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アドリアンの言葉が応接室に静かに響いた。
「……エリス、お前は俺にとって何だったのだろうな」
彼の声は迷いを孕んでいた。それはまるで、自分でも答えを探しているような響きだった。
エリスは、ゆっくりと紅茶を置く。
「それをお知りになりたくて、わざわざお越しになったのですか?」
アドリアンはすぐには答えなかった。ただ、思索するように視線を落とし、考え込んでいる。
「……そうなのかもしれない」
「そうでしたら、お力になれず申し訳ございませんわ。私もまた、殿下が私にとって何だったのかを、未だに考えている最中ですので」
エリスは淡々と返しながら、手元の扇を軽く開いた。そして、ふと思い出したように言葉を継ぐ。
「ですが、恋愛小説によれば、こういう場面では大抵、女性が涙ながらに訴えるそうですわ」
「……なんだ、それは?」
「『あなたにとって私は何だったの?』と、泣きながら問いかけるのが定番のようです」
アドリアンは一瞬、ぎこちない顔をして、それから苦笑した。
「お前がそんなふうに言うとは思えないな」
「ええ、私もそう思いますわ」
二人の間に、わずかに柔らかな空気が流れた。
エリスは穏やかに扇を閉じながら、静かに彼を見つめた。
「殿下、少しはご自身のことを振り返られました?」
「……そうだな」
アドリアンは背もたれに体を預け、ゆっくりと息を吐く。
「俺は、お前が当然そこにいるものだと思っていた」
「それは私も同じです」
「それなのに、お前がいなくなった途端、どうしてこんなに落ち着かないのか、正直、わからなくなった」
エリスはその言葉を静かに受け止めた。
彼の動揺は、本当に「恋」なのだろうか? それとも、ただ「当然のものを失った不安」なのだろうか?
「殿下、それは『私がいなくなったこと』への違和感ですか? それとも、私個人へのものですか?」
アドリアンの表情が固まる。
「……その違いは?」
「もし前者でしたら、殿下が私でなくとも誰か別の者が傍にいれば解決することになります。後者でしたら、それは恋の始まりかもしれませんわ」
エリスは言いながら、自分でも驚いていた。
いつの間にか、彼との会話が「恋」を前提としたものになっている。
それは、何冊もの恋愛小説を読み、自分なりに「恋とは何か」を学んだ結果なのかもしれない。
アドリアンは少し黙り込んだまま、考え込んでいる。
「……お前にしか、この感覚を抱いたことはない」
その言葉に、エリスの指がかすかに動いた。
彼の何気ない言葉が、恋愛小説の甘い囁きのように響く。
——この方、やはり恋愛小説のセリフを知らずに口にしていらっしゃるのでは?
エリスは静かに紅茶を飲みながら、ふと思った。
アドリアンのこの言葉が、本当に恋なのか、それとも単なる執着なのか——それを知るのは、もう少し先になりそうだ。
「……殿下、しばらくお茶でも飲みながら、ゆっくり考えてみてはいかがでしょう?」
エリスがそう言うと、アドリアンは少し驚いた顔をしたが、やがて口元に微かな笑みを浮かべた。
「そうだな」
二人は、まだ答えの出ないまま、同じ空間で静かにお茶を飲んだ。
けれど、何かが少しずつ変わり始めていることだけは、確かだった。




