第6話 空が裂けて古代龍が降りてきた
辺境文書整理係の小さな事務所は、いつも薄暗くて埃っぽかった。
俺は今日も山のように積まれた古い書類の前に座り、深いため息をついた。
翻訳が必要になるような書類なんて、ほとんどない。ただ「分類して棚に戻す」だけの単純作業が延々と続く。
不遇職の現実が、毎日じわじわと染み込んでくる。
「はあ……本当に翻訳家なんて、役立たずだな」
心の中で呟くと、すぐに脳内から明るい関西弁が飛び込んできた。
「ちゃうちゃう! ユウマくん、そんな落ち込んでへん? 辺境は静かでええやん! あたしとゆっくりおしゃべりできるし、誰も邪魔せえへんし! それにこの家、キッチンも広そうやし、異世界料理の練習にぴったりやで~!
ほら、今日こそカレー作ろうや! この世界の小麦粉と香辛料でルー再現できるはずや! 唐揚げも絶対作ろう! 鶏肉に塩コショウして小麦粉まぶして揚げるんやで! たこ焼きは鉄板さえあれば……ユウマくんが作るの想像するだけでお腹すいてきたわ~! あたし毎日新しいレシピ提案したるから! 絶対に美味しくなるで!」
リリが勢いよくまくしたてる声が、頭の中で止まらない。
俺はペンを動かしながら、心の中で小さく苦笑した。
この女神、本当に暇人だけど……そのおかげで毎日が少しだけ明るい。
仕事がようやく終わった頃、事務所のドアが勢いよく開いた。
「ユウマ! 今日もお疲れ~!」
桜井花音が栗色のポニーテールを元気よく揺らして飛び込んできた。
中央文書課からわざわざ辺境まで来てくれたらしい。
彼女はいつものように笑顔全開で、俺の机に両手を突いて身を乗り出してきた。
「私、仕事終わりに毎日来ちゃうよ! ユウマの家、すぐ近くだし! 一緒にご飯食べよう! 今日何作るの? 私、手伝うよ! ねえねえ、早く帰ろうよ!」
花音の活発な声が、埃っぽい事務所に明るく響き渡る。
彼女は俺の腕をぐいっと引っ張りながら、目をキラキラさせて待っている。
脳内ではリリが大はしゃぎだった。
「花音ちゃん来たで~! かわいいわ~♡ ユウマくん、ええ感じやん!」
俺は書類を片付けながら、自然と口元が緩んだ。
不遇職の毎日だけど、この女神と花音がいれば……まだ全然マシだ。
花音に腕を引っ張られるまま、俺たちは辺境の小さな家へと歩き始めた。
夕陽がオレンジ色に染まる道は、静かで少し埃っぽい。
事務所から家までは徒歩で十分くらい。辺境らしいのんびりした風景が広がっている。
「ユウマ! 今日も書類山積みだったでしょ? 大変だったね! でも私、毎日来るから一緒に頑張ろうよ! 仕事終わりにご飯作ろう! 私、卵焼きくらいならできるよ! ねえ、ユウマは何が食べたい?」
花音は俺の横をスキップしながら、元気いっぱいに話しかけてくる。
ポニーテールが跳ねるたびに、彼女の笑顔がまぶしい。
脳内ではリリがさらに調子に乗って長々と話し始めた。
「ほらほら、ユウマくん! 花音ちゃんかわいいやろ? ええ感じやん! それにしても翻訳家でも文官やし、落ち込まんでええで! 辺境は静かでええやん! 誰も文句言わへんし、あたしとゆっくりおしゃべりできるし! ほんでほんで、今日こそカレー作ろうや! この世界の小麦粉と香辛料でルー再現できるはずや! 玉ねぎをしっかり炒めてから……あ、唐揚げも絶対や! 鶏肉に塩コショウして小麦粉まぶして、油でカラッと揚げるんやで! たこ焼きは鉄板さえあれば……ユウマくんが作るの想像するだけでお腹すいてきたわ~! あたし毎日新しいレシピ提案したるから! 絶対に美味しくなるで! それに文官になったんは偉いんや! 不遇職でもユウマくんはあたしの推しNo.1やし、絶対楽しくなるわ!」
リリの関西弁が頭の中で止まらない。
俺は歩きながら心の中で小さく返した。
「リリ、お前本当に毎日同じ話だな……」
「ちゃうちゃう! 毎日進化してるで! 昨日はカレーのスパイス配合考えてたんや! 今日は唐揚げの衣の厚さを研究中や! ユウマくんが辺境でキッチン作ったら、すぐに実験できるやろ? あたしが全部サポートしたるから! ほら、明日はたこ焼き鉄板の材料探しに行こか? この世界にも似た鉄板あるはずや!」
花音が俺の顔を覗き込んで笑った。
「ユウマ、なんかニコニコしてる! 今日も女神さんと話してるんでしょ? 私もいつかその女神さんに会いたいよ! ユウマの頭の中で毎日楽しそうで羨ましい!」
彼女は俺の腕をさらに強く引っ張りながら、スキップを大きくした。
花音の明るさが、辺境の寂しさを少し吹き飛ばしてくれる。
その瞬間だった。
空が、真っ二つに裂けた。
ゴォォォォン……!
低く重い音が響き渡り、辺境の空全体が紫色の亀裂に覆われた。
地面が揺れ、住民たちが一斉に悲鳴を上げ始めた。
「きゃあああ! 空が……!」
「魔王復活だ! 魔王が来たぞ!」
周囲の家々から人々が飛び出し、パニック状態だ。
遠くの役所の方から、藤原上司の緊急連絡の魔法通信が事務所に飛んでくる音が聞こえた。
花音が俺の腕をぎゅっと掴み直し、前に飛び出した。
「え、ええええ!? ユウマ! 空が裂けてる! 魔王復活!? 危ないよ! 私が守るから後ろに下がって! ユウマは翻訳家で戦えないんだから! 絶対に離れないでね!」
花音の声が震えながらも、俺を背中に隠そうとする。
彼女のポニーテールが風に揺れ、必死に俺を守ろうとする姿がまぶしい。
活発な彼女がこんな時でも「守る」モードになるなんて……少し意外だった。
脳内ではリリが大興奮で叫んでいた。
「これは……! ユウマくん、落ち着いて! あたしが全部説明したる! これは古代龍の降臨や! 女神の触れ込みが効いたんやで! ユウマくん、翻訳家の本領発揮の時来たわ! あたしもうワクワク止まらん! ほら、龍の声が聞こえてくるで!」
空の裂け目から、黒い巨大な影がゆっくりと降りてくる。
辺境全体が恐怖と混乱に包まれていた。
空の紫色の裂け目が、さらに大きく広がった。
ゴォォォォン……!
重く響く地響きのような音とともに、巨大な影がゆっくりと地上に降りてくる。
黒い鱗が夕陽を反射して鈍く光り、金色の瞳が鋭く輝く。
全長は40メートルは優に超えるだろう。翼を広げただけで辺境の空を覆い尽くすほどの巨体。
住民たちの悲鳴が一気に爆発した。
「魔王だ! 魔王復活だあああ!」
「逃げろ! みんな逃げろ!」
遠くの役所からも緊急の鐘が鳴り響き、藤原上司の声が魔法通信で飛び交うのが聞こえた。
辺境全体が恐怖と混乱の渦に飲み込まれていく。
花音が俺の前に飛び出して両手を広げた。
「ユウマ! 危ないよ! 絶対に離れないで! 私が……私が守るから! 龍とか魔王とか、ユウマは翻訳家なんだから戦えないでしょ! 後ろに下がって!」
彼女の声は震えていたが、ポニーテールを振り乱して必死に俺を背中に隠そうとする。
活発で明るい花音が、こんな状況でも「守る」と言い切る姿に、胸が熱くなった。
脳内ではリリが完全にハイテンションだった。
「来たで! ユウマくん! 翻訳家の本領発揮の時や! あたしもう興奮止まらんわ~! ほら、龍の声が聞こえてくる! ユウマくんの能力でちゃんと翻訳してあげて! これが女神の触れ込みの成果やで!」
巨大な龍がゆっくりと翼を畳み、地面に降り立った。
その重みで大地が揺れ、埃が舞い上がる。
龍の低く、重厚な声が辺境全体に響き渡った。
「……ふむ。ここがその国か。
愚痴を聞いてくれる『翻訳家』がこの国にいると、女神が言っておったのだが……?」
その言葉は古代語と魔獣語が混じった複雑なものだった。
普通の人間なら意味など全く理解できない。
でも俺には――翻訳家の能力で――完璧に意味が伝わってきた。
龍は金色の瞳を細めて、周囲を見回しながら続けた。
「わしはヴォルガリス。1000年もの間、誰もまともにわしの言葉を聞いてくれんかった。
若いドラゴンどもは礼儀知らず、雲の味も落ちた……愚痴を溜め込んでおったところじゃ。
女神が『この国に優れた翻訳家がおる』と教えてくれたので、わざわざ降りてきたのじゃが……」
周囲はまだ「魔王復活!」と叫び続けている。
花音が俺の袖を握りしめて震えながらも、目を輝かせていた。
「ユウマ……龍が何か話してる……? ユウマ、わかるの!?」
俺は喉を鳴らしながら、震える声で初めて言葉を返した。
「……えっと、はい。聞こえています。
1000年分の愚痴……少し、聞かせてもらえますか?」
龍の金色の瞳が、わずかに大きく見開かれた。
「……ほう。
おぬし、わしの言葉がわかるのか?」
低く重厚な声が、辺境全体に響き渡る。
周囲の住民たちはまだ「魔王だ!」と叫び続けているが、俺には龍の古代語がはっきり理解できた。
俺は震える足を踏ん張りながら、初めて翻訳家として言葉を返した。
「はい……聞こえています。
若いドラゴンどもが礼儀知らずで困っている……という話、ですよね?
それと、最近の雲の味が落ちたのも、なんだか寂しい……と」
龍の巨大な頭が、ゆっくりと傾いた。
1000年分の愚痴のほんの一部を、完璧に翻訳して相槌を打っただけなのに。
「……ふむ。
久しぶりじゃ。
わしの言葉をここまで正確に、しかも相槌まで打ってくれる者がおったとは……」
ヴォルガリス――通称ヴォル爺と後で呼ぶことになる古代龍の声が、少しだけ柔らかくなった。
金色の瞳に、わずかな驚きと安堵が浮かぶ。
脳内ではリリが大絶叫を上げていた。
「やったぁぁぁ! ユウマくん、完璧や! 翻訳家の本領発揮やで~!
これで物語始まるわ! あたしもう興奮で飛び跳ねてる! 推し活史上最高の瞬間や~♡」
花音が俺の袖を握ったまま、目をまん丸くして俺を見つめていた。
「ユウマ……龍と話してる!? 本気で話してる!?
すごい……ユウマ、ほんとにすごいよ! 私、翻訳なんて全然わからないのに……ユウマが龍様と会話してるなんて! かっこよすぎる!」
花音の声は震えていたが、恐怖よりも尊敬と興奮が勝っている。
彼女は俺の腕をぎゅっと掴んだまま、龍を恐れながらも目を輝かせていた。
龍がゆっくりと翼を畳み、地面に体を落ち着かせた。
その動きだけで風が巻き起こり、辺境の木々がざわめく。
「……わしはヴォルガリス。
1000年、誰もまともに聞いてくれんかった。
おぬしのような翻訳家がいるなら……ここにしばらく居ついてもよいか?」
その言葉に、辺境全体が静まり返った。
魔王復活かと思われた巨大な古代龍が、ただ「愚痴を聞いてほしい」と言っているだけ。
俺は喉を鳴らしながら、なんとか頷いた。
「……はい。
どうぞ、ゆっくりしていってください」
龍の口元が、わずかに緩んだように見えた。
「ほう……久しぶりに心が軽くなったわ。
では、しばらくここに居つかさせてもらうとするかのう」
こうして、辺境の空に巨大な黒龍が居つくことになった。
女神の触れ込みが、全国に広がるのはもうすぐだった。
花音が俺の横で小さく息を吐きながら、でもどこか楽しそうに呟いた。
「ユウマ……これから、ますます面白くなりそうだね」
リリが脳内で大笑いした。
「これからもっと面白くなるで~! 聖獣娘も来るし、龍様の愚痴も山ほどや!
ユウマくん、頑張ってな~♡」
空の裂け目がゆっくりと閉じていく中、俺の異世界生活は、完全に新しいステージへと突入した。




