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エリスが公爵家へ戻って数日が経った。
静かな書斎の中、彼女は机に向かいながら、目の前に積まれた本の山を見つめていた。
——恋愛小説。
表紙には華やかなドレスに身を包んだ貴族令嬢と、彼女を見つめる麗しき騎士や王子の姿。どの本も、愛の言葉や情熱的な関係を描いているらしい。
エリスは、ため息をつくように扇を閉じ、本の背表紙を指でなぞった。
「……さて、どれから読むべきかしら」
そもそも、恋愛というものが何なのか、彼女は知らなかった。婚約とは義務であり、王太子妃とは国の未来のために務めるもの——それだけを信じて生きてきた。
しかし、両親の反応は彼女の考えを揺るがせた。
「エリス、お前は……婚約を“役目”としか考えていなかったのか?」
父である公爵は、驚きと戸惑いを隠せない様子だった。彼はこれまで、娘を王太子妃にふさわしい女性に育てるために尽力してきたが、この結果を知り、強く後悔していた。
母もまた、涙ぐみながら言った。
「あなたがそんなふうに思う子になってしまったのは……私たちが早くに王宮へ預けたせいね」
王宮での生活を優先し、家庭で愛を教える機会を持たなかったことを、今さらながら悔いたのだろう。
エリスは、その姿を見て胸を痛めた。
——私は何かを間違えていたのかしら?
けれど、それを考えるためには、まず「恋愛とは何か」を知らなければならない。
だからこそ、彼女は思い立ち、大量の恋愛小説を取り寄せたのだった。
扉がノックされ、侍女が顔をのぞかせる。
「エリス様、追加の書物をお持ちしました。今朝届いたものです」
「ありがとう」
机の上にさらに積まれる本。表紙には、熱烈な告白を交わす貴族たちや、ドラマティックな運命に翻弄される恋人たちが描かれている。
エリスは、一冊手に取ると、そっとページをめくった。
「熱く交わされる視線、胸を締めつけるこの想い——これは恋……?」
静かに目を動かしながら、エリスはゆっくりと物語を追った。
愛とは? 恋とは? 王太子妃として生きていた彼女が、初めて知ろうとする世界。
けれど、この大量の書物が、彼女の答えを導き出すのかどうか——それはまだ、誰にもわからなかった。
エリスは書斎の奥深くにこもり、積み上げられた恋愛小説の海に沈んでいた。
机の上には開きかけの本、床には読みかけの書物、ソファには手に取ったものの内容に飽きて放り出した本——どれもこれも、情熱的な恋愛や劇的な運命に満ちた物語だった。
「彼の瞳は私を映していた。まるで夜空に瞬く星のように——」
「あなたしか見えない、この想いをどうしたらいい?」
「どんな運命が待っていようとも、私はあなたを選ぶ!」
エリスはため息をつきながら、本を閉じた。
——そんな大袈裟なこと、現実にあるのかしら。
恋愛小説というものは、こうも情熱的でなければならないのだろうか? どうやら、恋というものは胸が締めつけられたり、相手の仕草一つに心乱されたりするらしい。そんな経験、これまで一度もなかった。
彼女は視線を遠くに向けた。
アドリアン。
——彼と目が合っても、特に何も感じなかった。
——彼の言葉に胸が高鳴ったこともない。
——彼がレイナと仲睦まじくしていても、嫉妬したことはなかった。
ならば、これはやはり愛ではなかったのだろう。むしろ、彼がレイナを選べば、自分は王太子妃という立場から解放され、こんな恋愛の研究という苦行からも解放されるのではないか?
「……そうよね」
ふと、呟いてしまった。
もしアドリアンがレイナを選び、正式に婚約解消となれば、自分はもう王宮へ戻る必要もなくなる。それなら、無理に恋愛を理解する必要もない。
「彼がレイナを選べば、私にこの苦行は不要では……?」
思わず出た言葉に、エリスは本を持つ手を止めた。
それは、心からの本音だった。
けれど、それなのに——。
なぜか、すんなりと納得できない自分がいることに気づいた。
本当に、それでいいの?
王太子妃という立場から解放されることを望んでいたはずなのに、なぜかその結論に違和感を覚える。
エリスは手の中の本をじっと見つめた。
「……私、何を考えているのかしら」
恋愛の概念すら知らなかった彼女が、初めて自分の感情に疑問を持った瞬間だった。




