原石の碧
静香からのメッセージを読んだのは、配信の準備をしている夜だった。
さやかのことを説明する文章、そして「私が何か言ってしまったのかもしれません」という一行。
碧はそれを読んで、少し考えてから返信を打った。
「それは、静香さんにとってどういう意味がありますか。」
送ってから、パソコンを開いた。
今夜の配信テーマを確認した。「自分の声を聞く練習」。
先週から決めていたテーマだった。
こう返せば、静香は自分で考え始める。
碧はそう思っていた。
それが静香のためになると、本当に思っていた。
考えて戻ってきてくれれば。
サロンのためにもなる。
さやかのことは、知っていた。
セッションの後から連絡が減って、交流会にも来なくなった。
碧はそれを、よくあることとして受け取っていた。
セッションは深いところまで入る。
消化に時間がかかる人がいる。
眠れなくなった、という話は静香を通じて初めて知った。
碧はその情報を受け取りながら、自分の中を観察した。
罪悪感があるか。
ある、少し。
でもそれより先に出てきた思考があった。
あの言葉が、さやかには重すぎたのかもしれない。
次はもう少し慎重に言葉を選ぼう。
その思考が出た瞬間、碧は特に疑問を持たなかった。
ただ一瞬だけ、別の考えが走った。
眠れない。会社を休む。
その言葉が、別の記憶を引っ張ろうとした。
スマホの画面に、静香からの未返信が残っていた。
碧はそれを見て、画面を伏せた。
言葉の問題だ。
伝え方の問題だ。
そこをもっと磨こう。
サロンを始めて二年が経つ。
去った人と残った人を、碧はよく見ていた。
怒りをぶつけて去る人がいた。
変われなかった人たちだ、と碧は思っていた。
まだ準備ができていなかったのだろう。
依存したまま残る人がいた。
先週も、深夜に長文のメッセージが来た。
仕事のこと、家族のこと、碧に話したいことが溢れていた。
碧はすぐに返さなかった。翌朝、短く返した。
「頑張りすぎないで、あなた自身を一番優先してね。今でもよくやりすぎているわ。」
返しすぎない。
でも見ている、ということは伝える。
一番よく分からないのは、静かに去る人だった。
ある日突然、名前が消える。
怒りもない、感謝もない、何も言わずにいなくなる。
碧はそういう通知が来るたびに、少しだけ止まった。
聞きたい、と思う。
でも聞かなかった。
善意でやっていることだから。
善意でやっていることに、疑問を持ち込まない方がいい。
頑張っているだろう、と思うことにした。
配信が始まった。
「自分の声を聞く、というのは、誰かに教えてもらうことではありません。
あなたの答えは、あなただけのものです。人の数だけ世界があり、答えがある」
コメントが流れた。
「救われました」「泣きそうです」。
碧はそれを見ながら、話し続けた。
配信中、一人のメンバーのコメントに指が止まった。
「碧さんがいてくれるから、生きていられます」
碧は一秒だけ止まった。
それから、穏やかに微笑んで続けた。
「あなたが生きているのは、あなたの力です。私はただ、そこにいるだけです」
コメント欄が温かい言葉で埋まった。
碧はそれを見ながら、話し続けた。
配信が終わった。
ワインを開けた。
グラスに注いで、ソファに座った。
アーカイブを再生しようとして、やめた。
今夜は再生したくなかった。
さやかの退会通知が来て、静香からの返信はまだなかった。
さやかは静かに去った人になった。
言葉の問題だ、と思った。戻ってきたら伝え方をもう少し考えよう。
でも今夜は、その思考がいつもより少し遠かった。
眠れない。会社を休む。
その言葉が、また引っ張ってきた。
今度は碧は、少しだけついていった。
二十八歳の冬のことを、碧はあまり人に話さない。
会社に入って五年目だった。
営業の部署にいた。
成績は悪くなかったし、報告書は毎回期日通りに出していた。
上司の指示通りに動いていた。
なのに、毎週のように叱られた。
ある日の会議の後、上司に呼ばれた。
碧は何が悪かったか分からないまま、部屋に入った。
上司は資料を机に置いて、言った。
「今まで何を教えてもらってきたんだ」
その言葉が、碧の中で妙な場所に落ちた。
今まで何を教えてもらってきたんだ——親に、先生に、正しくやれば認められると教えてもらってきた。
正しくやってきた。それなのに。
どこが間違っているのか、誰も教えてくれなかった。
碧は自分なりに考えて、また正しくやった。また叱られた。
半年が経つ頃、朝起きられなくなった。
眠れない夜が続いた。
天井を見ながら、私はどこで間違えたのか、と繰り返し考えた。
間違えた場所が見つからなかった。だから余計に苦しかった。
そのころ、SNSで見つけたのが一つのサロンだった。
主宰者は穏やかな女性だった。
碧より十歳上だった。
初めてのオンラインセッションで、碧は二時間近く話した。
途中、何度も泣いた。
次の日、仕事に行けなくなるぐらい。
最後に、主宰者は言った。
「碧さんは、何も間違っていない。ただ、あなたの正しさを受け取れる場所にいなかっただけです。」
その言葉を聞いた瞬間、碧の中で何かが崩れた。
崩れながら、同時に、何かが立った。
全身が、肯定された気がした。
あの感覚を、碧はまだ覚えていた。
ワインを一口飲んだ。
あの主宰者が自分にしてくれたことを、碧は今もやっている。
全身で肯定する。あなたは間違っていない、と伝える。
それが届いた時の感覚を、碧は知っている。だからやめられない。
やめたくない、とも思っていた。
「碧さんがいてくれるから、生きていられます」
さっきのコメントが頭に残っていた。
碧はそれを見て、穏やかに返した。あなたの力です、と言った。
それは本当のことだと思っていた。
でも今夜は、別の問いが浮かんだ。
あのコメントを見て、碧は何を感じていたか。
心配か。責任か。
それとも、必要とされているという感覚か。
グラスを持ったまま、しばらく止まった。
かつて自分を全身で肯定してくれた主宰者は、今も元気にサロンをやっている。
碧が去った時、何と言っていたか。
「頑張ってね」と言っていた。
それだけ?って思った。
碧は少し寂しかった。もっと引き止めてほしかった気がした。
引き止めてほしかった。
その記憶が出てきて、碧はワインを飲んだ。
完成、とはどういうことか。
正しい言葉を見つければ、全員に届くようになるのか。
届くようになれば、何かが完成するのか。
完成すれば、不安は消えるのか。
その問いが浮かんで、碧はスマホを開いた。
来週の配信テーマのメモを開いた。
空欄だった。
そこに文字を打ち込んだ。
「引き止めて欲しい私」
しばらく見ていた。
それから、文字を消して閉じた。




