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翌日、公爵邸の門前にアドリアンの姿があった。
「殿下が……?」
使用人から報告を受けたエリスは、思わず本を閉じた。
恋愛小説漬けになっていたせいで、彼女の頭の中は情熱的な愛の言葉と、燃え上がる恋の駆け引きでいっぱいだった。まさかその余韻が冷めぬうちに、王太子本人が訪れるとは思わなかった。
応接室に案内されると、アドリアンはソファに腰掛け、落ち着かない様子で部屋を見回していた。
「お待たせいたしました、殿下」
エリスが丁寧に挨拶すると、アドリアンはふっと視線を向けた。
「……すまない、突然訪ねて」
「いえ、ご用件は?」
「いや、特に用はない」
「……は?」
思わず聞き返した。
「用はないけれど……会いたくなったんだ」
エリスは、まばたきをした。
——会いたくなった?
その言葉が、脳内でじっくりと反芻される。
この数日間で読んだ恋愛小説たちが、彼女の記憶の中でざわめいた。
「愛しい人よ、ただ君の顔を見たくて……」
「理由なんてない。ただ、君を求める心がここにある」
「君に触れたくて、君を感じたくて、俺はここへ来た」
そんなセリフたちが、頭の中を駆け巡る。
エリスはゆっくりと扇を閉じた。
——何? 私、先を越されているのでは?
何冊もの恋愛小説を読破し、ようやく「恋とはこういうものかもしれない」と理解し始めたばかりの彼女よりも、アドリアンの方が先に「会いたくなった」と口にしてしまった。
こんなに長い間、恋とは何かを考え、書物で学んでいたというのに——。
「……それは、恋愛小説に出てくるような台詞ですわね」
思わず口からこぼれた言葉に、アドリアンは不思議そうに眉を寄せた。
「恋愛小説?」
「殿下、まさか知らずにおっしゃいましたの?」
「……いや、俺はただ、そう思ったから言っただけだ」
エリスは、微妙な敗北感を覚えた。
まさか、恋愛をまったく知らないまま王宮で育ったはずの王太子が、無意識に恋愛小説のヒーローのような台詞を口にしてしまうとは。
「……意識せずとも、そういう言葉が出てくるのですね」
「なぜ、そんなに驚いているんだ?」
エリスは静かに息を吐いた。
「殿下、私は今、恋愛について勉強中なのです」
「勉強……?」
「ええ、恋愛小説を読んで。愛とは何か、恋とはどういうものなのか、ようやく理解し始めたところですわ」
アドリアンは目を丸くした。
「……お前、そんなことを考えていたのか?」
「当然でしょう。私はこれまで恋を知りませんでしたし、殿下も同じではありませんか?」
「いや、俺は別に……」
言いかけて、アドリアンは自分が何を言おうとしているのかに気づいた。そして、少し考え込んだあと、ぽつりと呟く。
「……俺も、知らなかったな」
「でしょう?」
エリスは少し安心した。やはり、彼も同じなのだ。ならば、先を越されたわけではない。
そう思ったのも束の間、アドリアンがぼそりと口にした。
「でも、お前がいなくなって、やっとわかったことがある」
エリスは、手の中の扇を強く握った。
その言葉——まるで、恋愛小説のクライマックスでヒーローが言うセリフでは?
「……殿下、もしかして、その言葉は意識して言いました?」
「いや、ただ思ったことを言っただけだが」
エリスは、なんとも言えない表情で彼を見つめた。
——本当に、先を越されているのでは?
ようやく恋というものを学び始めた彼女をよそに、アドリアンは無意識のうちに恋愛小説の主人公のようなことを言っている。
納得できない。
「……殿下、もし恋愛小説をお読みになるなら、ぜひご一緒にいかがでしょう?」
思わずそう提案してしまう。
アドリアンは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに「いや、それは遠慮しておく」と断った。
「ですが、私だけが学んでいるのでは不公平では?」
「……お前が学んだことを教えてくれればいい」
エリスはしばらく彼を見つめた後、小さくため息をついた。
「では、殿下はもう少し、ご自分の言葉に意識を向けてくださいませ。無意識にそういうことを言われると、こちらが困惑いたします」
「……そんなものか?」
「ええ、私が先に気づくはずだったのに」
「何に?」
「恋とは何かに、です」
そう言ったとき、エリスはようやく気づいた。
彼が「会いたくなった」と言ったことが、なぜこんなにも気になったのかを。
彼女の中で、何かが少しだけ動き始めたのかもしれない。




