救済のサロン
田村碧のプロフィールには、これまでの投稿がまとめられていた。
静香はその朝、出勤前の三十分をそこに使った。
投稿はどれも短かった。長くて五行、短いものは二行。
「やらねばならないことより、やりたいことをする。それだけで、人生はかなり変わる。」
「正解を探すのをやめたとき、はじめて自分の声が聞こえた。」
スマホをいったん伏せた。それからまた開いた。
誰かに話したいと思った。
私も、自分の声を聞きたいと思った。
碧の言葉は断定しなかった。
「かもしれない」「ではないでしょうか」「そう感じる人もいます」。
静香はその曖昧さが、なぜか信用できると感じた。
自信満々に正解を語る人より、一緒に考えようとしている人に見えた。
プロフィールの末尾に、サロンへのリンクがあった。
月額八千円、クレジットカード払い。
静香はリンクを開いて、説明ページを読んで、閉じ、また開いた。
入会したのは、その週の金曜日の夜だった。
最初のオンライン交流会は、入会から三日後だった。
画面の中に、十二人の顔が並んだ。
三十代から四十代くらいの女性がほとんどで、一人だけ男性がいた。
静香は自分のカメラをオンにするかどうか迷って、結局オンにした。
司会は碧ではなく、古参メンバーだという女性だった。
落ち着いた声で話す人で、さゆりさんと自己紹介した。
新しく入会した静香のため、メンバーが簡単に自己紹介をしてくれた。
「子どもがいなくて、ずっとどこかで罪悪感があったんですが、ここに来て楽になりました」と言った人がいた。
三十八歳だと言った。画面の向こうで何人かが頷いた。
静香は声に出さずに、私もです、と思った。
自分の番になった。名前と年齢と、東京で事務の仕事をしていること。
それだけ言った。
「よろしくお願いします」と言うと、画面の中の顔がいくつか微笑んだ。
その微笑みが、妙に温かく感じ嬉しかった。
自己紹介が一周したあと、静香と同じく新しく入ったばかりだという女性が、少し遠慮がちに手を挙げた。
「あの、先週の配信で碧さんが言っていた『焦りは反応でしかない』という話なんですが、
焦って行動した方がいいこともあるんじゃないかと思って……」
画面の空気が、ほんの少し固まった。
さゆりさんが、穏やかな声で言った。
「いい気づきだと思います。ここでは、焦りに答えを渡さない練習を優先したいんです」
女性は「そうですね」と言って、頷いた。
画面の中の顔が、また笑顔に戻った。
静香もつられて頷いた。
答えを急がなくていい。その言葉が、すとんと落ちた。
疑問を言った女性が間違っているとは思わなかった。
ただ、さゆりさんの優しい声の方が、今の静香には心地よかった。
会が終わって、パソコンを閉じた。
胸のあたりが、少し軽かった。
翌週から、碧のライブ配信の視聴も始めた。
毎週水曜日の夜九時。
静香は仕事から帰るとすぐに夕食を済ませ、パソコンの前に座った。
碧は画面の中で、いつも穏やかだった。
早口にならず、沈黙を怖がらなかった。
ある夜、碧はこう言った。
「焦りは内から来る。でも出所は、外にある。だから焦りは悪くない。ただの反応です。
普通という檻の中で、正解を探してきた。その疲れは——あなたが自分自身に戻るための、産みの苦しみかもしれない」
静香はノートを開いて、それを書き写した。
書きながら、肩から何かが少しずつ抜けていく気がした。
コメント欄に言葉が流れた。
「ずっと職場で普通を演じるのに限界でした。碧さんの声だけが、帰りの電車で頭の中に残ります」
「義母に言われた『まだなの?』という言葉が、碧さんの言葉を聞くたびに少し薄くなります。
碧さんがいなかったら、私はどうなっていたか」
「外でこの話を否定されると、すごく腹が立ちます。本当なのに。」
静香はコメントを打たなかった。
でも画面を見ながら、ここにいていい、と思った。
その感覚は、久しぶりだった。
碧は配信が終わると、すぐにワインを開けた。
グラスに注いで、ソファに座り、アーカイブを再生する。
自分の話し声が部屋に流れる。
私は正しいと思っている。かつて自分も同じようなサロンにいた。
そこでこの考えに出会って、救われた。
長く張り付いていた「遅れている」という感覚が、少しずつ剥がれていった。
だから発信を始めた。動機は本物だった。
ただ、確信があるかと聞かれると、そこで一瞬止まる。
自分が救われたからといって、同じ言葉が全員に届くとは限らない。
その隙間が、ワインを飲み終えても埋まらなかった。
今月、三人が退会した。理由は分からない。
通知だけが来て、名前が消えた。
スマホに決済の通知が入っていた。新規入会、二名。
見て、伏せた。
良かった、と思った。
ただそれだけが、今夜確かなことだった。
翌日の昼、松田が静香の隣の椅子を引いた。
「最近、なんか違くない?」
松田は弁当の蓋を開けながら言った。
静香より五歳上で、同じ部署に七年いる。
話すのはたいてい昼か、帰り際の五分程度だ。
趣味が登山だということ、日経を毎朝読むということは知っている。
「そう?」と静香は返した。
「顔が違う。なんか、ある?」
静香は少し考えた。
話したい気持ちと、話したくない気持ちが同じくらいあった。
言葉にした瞬間に、何かが変わる気がした、良くない方に。
「特にないですよ」と静香は言った。
松田は静香の顔をもう一秒見て、「そう」と言って弁当に箸をつけた。
それ以上は聞いてこなかった。
静香のポケットでスマホが震えた。
松田の視線が、一瞬だけそこに落ちた。




