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普通の私

水野静香が「普通」という言葉を初めて重く感じたのは、中学二年の三者面談のことだった。


少なくとも、思いだせる記憶の中では。


担任の片岡先生は、小太りで眼鏡をかけた、悪意とは無縁の人だった。


母の隣に座った静香に向かって、先生は言った。


「水野さんは普通だから、この辺の高校に行けば大丈夫ですよ、頑張ればそれなりの大学も狙えますし」。


励ましのつもりだったのだろう。本人は笑顔だ。


母も「そうですね」と頷いた。


「私もそう思います」と静香も頷いた。


三人とも笑顔で、面談は五分で終わった。




その夜、布団に入ってから静香は面談を思い出す。


面談はたぶん上手くいった、だって三人とも笑顔だったから。


でも先生の言った言葉が何度か頭の中で繰り返す。


普通。普通の高校。水野さんは普通。


大丈夫、悪口は何も言われていない。


私は怒ってないし、悲しくもない。でも何かが引っかかって、眠れなかった。


翌朝、引っかかりは消えていた。




それから二十年が経った。


静香の机の引き出しの奥に、簿記二級のテキストが入っている。


三年前に買って、半分まで読んだ。


今も時々思い出すが、開いたことはない。




昼休みに戻ると、机の上に小さな紙袋と手紙が置かれていた。


渡辺さんからだ。


結婚を機に地元へ戻るため、今月末で退職する、と以前聞いていた。


紙袋の中には、有名な洋菓子店の焼き菓子が一つ入っていた。


手紙には丁寧な文字で、お世話になりましたと書いてあった。


最後に小さく、「静香さんみたいに、ずっと自分らしくいられる人が羨ましかったです」と添えられていた。


静香はその手紙を二度読んだ。


自分らしく。その言葉が何を指しているのか、よくわからなかった。


それは褒め言葉というより、私が何も変えてこなかった証明みたいに見えた。


だから、渡辺さんの方が正しい気がした。


よくわからないまま引き出しに手紙をしまった。


焼き菓子はそのまま袋から出して机の隅に置き、午後の業務の合間に包みを開いた。


口に入れて、噛んで、飲み込んだ。


包み紙を丸めてゴミ箱に捨てた。


甘かったはずなのに、舌の上に残ったのは粉っぽさだけだった。


帰りがけにトイレに寄って鏡を見ると、特に何でもない顔をした自分がいた。


いつもの私に戻っていた。


いや、ずっとこの顔だったのかもしれない。


そんなことを考えながら、事務所を出た。






その夜、静香は横になってスマホを眺めていた。


渡辺さんが引っ越し準備の写真をSNSに上げている。


段ボール箱と、窓から見える夕焼け。


いいねを押した。


押してから、なぜ押したのかを一瞬だけ考えた。


おめでとうと思っているから押した。


それは本当、でもそれだけではない気もした。


スクロールを続ける。


大学の同期が子どもの写真を上げている。


去年会った友人が旅行の写真を上げている。


誰かが誰かと結婚したという投稿、誰かの子どもが誕生日を迎えたという投稿。


静香はそれらに順番にいいねを押しながら、画面を下へ下へと流していった。




写真の笑顔を見ているうちに、三者面談を思い出した。


先生も、母も、私も、笑顔だった。あの日に似てる。




ふと、見知らぬアカウントの投稿が目に止まった。


アイコンは淡い水色で、名前は「田村(あおい)」とある。フォロワーは二万人以上いる。


投稿にはこう書かれていた。


『笑顔で合わせてきた人へ。 普通に生きてきたはずなのに、足りない気がする。


その感覚には理由があります。それはあなたが欠けているからではありません。


そのことを、一緒に考えていけたらと思っています。』


こういうやつか、と思った。


根拠もなく都合のいいことを言って、不安な人を集める。


私は騙されるような人間ではないと思っていた。


それでも一度通り過ぎた指が、吸い寄せられるように戻った。


もう一度読んで、なんとなくフォローした。


プロフィールの固定投稿に、こう書いてあった。


『選ばれた人たちへ。』


静香は、その言葉を声に出さずに口の中で反芻した。


スマホを置いて、電気を消した。


翌朝、通知が一件、田村碧がフォローバックしていた。


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