借りてきた私
碧の配信は、毎週少しずつ静香の中に積み重なっていった。
「お金は循環する。手放すから、入ってくる」
「失敗は一つもない。経験があるだけ。失敗だと考えると後悔になる、経験だと考えると知識になる」
「言葉の定義は人それぞれ。だからこそ、その人にあった言葉で伝えています」
ノートが一冊、埋まった。
ある水曜日の配信の終わりに、碧はこう言った。
「次のステップに進める人と、そうでない人の違いは何だと思いますか。
才能でも、環境でも、運でもない。変えたいと思う自分を信じる力、変える勇気。
損をしたくないですか、バカにされたくないですか。自分への投資を、怖がらないでください。」
静香はその言葉を書き留めながら、少し止まった。
私は怖がっているのか。何に?
個別セッションの告知が出たのは、その翌週だった。
33,333円。画面を見た瞬間、正直高いと思った。
だからすぐ閉じた。
でも「自分への投資を怖がっているのか」という問いが、三日間頭から離れなかった。
四日目の夜、静香は申し込みページをまた開いた。
お金は循環する。失敗は一つもない。すべては経験。
決済ボタンを押した。自分で決めた、と思った。
翌月のカード明細が来たのは、セッションから二週間後だった。
33,333円という数字が、明細の中にあった。
食費、交通費、光熱費、そして33,333円。
並べてみると、この金額だけが生活と違う場所にある気がした。
自分への投資。
しばらく画面を見て、それから閉じた。
お金は循環する、と思った。
碧と一対一のオンラインセッション。
碧は穏やかで、静香の話をよく聞いた。
相槌が自然で、先を急かさなかった。
静香は気づくと、職場のこと、渡辺さんのこと、簿記のテキストのことまで話していた。
途中、静香が言葉に詰まった。
うまく言語化できない感覚があって、黙った。
全部聞いてくれる、全部聞いて欲しい。
碧は何も言わなかった。
促さなかった。埋めようとしなかった。
ただ、画面の向こうで静かに待っていた。
どのくらい経ったか、静香には分からなかった。
実際は二、三分だったと思う、体感は十分ぐらいあったかもしれない。
それだけの沈黙を、碧は優しい表情で待ってくれる。
まったく急かされなかった。私のすべてを受け止めてくれる。
その感覚が、静香には新鮮だった。
誰かに話しながら、急かされなかったのは、いつぶりだろう。
いや、そんなこと経験したことがあったのか。
ようやく言葉が出た。碧はそれをただ聞いた。
通話の終わりに、碧は言った。
「静香さんは、自分が普通だと思ってきた。
でも私には、静香さんが普通であることを選んできた人に見えます。
それは、全然違うことだと思う」
静香はその言葉を聞きながら、何かが少しずれた気がした。
自分はそう言ったか。普通を選んできた、というのは、自分が言いたかったことと同じか。違うか。
ただ、碧の声は温かかった。その温かさが、違和感を飲み込んだ。
「静香さんには、人の気持ちを拾う力がある。
職場でも、誰かが困る前に気づいて動いてきたんじゃないですか。
その力を、もっと広い場所で使えると思います。使命に向かって、少しずつ動いていきましょう」
静香は少し驚いた。
職場での話は、そんなに詳しくしていなかったからだ。
でも当たっていた。
誰かのミスをさりげなく拾う、空気が悪くなる前に話題を変える。
それが自分の癖だということは、自分でも分かっていた。
私のことを見てもらえた、と思った。
セッションが終わり、しばらく画面の暗くなったパソコンを眺めた。
温かいセッションだった。
碧は本当に自分を見てくれていた。そのことは確かだ。
ただ、何かが重くなっていた。
使命に向かって動く。その言葉が、励ましではなく、締め切りのように聞こえた。
使命があるのに、何もできていない。今日も、明日も、できていない自分がいる。
救われた感覚と、新しい焦りが、同じ場所に同居していた。
ぼんやりと考えることがある。
自分の使命は、碧がしていることと同じじゃないか。
誰かに寄り添って、言葉をかけて、その人が少し楽になる。
それができたら、と静香は思った。
誰かを救いたい。
その気持ちは本物だった。
ただ、その奥にあるものは、まだ静香は見ていなかった。
サロンに入って四ヶ月が経つ頃、静香はいつの間にか古参になっていた。
友達もできた。さやかという三十四歳で、静香より少し後に入会していた。
新しいメンバーが入るたびに、静香は交流会でメッセージを送るようになった。
「最初は私もそう思っていました」
「焦らなくていいです。ここは安心できる場所なので」
善意だった。本当にそう思っていた。
ある夜の交流会で、新しく入ったばかりの女性が言った。
「碧さんの言葉、なんとなく分かるんですけど、でも本当にそれでいいのかなって、まだ半信半疑で」。
静香は「そうですね、最初はそういうものだと思います」と答えた。
柔らかく、受け入れるように。
画面を閉じてから、静香はその女性のことを少し考えた。
まだそこまで来ていないんだな、私も最初そうだった。
それが上から目線だとは、気づかなかった。
ここでは否定しない、それが正しいことだと思っていた。
でもその「否定しない」は、相手の言葉をまともに受け取っていないことと、静香の中では区別がついていなかった。
別の夜、古参のメンバーの一人が「碧さんの言ってることって、結局どういう意味なんですかね」と、少し困った顔で言った。
静香は「言葉の定義は人それぞれだから、自分なりに受け取ればいいんだと思います」と答えた。
碧が言っていた言葉だった。その場は和やかに終わった。
ある夜、新しく入ったばかりの別の女性が、交流会でうまく話せずに画面の隅で黙っていた。
静香はチャットで個別にメッセージを送った。
「大丈夫ですよ、私も最初はそうでした」。
少しして、「ありがとうございます」と返ってきた。
画面を見ながら、静香は気づいた。
これは碧さんと同じことだ。
ただ、その気づきは不快ではなかった。
むしろ逆だった。
誰かの役に立てた、必要とされた。
この場所で、自分は意味のある存在だ。
そういう感覚が、胸の奥から温かく広がった。
高揚していた。
静香は私は成長していると嬉しくなった。
その頃から、職場での静香は少し変わっていた。
言葉を選ぶようになった。
人の話を最後まで聞くようになった。
自分でもそれがよく分かった。
ある昼、松田が隣に座った。
「なんか最近、落ち着いたね」
「そうですか」と静香は言った。
今日は、話してもいいと思った。
「実は、オンラインのコミュニティに入っていて」
「コミュニティ?」
「自分と向き合うための場所で。月に一度くらい、配信があって」
毎週と言うと面倒そうだから、そう言ってしまった。
嘘というほどでもない、と思った。
「結構ためになっています」
松田は箸を止めた。
「見せて」
静香はスマホで碧のアカウントを開いて、渡した。
松田はしばらくスクロールした。
「これ、大丈夫?」
「大丈夫って、何がですか」
「なんか、こういうの、引っかかる人多いから」
静香はむっとした。でも抑えた。
「松田さんには分からないと思いますけど」と言って、スマホを受け取った。
松田は何か言いかけて、やめた。
数日後、また昼だった。
松田が弁当を開けながら、前置きなしに言った。
「先日のやつ、検索してみたんだけど。それ、詐欺じゃないの」
静香は箸を置いた。
「詐欺って」
「料金体系、個別セッション、使命、自分への投資。
この組み合わせが典型的なパターンなんだよ。不安を作って、解決策を売る」
「碧さんの言葉を一つも聞いたことないじゃないですか。構造だけ見て判断するんですか」
「構造が同じなら、中身を聞く前に分かることもある」
「人の気持ちにエビデンスなんてないでしょう」
「エビデンスの話じゃなくて、手口の話をしてる」
声が大きくなっていた。
周りの席の人が少し振り返った。
静香は立ち上がって、「すみません、先に戻ります」とだけ言って、食べかけの弁当を持って席を離れた。
自席に戻って、パソコンを開いた。
画面は見ていなかった。
怒りが体の中をまだ動いていた。
松田は何も分かっていない。構造だけ見て、中身を見ない。
スマホに通知が来た。さゆりさんからのメッセージだった。
「今日の交流会、静香さんの言葉がすごく良かったです。新しい方への声かけ、碧さんみたいでした」
静香は画面を見た。碧さんみたいでした。
怒りが、少しだけ和らいだ。
和らいだことに、静香は気づかなかった。
しばらくして、怒りが冷えてきた。
なぜ私はあんなに怒ったのか。
松田の言葉のどこに、あれほど反応したのか。
静香は考えた。詐欺という言葉か、手口という言葉か。
それとも、別の何かか。
答えは出なかった。
でも問いだけが、静かに残った。




