?」
「いや、あなたの立ち振る舞いが青い血のそれに見えたんでね。しかし違ったようだ。すみません、お嬢さん。わしもだいぶ耄碌したようだ。」
「……そんなに私は特徴的でしたか?」
そう言うフィリーの言葉には、若干の震えがあった。
フィリーが貴族だったのは昔のことだが、それでも、面倒事の種になる元貴族という身分は露見しない方がいい。何せ、フィリーの両親は、現王権に歯向かってしまったのだから。
「そうですなぁ。貴族様を悪く言うわけではないですが、単に貴族と言っても、その姿は千差万別。折り目正しく磨かれた方もいらっしゃれば、どうにも粗野な方もいらっしゃる。その点、お嬢さんは文句の付けようがな
い。歩くときに上半身は揺れないし、指はまっすぐ伸ばされている。とりわけ、この店の扉を開けた時の腕の伸ばし方は、ドレスを着た時を意識していらっしゃるようにお見受けしました」
「……わお」と、思わず呟いてしまった。このおじいさん、観察眼すごすぎませんか?
隣に立つフィリーを見れば、唖然として言葉も出ないようだ。
「え、えと……」
「よかったなフィリー。褒められまくりじゃないか!」
取り敢えずこの場をごまかさないと。
まるでおじいさんの推察を肯定するかのようなボクの発言に、フィリーは驚いた顔を浮かべる。
「残念ながら、貴族様とは付き合いがあるだけで、ボクらはただの平民ですよ。そんなことより、服を見せてもらえませんか? 今の恰好よりも、もうちょっとオシャレなやつが着たくて」
そう言いつつ、目当ての服がありそうなハンガーラックへと歩み寄って、物色し始める。
かなり無理やりではあるが、ヘンなボロが出る前に、話題を切り上げるべきだ。
「あ、この店、靴も売ってるんですね。見ろよフィリー、これ似合うんじゃないか?」
「……どれどれ? あら、いいかも」
「そうだろ」
さっきは取り乱したフィリーも、今は平然とボクと話を合わせている。この復活の早さはさすがと言える。
「お嬢さんには、こういうのはどうでしょうか?」
「あたしは、そこのお坊ちゃんに似合いそうな服を身繕いますね」
空気を読んでくれたのか、おじいさんとおばあさんは、それ以上、貴族云々のことは何一つ言わなかった。
その後、フィリーと話し合いながら、目立たない恰好一式を買い揃えた。
フィリーは試着室で、麦わら帽子に木綿の白いシャツと水色のスカートを身に着け、加えて紺色のリネンのサッシュを腰に巻き、深緑色のエナメルのカッターシューズを履いている。
「ミュールも似合うと思うんだけどなぁ」
「踵が高いのは嫌よ。いざという時のためにも」
剣を握って相手に踏み込む際に、踵が高い靴ではやりにくい。下手をすれば転倒してしまう。だがしかし、ミュールを履いている方が、見た目の印象として涼し気な感じが増すのは間違いない。
この白いミュールを履いたフィリーと一緒に草原を散歩できたら――――。
「ストナード、いつまでそのミュールを握りしめているの? それ売り物だけど、あなたの握力で今にも歪みそうよ?」
「くっ、どうしてもそのエナメルの靴じゃないとダメなのか?」
「ダメよ。私が実利重視なの、知ってるでしょ? 踵が高いのは嫌」
「……今日のところは諦めてやろう」
「なんでそこまで私の靴に拘るのよ」
「分かってないな、フィリー。ボクの癒しのためだよ」
「全然分からないわね」
ボクは、フィリーとお揃いの麦わら帽子に、黒染の木綿のシャツに茶色のズボン、こげ茶色のサンダルを買った。
「サンダルなんて動きにくいわよ?」とフィリーは言うが、闘気を操れないボクが動いても仕方ない。戦闘になれば、フィリーが前に立って剣を振るい、ボクが後ろで援護することになるだろう。動きにくくても問題ないし
、それよりも目立たないことの方が大切だ。戦闘に適さない服装ほど、目をつけられにくいだろう。
フィリーは反逆罪に処せられた両親を持ち、ボクは暗殺者に狙われる白魔法使い。素性がバレるのは大変よろしくない。
代金を払って店を出るときに、おじいさんに呼び止められた。
「お嬢さん、一ついいですかな?」
「は、はい、何でしょう?」
「先ほどは、お嬢さんを貴族と勘違いしてしまって、すみませんでした。お気分を悪くされたでしょうな」
「い、いえいえ、全然気にしてません」
「ただ――
おじいさんは真っ直ぐフィリーを見た。
――青い血と剣、両方とも持っていいのは、国と王を守る軍人貴族のみ。そうでないなら、青い血を捨てるか、剣を捨てるか、どちらかを選ぶしかない。……そうは思いませんかな?」
おじいさんの言葉に、一瞬、周囲が静まり返る。
「…………肝に銘じておきます」
「そんな顔をしないでくだされ。わたしももうこんな年齢です。明日にはあなた方のことを忘れているかもしれない。でも、またお会いすれば思い出せるでしょう。あなた方に暇ができた時、ひょっこりまたこの店を訪ねて
下されば、嬉しいですな」
「……良い服をありがとう。また来ます」
服屋を出た後、無言でズンズン歩いていくフィリー。その歩き方はちょっと荒々しくて、買ったばかりの服が入った紙袋が一歩毎にフィリーの足に当たる。が、そんなことはお構いなしに、フィリーはどこかへと向かってい
た。
ボクはただその背中を追っている。
「フィリー、どうしたんだ?」
歩き続けていたフィリーがやっと止まった場所は、コルト町の西側にある広場だった。
ここは、先日、フィリーと一緒に夕飯を食べた場所だ。(そして、フィリーがお酒を飲んで酔っ払った場所でもある。)
フィリーはボクに背を向けたまま、無言で剣を抜き放ち、右腕を振り下ろすように一閃する。足元の草は刈られ、石は割れた。
「ねえ、ストナード」
「なんだ?」
「あなたは剣を持ってないけど、……土魔法で即席の剣を作れるわよね?」
なんか嫌な予感がするぞ。
「あ、あぁ、作れるけど……。それがどうかしたか?」
「お願い、私と打ち合ってくれないかしら? どうしても今、剣を振りたい気分なの」
「……本気?」
「手加減はするわよ」
いやいやいや、手加減なしのフィリーさんと剣で戦うとか自殺行為でしょ。
「全身の皮膚に白魔法の防御膜を張るが、それでもいいな?」
「もちろん」
フィリーのお願いを断れないボクは、土魔法で剣を作り、構えた。
「いくわよ。闘気は使わないでおくわね」
「ああ」
「はああああああっっ!!」
フィリーは一直線に打ち込んできた。
「ひっ!」
これ絶対本気だろ!?
考えながら対処したのでは追いつかない速度で肉薄するフィリーを全力で抑えこもうと、反射的に踵に力が入る。
しかし、互いの剣が絡み合った瞬間――
――ボクはきりもみしながら吹き飛んだ。
そして、地面に衝突した。
防御膜のおかげで負傷はしてないが、とめどないフィリーの鬼気を感じて全身が震える。
「ストナードっ! 剣の構えを解いちゃダメよ!」
「分かってるさ!」
一瞬で起き上がり、フィリーに対して剣を構える。
その刹那、こちらに踏み込んできたフィリーの剣を何とか受けとめると、その重みで足が地面へめりこんだ。
「ぐあああっっ!」
剣を持つ腕の筋肉が悲鳴を上げる。
闘気を使ってないのに、この威力っておかしいだろ!?
腕が千切れそうになるが、必死で耐え、フィリーに回し蹴りを放つ。
「甘いわね」
「うわあっ!」
回し蹴りをしようとした足は届かず、逆に足首を掴まれて、体を捻られる。
そのまま地面に倒れたボクの体にフィリーが圧し掛かり、容赦なく寝技の型を極めてきた。
「……私の勝ちね」
「ああ、降参だ」
ボクが敗北を認めると、フィリーは寝技を解いて、地面に寝転がった。ボクは地面に倒れたままだったから、顔を横に向ければ、フィリーの横顔がある。
「ちょっと気分が晴れたわ」
「そりゃよかった」
「いい運動だったわね」
「え? 今のって運動か?」
「そうでしょ? 他に何があるのよ」
単なるイジメでしょ。ボク、サンドバック状態だったじゃん。
「フィリーって運動好きだよな。海でもはじけてたし」
海ではボクを投げ、陸ではボクを痛めつけ…………あれ、ボクの扱い……。
「でも、普段の修行に比べたら、運動量は圧倒的に足りないわよ?」
「そりゃ、フィリーにとってはね。ボクにとっては十分過ぎる運動量」
「そんなだから、ストナードの剣はへなちょこなのよ」
「面目ないぞい」
「明日からは、日課として私と剣の打ち合いをしましょう」
「死んじゃう」
「死にません。ストナードは剣豪とかに憧れないのかしら?」
「ボクは魔法使いの方が向いてると思うしなぁ。闘気も使えないし」
「反論できないわね」
「本音言えば、剣も使えるに越したことはないけど。でも、ボクは魔法の方が得意で、フィリーは剣技の方が得意。魔物と戦ったりする時も、2人で上手に連携できるだろうから、あんまり焦りとかはないんだよな」
「……呑気な人ね」
「かもな。でも、フィリーと一緒なら何とかなるだろうと思うよ」
「…………」
「…………」
フィリーは黙ってしまった。
ボクも、何も言わない。
しばらくの沈黙の後、フィリーは口を開いた。
「……ねえ、ストナード」
「何だ?」
「さっきの服屋……たしかミランって名前の服屋さんのおじいさんがおっしゃっていたこと、覚えてる?」
「いや、フィリーに対して何か言ってたが、正直さっぱり覚えてない」
「そう……」
そんな溜息混じりの声は、さっきまでよりいくらか澄み切った声色だった。フィリの首筋に浮いた透明な汗の粒が、地面をうっすらと覆う黄緑色の草の輝きを反射する。
「ストナードから見て、私って貴族っぽいかしら?」
「さあ? どうだろう?」
「曖昧な返事ね」
「ボク、貴族とか知らないからな。会ったことないのに、フィリーが貴族っぽいかどうかなんて、分かんないだろ」
「会ったことないの?」
「ないよ。ボクのいたノルモン島に、貴族階級なんてなかったからな」
「そうなの」
「もちろん、貴族階級がどんなものかは、大人から教わったから知ってるけど」
「貴族の定義:平民から搾取するのが仕事――みたいなかんじかしら?」
「そこまでネガティブじゃなかったよ。ただ、貴族じゃなくても生きていけるなぁ、とは思ったかな」
「そりゃそうよ」
「でも、剣はどうかな?」
「え?」
「誰もが剣を必要とするわけじゃない。……でも、今のフィリーは、剣がなかったら生きていけないだろ?」
「…………何よ……あなた、あのおじいさんの言ってたこと、ちゃんと分かってるじゃない」
フィリーはそっぽを向いた。
ボクは貴族なんて知らない。会ったことがないから。
でも、フィリーの仕草の一つ一つが洗練されているってことは分かる。価値観が、どこかボクと違うことも分かる。その貴族という身分が、フィリーを離さない“何か”を持っていることも分かる。その“何か”は、フィリーの
生き様の上に、堅牢な楔としてそびえ立っている。
だけど、フィリーは捨てなければならない。貴族としての考えも、素振りも、何もかも。
フィリーの志の先は、家の復興でも己の立身でもなく、復讐であるからだ。
そして、ボクはフィリーが好きだから、その復讐に手を貸す。
「気にすることないだろ。こんなデリカシーのない男と一緒に旅をしてれば、いつの間にかフィリーは過去を捨てきった復習の鬼になってるよ」
「……鬼はいつしか理性すら失って、仲間のあなたも食い殺す。そんな愉快な結末もあり得るわね」
「その時は、ボクのキスが理性を目覚めさせるんじゃないか?」
「え? …あなたのキス?」
「なんで嫌そうな声!?」
「冗談よ、ふふ」
フィリーは静かに笑う。
声を漏らさずに楽しげに息を震わせた後、フィリーは「でも」と、落ち着いた声で言った。
「――でも、復讐の鬼として死ぬのって、一番望ましいのではないかしら? 何もかも捨てて生を終えるなんて、いかにも貴族趣味じゃないもの」
「……」
「……」
辛気臭い空気になってしまった。
「……」
「……」
「……なあ、フィリー」
いかめしい声で話しかける。
「何?」
「おっぱい触っていい?」
数瞬の間の後――
「…………は?」
フィリーの表情が抜け落ちた。
「……あ、あの、ストナード、もう1回言ってもらっていいかしら? 聞き間違えたと思うから」
「フィリーのおっぱい触りたい」
「…………」
「…………」
固まってしまったままのフィリーの顔が、とてもおかしなことになっている。
「…………」
「…………」
いかん、フィリーの表情がおかしすぎて、……堪えられない……。
「……ぷ、ははははははっっ!」
とうとう我慢できなくなって、笑い声を上げてしまう。
フィリーは理解が追い付いていないようだったが、笑い転げるボクを見ているうちに、段々とその白い肌が紅潮してきた。
「あ、あなた……私をからかったわね?」
「いやー、フィリーといると楽しいな」
「……フンッ!」
フィリーはそっぽを向いた。
拗ねて唇を尖らせたフィリーが可愛らしくて、また笑ってしまう。
うん、やっぱり、フィリーとボクは、深刻な雰囲気よりも、こういうふざけ合っている方が似合っていると思うんだ。
その後、フィリーとボクは旅に必要な道具や香辛料を買いに、再びショッピングストリートに行った。
ボクがからかったせいで、すっかり拗ねてしまったフィリーをなだめながら。
一通り必需品を買い揃えたら日が暮れたので、コルト町で夕飯を食べていくことにした。
行き先は、ワグドさんが経営するアクアコルト亭だ。ワグドさんには、ボクが初めてコルト町に来た時にお世話になったし、お礼の意味合いも兼ねて顔を出しておきたかった。
アクアコルト亭は、ワグドさんの人格の賜物か、温かみのある優しい店だ。
夕食を食べ始める頃には、なだめ続けたかいあってフィリーの機嫌も直っていた。
そう、楽しい、穏やかな時間が、流れているはず、だった。
「おかしい、お酒は頼まなかったはずだ。どうしてこうなった?」
お酒は注文しないよう、注意していたはずだ。
しかし、いつの間にかテーブルの上に酒瓶が3つほど転がっている。
「ストナード君、これ、おいしいよ? 君も飲みたまえよ」
「あ、どうも恐縮です」
コップを掲げると、フィリーが小麦色の酒を注いでくれた。
フィリーは完全によっぱらって、大口を開けて笑いながら酒を呷る。まるっきり酒豪の様相で、白いはずの頬は真っ赤に染まっている。
「いやいや、かしこまることないよ。このフィリー・ナピアとストナード君の仲じゃあないか! さあ、一口飲んでみたまえ」
「…っ! なんだこの酒! 強すぎないか!」
「そうかい? はっはっは! さ、もう一口飲みたまえ」
「もうやめとくよ」
「なんだとー! 私が注いだ酒じゃダメなのかー?」
「ダメじゃないけどさ。料理も食べようよ」
「それもそうだな! ほら口開けろ。はいあーん」
フィリーが、トマトを突き刺したフォークをボクに向けてきたので、口を開ける。
的が外れ、トマトは口に入らず、そのフォークはボクの頬に突き刺さった。
「痛い痛い!」
「おっと、すまない! 手元が狂った」
「これからは自分で食べることにする!」
「ぶーぶー、つれないぞー! もっとかまえよー! 冷たいぞー!」
「冷たくないって。愛してるって」
「えー、ホントかなー?」
「本当だよ」
酔ったらまるで別人だな、フィリーは。
まぁ、素面のときも、酔ってるときも、どちらも魅力的だけどさ。
「どうだかなー。ストナード君は奥手だと思うのだよ」
「奥手?」
「そうさ。もしかして自覚してなかったのかね?」
首を縦に振る。
フィリーには事ある毎に、自分の想いを伝えているし、決して奥手ではないと思うが。
「女を抱きに来ることで、男は想いを伝えるものじゃないか? 伝統的なやり方の一つとして」
「ん? それって、夜這い?」
「そう、それだ。二人で一緒に朝を迎えて、想いが通じ合っていれば、ハッピーエンド」
「朝になっても通じ合わなかったら、どうなるんでしょうか?」
「男から誠心誠意の謝罪、これしかないだろ! バッドエンドだけどな。はっはっは!」
「そんな危ない賭けには乗れないぞ!?」
「男女の仲というのは、常に賭けの如き腹の読み合いだろうに、何を言っているのやら」
「格言っぽいこと言ってるけど、納得はできない!」
「まあ、そういう情熱的なアプローチが好みの女性もいるという話さ」
「フィリーも、そういう情熱的なのがいいのか?」
そうならば、ふっ、ちょいと強引な手段もやぶさかではない。
いや、むしろ大歓迎だ。
「私はプラトニックな交流から始めたいかな」
「真逆じゃん! さっきまでの話、全然参考にならないじゃん!」
「はっはっは! さあ、これでも飲んで落ち着きたまえ」
注がれたお酒を一気に飲んだ。
「うむ、その思い切りや良し!」
フィリーは酒を飲んだらまるで別人だが、どちらにしてもボクはフィリーに遊ばれている気がする。
楽しいけどね。
「酒ばかり飲んでないで、ほら、これ食べろよ。おいしいぞ」
「じゃあ、ストナードが食べさせてくれ」
「……ほら、口を開けて」
「あ~ん」
フィリーとボクは、夜遅くまでアクアコルト亭で騒々しくしていた。