月は朧に陽は西に
「はい、預かりもの。今回の指令だって」
紘春は、妹の多香子から、ぎくりとしながら文を受け取った。
多香子は帝の妃……中宮さまに仕えている女房だ。まったく気乗りしないので、面倒そうに眉をひそめて文を開く。
指令とは、裏の仕事の依頼だろう。この手の文、頂いて楽しかったという記憶は皆無。
案の定、紘春の予想は当たった。
文に使われている紙にはやさしい香りがたきしめてあり、字も素晴らしくうまいし、筆づかいや墨の濃淡など、趣味のよさが窺える。文句のつけようがない。はっきり言って、憎らしいほど恐れ多く、最上級な文だ。
問題は、内容。
「やはり、この件か。また、出動とはな」
「がんばってくださいね、兄さま」
多香子に見送られて、紘春はとぼとぼと退出した。
時は平安の世。
春爛漫の、京の都。
当年十七の紘春をはじめとする、蔵人所の三人は大の音楽好き。
『天駆ける音楽を奏でる、三人の若君』
宮中ではそんなふうに、仰々しく呼ばれていた。
きらびやかすぎてくすぐったい、名をつけるならばもう少し控えめなものがいいのに。紘春は常々そう考えているが、これに代わるよい名がさっぱり思い浮かばない。
指令の文をぞんざいに袂へと挟んで、紘春は帰路を曲げて寄り道をする。残りのふたりのもとへ、早く文を読ませに行くことにしたのだ。
ふたりは兄弟だ。
普通の貴族の若君ならば、姫獲得に熱心で、首尾よくいけばさっさと他家へ婿に入ってしまうご時世なのに。この兄弟といえば、元服を済ませた後もなお、居心地のよいぬるさに浸ったまま、お気楽な実家暮らしを続けている。
ま、人のことをとやかく言えたものではない。紘春も独身。
同じような身分、同じような家格。同じ職場の仲間。
兄弟の邸の者に先導されて、健の部屋に赴く。
そう広くはないがこざっぱりとしたこの邸は、いつ訪れても明るくて心地よい。
「またか」
ざっと文を一読するなり、健は不敵な笑みを浮かべた。やんごとなきお方からの文だと知りつつ、ぽいっと床に放り投げるのは、この都じゅうを探しても、健だけだろう。
健は、紘春よりもひとつ歳下ながら、圧倒的な音楽の才に恵まれていた。音の神に愛されていると言うべきか。高音から低音までを自在に操る声と、斬新な作曲の技量で、宮中の者を虜にしている。健にはひそかに憧れる女人も多いのに、本人はさっぱり知らん振り。根っからの天然児なのだ。
「樹は」
「釣殿。かすかに笛の音が聞こえるだろ。あっちなら、話を人に聞かれる心配もない。移動しようか」
健は紘春を促した。
向かった先は、池に面した建物の先端。母屋からは半独立し、ふだんは宴などに使われている。壁などの仕切りがないので、直接外気が吹き抜けるから、春のうららかさを実感できる場所だ。そのぶん、冬は寒いので誰も近寄らないが。
「紘春が来たよ」
樹はようやく笛を止めた。
「相変わらず稽古熱心だな。樹は」
「僕は天才肌の兄上と違って、努力家型だから。毎日練習に励まないとね」
池に泳ぐ鯉が、ちゃぽんと跳ねて、姿を見せる。
のどかな昼下がり。
紘春は微笑む樹にも文を見せた。こちらは、昨年の終わりから宮仕えをはじめたばかりの少年。素直ないい弟だ。思わず護ってやりたくなるような、ふわふわとした幼さを残している。
「うん、聞いたことあるな。二条の大納言家でも、姫が意識不明なんだってね。眠ったまま、起きてこない」
「源内大臣家の姫も」
「春日の宮の姫も」
「……右大臣家の姫も」
三人は指折り、噂を数えてみた。実は、指令が出る前から、気にかかっていたのだ。
都の貴族の邸では、次々と年若い姫が倒れるという、怪異が起きている。関係性があるのかないのかはっきりしないが、中には意識が戻らないまま、死んだ姫もいるという。
みな、結婚前で、身分も高い純然たる箱入り娘。入内を噂されている者も、数人含まれていた。
「外聞が悪いから、いまだに事実を隠している家もあるかもしれないな」
とりあえずといった格好で、健は会話に加わるが、表情は『面倒なことになった』と訴えている。
「これは、何かあるに違いないぜ」
紘春は年長者らしく、盛り上げようとするが。
「でも、また何でも屋のように使役されるのは、こりごり」
樹も、できれば巻き込まれたくない厄介ごとが持ち込まれたとあって、憂鬱そうだ。
「……確かに」
この蔵人所に勤める三人、実は音楽に秀でているあまり、これまでにも除霊や悪霊払い、雨乞いなどを行わされた。今回のように多香子経由で、やんごとなきお方から指令されてはその都度、音楽をかき鳴らしては都を襲う憂いを鎮めてきたのだ。
「笛が役に立つ。稽古にもなるだろ、樹」
無理に話を進めようとする紘春だが、樹は抵抗。
「僕は霊が怖い! 紘春や兄上よりも、鮮明に見えるんだよ。無念そうな表情とか、現世に残した思いとか、はっきりとね」
本気で怯えているが、健はそれを許さない。
「それだけ音色が神がかっているってことだ、物事は好意的に捉えろよ。やんごとなきお方も、お前の笛に大きな期待を寄せているんだ」
「そうだな。まずは、もっとも難関そうな右大臣家から行ってみるか」
紘春は虚勢を張って立ち上がる。最初に自分から動かないと、兄弟は力を貸してくれそうない。
三人は、重い足を右大臣家にゆっくりと向けることにした。
まず先触れの者を出して、三人の訪問を申し入れようとしたが、すぐにしょぼくれて帰ってきた。右大臣家では誰も取り合ってくれなかったのだという。
仕方なく、直接赴いてみると右大臣邸は大騒ぎ。陰陽師の祈祷だの、僧侶の読経だの、天に届きそうなほど大量の護摩をもうもうと焚いている。
確かに、三人の来訪など受け入れる余地はないようだ。
「……煙い」
空を見上げて、健がひとこと。ごほん。と、咳もひとつ。
「神頼み、か」
紘春も諦めた表情で護摩の行く先を見つめた。
どうせ直接深窓の姫に会って、事情を聞けるわけではない。しかも相手は倒れているのだから。
そっと邸内の様子を窺って、健はひとり勝手に踵を返した。
紘春はそんな健を目ざとく誰何する。歳上という立場上、三人をまとめる役に就かされてはいるが、紘春は本来、気が短い。
「おい、どこへ」
「帰る。昼寝」
この仕事、健はどうもやる気が出ないらしい。目をしばたかせて、欠伸。軌道に乗るまで、輪をかけて時間がかかる性質をよく知っている、紘春が諭す。
「もう、昼寝って時間でもないぜ……じゃあ、ほかの邸も回りながら帰ろうか」
姫が目覚めないという知らせがあったほかの邸もまわってみたが、どの邸もひっそりとしていた。
「天下の右大臣家が、姫救助に優秀な人材を集めてしまったんだね、きっと。目覚めるならば、あれだけ護られている右大臣家の姫君だよ」
樹は納得したように頷いたが。
「いや」
健はふたりを見た。
「どの邸も、桜が一向に咲いていない」
確かに、今年の桜は蕾が膨らんでいるにもかかわらず、咲く気配がなかった。
紘春が、傍らに植えてある桜の木に手のひらを当てる。
桜の幹は、冬の朝の空気のように冷たい。
「そういえば、うちの木もまだ咲いてなかったな。でも健、それが今回の事件と、どう関係があるんだ」
「さあ。知らん。ただ、気がついただけだ」
日も暮れかけて寒さが出てきたので、この日は解散となった。
宮中で、三人がそれぞれ仕事をこなしていたとき。その報せは入った。
「兄さま、尚侍さまがぁ」
正装の唐衣裳装束……いわゆる十二単で、取り乱して蔵人所に騒々しく入室してきたのは、紘春の妹・多香子だった。
ここ蔵人所は、帝の秘書的な事務仕事を担っている役所だ。機密事項も多く扱うから、職員の結束力もある。三人が、音楽を職務とする雅楽寮ではなく、蔵人所に籍を置いているのは『あの者たちを是非そば近くに』との、やんごとなきお方の指示によるもの、らしい。
「おい、裾が翻っているぜ。顔も丸見え。まったく」
紘春は多香子のはしたなさを諌める。多香子はあわてて口元を袖で隠した。
「それでどうしたんだ、一体」
「後宮で、尚侍さまがお倒れになったきり……一向に目を覚まさないのです。魂を抜かれてしまったみたいに。ふっつりと」
「なんだって」
紘春は健と樹のいるほうを振り返った。ふたりとも手を止めて、紘春と多香子を見守っていた。
「まさか、巷で起きている姫君の事件と関係が」
樹は顔を青くした。
「緊急事態だ。尚侍さまの端近に、案内できるか」
健は多香子に問うと、かすかに多香子は頷いた。
三人の上司である蔵人頭は事情を知っているので、素早く目配せを送ってくれた。
いくつもの廊下を渡って、三人と多香子は尚侍が住まう貞観殿の殿舎近くに辿り着くことができた。
ここは後宮。しかも身分が高くない三人は、おおっぴらに姿を現せない。紘春が四人を代表して、息を殺しつつそっと、部屋の中を覗く。
女たちの衣擦れの音がさやさやと静かに響く。お付きの女房たちが、しきりに代わる代わる尚侍の名を呼びかけているが、尚侍は目覚めないらしい。
重苦しい雰囲気に、紘春は首をすくめた。
「いつもはもっと、活気があって、華やかなのに」
多香子がうろたえるのも無理はない。
「倒れたのはいつだ」
「ええと、昼前……だったかしら。『今年はなかなか桜が咲かないわね』って話をしていたらしくて。こちらの女房が騒ぐから何事かと様子を見に来たら、お倒れになったというのよ」
「また、桜か」
この局にも、しだれ桜があるが、枝が下向きに垂れているばかりで、やはり花はない。
健は低く歌を口ずさんだ。この人、考えごとをするとついつい唇から歌がこぼれる。
そんな健の様子を見て、紘春は健がこの事件に興味を持ちはじめていることを察して、ひそかにくすりと微笑んだ。
「樹、この近くに面妖な気配はあるか」
兄に問われ、樹は匂いを嗅ぐように顔を上げた。心なしか、青ざめている。体が震えて、歯もかみ合っていないようだ。
「ここに来た瞬間から、感じてるよ。それほど、濃い気配じゃないけど……うん、あっちに続いている」
樹は西の方向を、指ですっと示す。
一斉に、三人が立ち上がったところ、狭い廊下の隅では無理があったらしく、勢いで樹が壁に頭をぶつけてしまった。
「痛っ!」
はっと警戒するも、時すでに遅し。
「あれ。そこに誰か、いらしゃりますの?」
殿舎の中から声をかけてきた女がいた。
紘春と健は樹の口を抑えながら、西に向かう。
「多香子。あとは任せた。何かあったら報告に来い。こっちも探索を続ける」
駆けている途中で、多香子が出てきた女房に言い繕っている様子が確認できた。
紘春を先頭に、急ぎ足。門をくぐり、後宮を抜けて内裏も離れて西へ西へ。
頭を打って涙目になっている樹を宥めすかし、案内させる。
着いたのは、宴の松原。
だだっ広い、ただの空間。本来は火災など、もしものときのために、内裏建替え用地として確保されていたが、すっかりただの空き地と化している。その寂しさゆえに誰も寄りつかないし、夜は何かが出るという話も後を絶たない。
ここにも蕾をふくらませた桜が幾本か植えられているが、どれも開花していない。
「あれ。途絶えた」
樹は我に返った。
「おい、途絶えたって」
「おかしいな。ここまでは確かに続いていたのに」
「ちゃんと追ったのか」
健は喧嘩ごし。
「もちろん。だんだん濃くなってきたんだよ。でも」
「ならば、この辺に隠れているっていう算段になる」
「ええっ!」
樹は子どものように頭をかかえて顔を隠した。
不満そうな健は桜の木と木の間を用心深く徘徊する。しかし、この天才肌の職人には残念ながら、あやしい気配を感じ取る力までは備わっていなかった。
紘春も現場の土をえいえいと踏みしめたり、木によじ登ったりもして異常を発見しようと努めたが、なにも見つからなかった。
「ま、いつまでもここにいても仕方がない。宴の松原が妙な気配の終点。一応、覚えておくか」
「……それで、宴の松原まで行ったのですか」
「ああ。手がかりはなかったがな」
その夕方。情報の提供がてら、紘春は妹の局に立ち寄った。
「尚侍さまは、まだ倒れたままだそうです」
多香子は貞観殿から出てきた女房をうまく使って、話を聞き出していた。
尚侍は寝ているような状態が続いているらしい。息はしているが、起きてこない。倒れたというほかの姫君と同じ症状だ。
ためらいがちに多香子は話す。
「実は。最近、あの場所に人魂が飛ぶって言う噂が、後宮で流れていて。それと関係があるかもしれませんね」
「なるほど」
紘春は頷き、今回の事件に思いを馳せた。
すっかり日暮れてから、紘春は宴の松原に兄弟の召集をかけた。
先ほどまで顔を出していた月が雲の背後に隠れる。少し、霧もかかってきた。
本日二度目の宴の松原。
あまり気持ちのよい場所ではない。皆が避けて通る場所だ。
濁った空気が低く滞留しているのが、紘春の肌にもじわじわと伝わってくる。
紘春は琵琶を手に、しばらく兄弟を待った。
闇が濃くなったころ、樹を引きずるようにして健が現れた。樹はかわいそうに、半泣き状態。
「兄上、やめましょうよ。ここ、ただならぬ匂いが」
「だから。俺らがそれを払うんだろ。観念しろ。怖かったら、早く終わるように祈りながら、笛でも吹いてな」
ぐすん、樹は目じりを潤ませながら、口をへの字に曲げた。袖で顔を拭いている。
こうやって怒鳴られながら成長したのかと思うと、弟のいない紘春には、樹が少々気の毒になった。
あんなに面倒くさがっていた健が、あやしい気配に触れたとたん、事件に対して身を乗り出した。
「やるか」
「いや、しばらく気配を待つ。最近ここに、人魂が飛んでいるって噂があるらしい」
健の早急な提案を却下した紘春は、ぼん、と琵琶をかき鳴らした。
ぼうん。
紘春の低い琵琶の音は、朧月夜に吸い込まれる。
冴え澄んだ空気のもとで弾く琵琶は、神がかっていていると讃えられるのだが、今夜はやや鈍い音が響くだけだった。
それでも紘春は琵琶を鳴らした。
桜の木の枝が、わずかに揺れたような気がした。
いや、風か。
かすかなゆらぎが頬を撫でる。
言葉にこそ出さなかったが、琵琶の音色に樹が笛を合わせた。敏感な樹は、何かを悟ったのだろう。
横笛と、琵琶の音が、薄闇に吸い込まれては消える。
紘春が健を横目で見やると、健はじっと一本の桜の木を鋭く睨んでいた。
「その木。何か、あるのか」
健は紘春のほうを向かずに答える。
「いや。ただ……」
「ただ?」
「お前たちの奏でる音色を聞いて、泣いているように見えたから」
そうつぶやくと健は歌い出した。
今夜は悲しいほど切ない、声だった。
隣で琵琶を弾いていても、身が切られるような息苦しい思いに襲われる。
反対側を見れば、樹はぽろぽろと涙をこぼしていて、洟をすすりながら笛を吹いているから、うっかり涙をもらいそうになる。
いっそう霧が濃くなった、そう感じたとき、目の前の桜の幹の真ん中から、何かが出てきた。淡い桜色の物体が細くたなびく。
「ひ」
びっくりした樹が笛を取り落としそうになる。
「樹、続けろ。皆、一緒だから」
紘春は力強く援護した。
出てきた何かは、弱々しいがちかちかと妖しく光りながら、桜の幹のまわりをぐるぐると回る。
やがて、人らしき影になり、空中から三人を見下ろした。
誰かの魂、だろうか。
『我を追うのは、そなたたちか』
魂はことばを喋っているわけではないが、声が直接三人の心に届く。
「ああ。都を騒がしているのは、あんたか」
恐れもせずに健は真正面から訊く。
『追うな。私は憎い』
「憎い? 誰が」
不審に思った紘春も、口を挟む。
『幸せそうな姫が憎い。東宮さまのもとへ上がるのは私だったのに、どうしてどうしてほかの者が』
「東宮さま? 皇太子のことか。だったらまだ、元服前の少年なのに」
『それがどうした、東宮さまは私のだけもの』
「おい、東宮さまだっていずれは、何人もの妃を後宮に招くに決まっている。その自信と、思い上がりはなんだ」
健は魂相手に喧嘩を売った。
とっさに、紘春は今年になって東宮の後宮へあがることに内定していた高貴な姫が、倒れたまま亡くなったという話を思い出した。
これが姫の成れの果てか。
「お前さんが事件の発端か、姫」
人の形をした影は、ゆらめいた。
『黙れ、ただ人の分際で。私は東宮妃内定の身ぞ』
未練を残し、憑く先が結ばれなかった東宮その人ではなく後宮入りを囁かれる姫たちとは、いかにも女らしい思考ではないか。
『桜が咲けば、私は元服を終えた東宮さまのところへ行くことになっていた。それなのに、なぜ、病で。桜など、いっそ咲かなければいい。花が開かなければ、誰も入内などできないでしょう。姫だろうと、尚侍だろうと』
現世では姫の姿をしていた魂は、都の桜という桜が咲かないようにと咒をかけた。強い、負の念に引きずられて、姫たちは倒れたのだろう。たぶん、桜の木を見上げたときに。
「そうか。それで、年若い姫だけでなく、後宮の尚侍さままで」
樹がひとりごとのようにつぶやいた。
本来、尚侍という役職は、帝に仕える高級事務官だったが、いつしか妃にもなりうる職となっていた。尚侍を経て立后した姫もいる。
「しかしなぜ、この木だったんだ」
『この木は、由緒ある桜。我が邸の桜は、ここの桜を接ぎ木したという。いわば、我が桜の先祖。東宮さまが住まわれる殿舎にも近い』
紘春はその執念にぞっとした。
が、あくまで健は魂送りの相手としか見なしていない。無意識のうちに、頬には小さな笑いを浮かべている。
「早世した姫には悪いが、こっちの時間はあんたの死後も流れているんだ。個人的な遺恨で、流れを止めてもらっては、困る。あんたの愛しの東宮さまも『今年はなかなか桜が咲かない』と、たいそう嘆いていたさ」
魂は震えた。
『東宮、さまが?』
それは紘春も樹も初耳だったので目を見開いた。健が合図をする。即興の創作らしい。
よくよく考えれば、それなりの身分でしかない健が、東宮と親しく語れるはずがない。魂だけになった者を向こうにまわして、嘘をつくとは。肝が冷えた。
しかし、この嘘は意外に効果的だったようで、明らかに魂はうろたえている。光っていた影が薄くなる。
霧も晴れてゆく。月の姿が雲間から次第に現れた。
『とうぐうさまが……東宮さまが、桜を』
「無理をするな。俺たちが、あんたを無事に送ってやる」
健は甘い声で歌をはじめた。
やさしい歌い声が身に融けて、しみてゆく。
あわてて、紘春と樹がそれに楽器を合わせる。
歌いながら、健は桜の木を縫うようにして歩く。一本ずつ、幹を撫でながら。そのあとをおとなしくついてゆく、姫の魂。
ぽん。
ぽんぽん。
ぽん、ぽぽん。
はじけるように花が開いた。
ひとつ咲きはじめると、あとは洪水のように次々と開いた。
紘春と樹は息を飲んだ。
月の光を受けて、薄紅の花はまぶしいほどに輝く。
不覚にも見とれそうになるから、懸命に琵琶を弾いて気を引き締める。隣の樹も同じだったらしく、目を合わせてふたりは苦笑した。
やがて桜は一斉に花弁を散らしては踊りながら、姫の魂を乗せて空に上がっていった。花という花が、音色と共に天に還る。
桜の花の、階。
姫の魂は確かに、行くべきところへ送られた。
魂送りは成功した。
「莫迦者っ! 都じゅうの桜を一夜にして咲かせたのはいいが、それをすべて散らせてしまいおって! やんごとなきお方も『今朝は起きたら、花という花が散っていて、花見ができなかった』と残念がっておられたぞっ。私は、頭を下げるばかりだったぞ」
翌日。
紘春をはじめ、三人は上司の蔵人頭にさんざん叱られることになった。
蔵人頭の額に浮き出ている青筋の本数を数えて、紘春はひたすら謝った。本来ならば、花の盛りはとうに終わっている季節。花見ぐらい、どうにでもなるじゃないかと本心を押し隠しつつ。
それでも、蔵人頭は表情をあらためてひと息つくと、任務の完了を言い渡した。
「ま。姫君方や尚侍さまは、無事に意識を取り戻したようだ。ご苦労だった」
それを聞くと、真っ先に健が生返事で退出した。険しい表情で蔵人頭が呼び止める。
「健っ!」
「私には、最後の供養が残っていますので」
健は宴の松原に走った。残るふたりも続く。
「やんごとなきってだけで、本当の依頼主は知らないのに、さんざんな言われようだな」
けれど、三人はなんとなく感じている。
藤原宗家の御曹司である蔵人頭さえも低頭するしかない、指令の主を。多香子の手を経て送られてくる文の主を。
この都を統べる、あのお方だろうと。
蔵人頭は都の桜がすべて散ったと言っていたが、実は一本だけここに満開のまま残っている木がある。
姫の魂が憑いていた木。
一晩経ってどうなったかと気を揉んでいたが、桜はわずかに散りはじめた程度で無事だった。薄い紅色が、幾重にも折り重なって、はかない情緒を生み出している。
健は今夕、姫の供養のためにと無礼にも東宮を文で呼び出していた。来るかどうかはわからない。読んでもらえたかさえ、確かめていない。
しかし、放っておけなかった。
散った花びらを踏みしめながら、健は満開の桜のもとに進んだ。
「東宮さまの妃候補なら、まだ若かったんだろうなあ。最初に入内する姫は歳上が選ばれることが多いけど、なんと言っても東宮さまは元服前だもんな」
姫の魂も生意気だったけど、小さい姫相手にしては自分の態度も辛口過ぎたかなと、健は少しだけ反省した。
届け。
なにも知らない東宮に。
短い命だった姫の魂に。
一晩で散った都の桜に。
健は歌い続けた。
届け。
さりげなく、紘春と樹も楽を奏でる。
三人の奏でる音楽は、月が浮かびはじめた夕闇空に消えてかけては、いつまでも流れた。 (了)
最後まで読了ありがとうございました。
感想がありましたら、お聞かせください。